2017年9月29日金曜日

本当のマイノリティと、押し付けられる「生き辛さ」

 
 今日は、「生き辛さ」のお話を。


 ハッキリ言って、私も生き辛い。

 “生き辛い人” というのは、マイノリティだと考えて、お


おむね間違いではないでしょう。

 このブログに書いてあることは、はなはだ一般的では無


い。明らかに私はマイノリティだ。故に、生き辛い。

 だけど私のマイノリティ性は、“ものの見方”、“価値感” 


 については大きく在るけれども、身体的な能力や、人種・

宗教上の事柄などでは問題にならない。



 一口にマイノリティと言っても、さまざまな事柄があっ

て、多くの人がなんらかの意味でマイノリティの部分を持っ

ているだろうと思う。それが、「生き辛さ」になるのは、社

会的要請の強い事柄についてマイノリティになってしまって

いる場合ですね。

 要するに〈普通〉か、どうか。



 〈普通〉って、マジョリティの事ですもんね。普通は

 でも、この〈普通〉が怪しい。

 〈普通〉が曲者です。

 〈普通〉は本当にマジョリティか?

 そもそも〈普通〉は実在するのか?


 マジョリティが存在することは確かです。それぞれの事柄


ごとには。

 けれど、雑多な事柄で出来ているわたしたち人間は、だれ


でも、マジョリティ性とマイノリティ性をを持っている。だ

ったら、トータルに見れば誰も〈普通〉じゃないし、〈普

通〉でなくもない。いったい、誰が〈普通〉なの?


 自分が〈普通〉であると思う事で、安心したい人がいっぱ


い居るんだね。

 だから、自分がマジョリティ側に回れる場面で、マイノリ


ティを「普通じゃない」と区別して、自分の〈普通〉を確認

する。マイノリティをダシにするわけですね。

 まぁ、「自分が〈普通〉であると思う事で、安心したい」


という人はいっぱい居るんだから、そういう意味では確かに

〈普通〉ですよね。“凡庸” というんだけど。


 マジョリティに回りたい人って、“凡庸” なんですね。

 言葉の意味からして、そのままなんだけど、「たまたまマ


ジョリティ」の人と、「自分からマジョリティ」の人とでは

意味が違う。

 「たまたまマジョリティ」の人は、自分がマジョリティで


ある事に特別な価値を見ていない。一方、「自分からマジョ

リティ」の人は、マジョリティに価値を見出しているからこ

そ、「自分から」“マジョリティ” なんですね。

 いったい、なんだって自分から “凡庸” になりたいんでし


ょうか? “凡庸” にどんな価値を見出しているのでしょう

か?


 「普通が安心」というのはわかりますよ。お天気だって、


普通がいい。料理だって、見慣れないものを出されたら手を

出し難い。

 けれど、〈普通〉を生み出すのは、「安心できる、安全な


立場」を手に入れる為に、誰かを “普通じゃない人” に仕立

て上げる姑息さです。

 自ら求める〈普通〉は、姑息で凡庸です。

 ですが、凡庸を求めている訳ではない。自分が凡庸だなん


て事には気付いていないだけでしょう。けれど、自分の姑息

さは無意識にしろ自覚していて、その自己嫌悪をマイノリテ

ィに投影する。ロクでもないね。


 しかし、“ボロカス” ですね。

 でも、“ボロカス” に言ってもいいでしょう。自分がマイ


ノリティになっていじめられたり、損したりしない様に、他

人をマイノリティに仕立てて、自分は「普通という人ごみ」

に隠れる。セコくて、凡庸で、憐れです。



 そりゃあね、時代によってはマジョリティに回っておかな

いと、命が危ないという事だってある。国が大きく乱れてい

る時とかね。そんな時は、仕方がないとは思うよ。人は弱い

ものだし、私だってそうするだろうと思う(その代り、自分

に言い訳をし続ける事になるけれどね)。けれど、そんな極

端な状況でもないのに、マジョリティに回ろう回ろうとする

のはセコ過ぎる。



 私の感じでは、どんな事柄であっても、マジョリティの中

の5~6割は「自分からマジョリティ」の人間だろうと思

う。日本語だと、《烏合の衆》ですね。

 だけど、そうなると実際のマジョリティ(たまたまマジョ


リティ側の人)は、全体の3割ぐらいしか居ないはずだか

ら、「どこが、マジョリティなんだよ」という話になってし

まう。

 マジョリティとマイノリティ  〈普通〉と〈普通じゃな

い〉  の対立を生み出しているのは、実は「自分からマジ

ョリティ」の、姑息な連中なんですね。この手の人間が居な

ければ、たぶんマイノリティの問題は起きない。「生き辛

さ」はそれほど大きくならないでしょう。だって、数による

圧力が無くなるか、半分以下になるでしょうから。



 具体的な命の危険が無いのなら、マイノリティであること

に問題は無いでしょう。むしろ、堂々とマイノリティである

ことが、安全をもたらすと思います。なにせ、「自分からマ

ジョリティ」の連中は姑息な弱虫ですし、「たまたまマジョ

リティ」の人は、自分に特段の価値を覚えていません。

 マイノリティに圧力をかけてくるのは、自分が “マジョリ


ティ側” だとアピールしたい《烏合の衆》の方です。そいつ

らは姑息で弱虫だから、マイノリティが堂々としてたら逃げ

て行くし、「たまたま・・」の人は “ただ普通” に接してく

れるはずです。


 ただ、ここで大事なのは「堂々とする」在り方ですね。

 「何が悪い!」なんて自意識過剰になって、 “弱者の論


理” みたいなものを振り回すと、それまで何とも思ってなか

った「たまたま・・」の人から、「あいつら、なに偉そうに

てるの・・」と反感を持たれてしまいます  居るでし

ょ、メンドクサイ “フェミニスト” のオバサンとか。


 「堂々とする」というのは、「おまえ、○○だろ!」と言

われた時、「えっ。それが何か?」と思えるということです

ね。そうすると、「たまたま・・」の人達は何とも思ってい

ないから「堂々としている」し、マイノリティ側も「堂々と

している」ので、この両者が「堂々としている側」というマ

ジョリティになります。結果、「堂々としている側」と「姑

息で弱虫の側」に分かれて、“姑息な《烏合の衆》の方が、

マイノリィになる” という逆転現象が起きるわけです。

(ザマアミロ!)
 

 本当のマイノリティは、個人ではなくて、“いつも他人の

目を気にして、人間関係の中を渡り歩く《烏合の衆》” の方

かもしれませんよ。(それはそれで、憐れで気の毒ですが)

 
 わたしたちは、なんらかの事柄で必ずマイノリティに属し


ているはずです。

 誰もが「マイノリティ性」を持っているということは、そ


の一点で “全員同じ” ということです。

 「ひとりひとり違う」という人間の特性は、全人間の共通


項です。

 「違う」ということが、「同じ」を保証してもいます。


 〈普通〉という、ちまちました、つまらない自己弁護が、


世の中を息苦しく、いやらしくしています。

 「100%普通」の人なんていません。

 いたとしたら、その人は「100%凡庸」な人です。

 たぶん、存在感は “ゼロ” です。

 なんだって〈普通〉になんか成りたがる?


 わざわざ〈普通〉になるのなら、そこには無理があるわけ

でしょう? 無理して〈普通〉の側に身を隠しても、それで

守られる「自分」は、無理する前の “自分” じゃない。

 守りたかったはずの “自分” は、もう変質してしまってい

て、無い。


 《 普通の側に身を置こうとする人は

   「自分のようなもの」を渡り歩く、迷子です 》 


 〈普通〉になるより、なるべく〈自分〉をしている方がし

あわせなのは、間違いないでしょう。





 

2017年9月28日木曜日

コーヒーは底から混ぜましょう。


 昨日、「時間は存在しない」とか 言ったり、“永遠” とい

う概念を定義し直してみたりとかしたんですが、中身の合理

性とか説得力とかは別にして、あんな事をただのオッサンが

曲がりなりにも話を出来るんだから、“今” は凄い時代です

ねぇ。


 私なんて、科学とか哲学とか宗教とかを、専門的に学んだ

ことなんて有りませんからね。そこら辺に居る市井の人間で

すから、それがこんな事を考えてるなんて、明治時代とかじ

ゃ有り得ない事だと思うんですよ。

 一般の人間が哲学書を読んだり、科学の知識を得たりする

ことはほとんどなかったはずです。そういう素地がなけれ

ば、私なんかより遥かに頭が良い人でも、「永遠とは・・」

なんて考えようが無い。宗教的知識と体験から、「永遠」に

ついて深い洞察を持っていたとしても、それを表明する方法

はごく限られていたはずです。

 それが今や、基礎教育が充実し、知識はあふれ返り、イン

ターネットまであって、ウィキペディアを開けば、自宅に居

て高度な専門知識も目に出来る。(高度過ぎて理解できない

ことが多いですが)


 私がこんな事を考えられるように、多くの人達が人間の根

源的な疑問だとか、本質的な問題について深く考えられる状

況になっている。これは、人類史上かってないことです。私

でさえ考えて、こんなブログを書いている。世の中にはもっ

と出来のイイ人がいっぱいいるわけだから、そういう話が、

もっと世の中で前に出て来てもよさそうなもんです。

 教育が行き渡り、知識が手に入れやすくなった今。考える

のなら、「人間とは?」とか「生きるとは?」とか「しあわ

せとは?」という事がまず始めに来るべきで、それを明らか

にして、それを踏まえた上で、経済や国の事を考えるのが筋

だと思うんですが、そうはならない。


 何の為の教育?

 何の為の知識?

 何の為のインターネット?

 何の為のグローバル化?

 いつまでも遊んでないで(金儲けという遊びも含まれ

る)、根本問題を片付けたら? そうしたら、ほんとに遊べ

るんじゃない。

 とは言うものの、どうにもならないよね。


 インターネットは、遊びと金儲けにあふれてる。

 大部分は、競争とフラストレーションと自己顕示欲と自己

満足の掃き溜め。(このブログも自己満足なのはたしかだ

ね・・・)

 養老孟司先生が、「コンピューターは、脳の機能を外に出

した物」と言っていましたが、ネットの中身の大部分がそう

いうものだということは、元の「わたしたちのアタマの中

身」がそうだということです。

 ネットの大まかな姿は、わたしたちの平均的な人間像を表

わしているんですね。


 気が滅入って来ますが、社会がどうなるかなんてことは、

社会全体の集合無意識が決めることだと思うので、私にとっ

ては、しょせん話のタネでしかありません。大事なのは、個

人レベルの話です。

 社会の話をいくら議論したところで、カップのコーヒーの

上の方(社会)を、スプーンでぐるぐる掻き混ぜている様な

もので、底の砂糖(個人)は沈んだままです。

 「個人にとって、本当に大切なことは何か?」ということ

をなおざりにしている限り、社会は “苦い” ままでしょう。
 

 というわけで、わたしたちは、個人的にさっさとしあわせ

になっちゃうより仕方がなさそうです。

 社会が良くなるのなんて、待ってたら日が暮れる。いや、

人類が滅びる。


 《 世の中が平和になったら、

      人々に平和が訪れるのではない

   一人一人が平和になって

      はじめて、世の中に平和が訪れるのである 》


 ということですから、個人が自分のしあわせに集中するこ

とが、社会に貢献する事でもあるのです。

 (「しあわせ」と言っても、社会との関係性に依らない

  「しあわせ」ですが)



 はて? 今日は、これ、なんの話なの?





2017年9月27日水曜日

〈永遠の生命〉をさしあげます!


 時間は存在するか?


 〈時間〉というものは、この宇宙には存在していない。

 〈エネルギー〉〈物質〉〈空間〉は存在していると考えざ

るを得ませんが(〈空間〉が存在しているというのも変なん

ですが)、〈時間〉はわたしたちの概念としてあるだけで、

宇宙には存在していない。

 〈時間〉は、わたしたちが物事の変化を定量的に捉えよう

としたために脳に発生した機能であって、脳の外には無い。

 物事はただ変化するだけで、時間が物事を変化させるので

はない。

 「しかし、物事が変化する為には〈時間〉が必要ではない

か? 〈時間〉が存在しなければ、今は永遠に今のままだか

ら、何も変化しないだろう」

 そう思えますが、〈時間〉は存在しないまま変化だけが続

いていてもおかしくはないのです。

 しかし私たちの脳が、変化を見ると、どうしてもそこに時

間を見てしまう様に出来ているのです。


 時計は時を刻んでいるのではありません。

 定量的に動く機械を、モーターやゼンマイの力で動かして

いるだけであって、ただ目盛りの変化を見ているだけです。

〈時間〉の経過を “計っている” のではありません。“物事

の変化” に〈時間〉というラベルを付けているだけです。

 時計の目盛りに合わせながら、「○○年○○月○○日○○

時○分○○秒」と、気になる所に “附箋” を貼り付けている

のです。


 〈時間〉という概念を座標軸として持たないと、わたした

ちは、この世界の中で自分が何処に居るのか分からなくなっ

てしまうので、非常に不安になってしまいます(不安定と言

うべきでしょうか)。


 わたしたちの脳は、〈時間〉という概念を使わないと、も

のを考えられる範囲が非常に制限されてしまいます。逆に言

えば、考えると言う行為が必然的に〈時間〉を要求して、そ

れに応じて脳が〈時間〉を生み出してしまいます。

 そのように、〈時間〉は脳が生み出し、脳が管理している

“スケール” ですが、わたしたちの脳はこの〈時間〉に縛ら

れてしまいます。


 「世界を捉える為に〈時間〉を生み出した」のに、その

〈時間〉を扱いかねて、逆に〈時間〉に縛られてしまった。

 世界を見渡して確認出来るようになった半面、常に〈時

間〉が 、「“変化”  のアラーム」を鳴らしているので、落ち

着くことが出来なくなつてしまったのです。喩えて言うと、

 《川の中でもがいていた人が、〈時間〉というサーフボー

ドの上に立ち上がって、周りの様子を見る事が出来る様にな

ったけれど、足元が不安定で、常に「落ちる恐怖」に苛まれ

ている》

 という感じでしょうか。


 いつも〈時間〉を意識し、〈時間〉が生み出す(ように見

える)“変化” に攪乱され、留めて置くことの出来ない “現

在” というものが、〈無常〉として、わたしたちを脅迫する

ようになってしまった。

 その結果、〈無常〉から逃れる為に「過去」に身を置き

「未来」に手を伸ばすのが習い性となってしまった様です。

 こういうのを、《自縄自縛》というわけですが、憐れなも

のですね、わたしたちは。


 〈時間〉に縛られてしまった、憐れなわたしたちは、〈無

常〉から逃れる術として、〈永遠〉という概念を作り出しま

した。今の状態が終ることなく続けば、〈無常〉ではなくな

ると。しかし、そんなことは有り得ませんよね。

 “変化” を捉えるために〈時間〉を生み出したのですか

ら、“変化” を止めれば〈時間〉も止まってしまい、「〈永

遠〉の時」を刻みようが無い。

 考え方が間違っているのです。
 

 《 〈永遠〉とは、「いつまでも続く」

           ということではありません。

   〈永遠〉とは、この “瞬間” が

           全宇宙に拡がっている事です 》


 わたしたちは、〈時間〉(という概念)を使うから〈無

常〉を見てしまいます。〈永遠〉にあこがれたりします。

 〈時間〉が進んで行く事など無く、現に “在る” この瞬間

が全宇宙に拡がっている、と見たらどうでしょう?(実際、

拡がっていますよね?)

 「〈時間〉の無限性」を求めるのではなく、この瞬間の

「〈空間〉の無限性」に目を向けたらどうでしょう。〈無

常〉は成立しなくなります。

 果てしない宇宙の “果て” まで、“今” が満ちわたってい

て、太陽にも、銀河にも、彼方の星雲や銀河集団にも、太平

洋のクジラにも、南極のペンギンにも、電線のスズメにも、

道端のアリにも、屋根の瓦にも、私のパソコンにも、あなた

や私にも、同じ “今” が満ちているという事実は、あなたの

中に「豊かさ」をもたらさないでしょうか?

 違う意味の〈永遠〉を感じさせないでしょうか?


 私もあなたも、「悟りを開いて、あらゆる迷いから自由で

ある」という様には、なれそうもないですよね。

 ほんの一時、「宇宙に満ちわたる “今”」を意識して、自

分が “在る” ことの「凄さ」といったことを感じたとして

も、それが何時までも続くわけではありません。

 ですが、〈時間〉が見せる「過去」や「未来」が自分を取

り巻いて、「息苦しさ」や「不安」に耐えがたくなって来た

時、「宇宙のすべてが、自分と共に “今” 在る」ということ

を確認出来れば、「過去」と「未来」からの “おせっかい” 

を静まらせて、「ふっ」とひと息つけると思うんですよ。 

 
 〈時間〉は、わたしたちが生み出して、わたしたちの中に

あるものなのに、迂闊に外へ出したばかりに、「追いかけ」

「追い立てられ」「追い詰められ」、わたしたち自身を苦し

めています。まるで、飼い犬に手を噛まれるように。

 けれど、もともと自分が生んだものです。

 飼い馴らして、良い関係を作ることも出来るのではないで

しょうか。




2017年9月26日火曜日

「生存競争」が必要らしい。


 以前はよく山へ出かけた、ということを前に書きました。

 この夏はあまりにも暑すぎて、とても山へ登ろうという気

にはなれなかったけれど、「暑さ寒さも彼岸まで」。やっと

涼しくなって来たので、山へ行こうかなと思っています。


 前にも書きましたが、山(自然)には嘘が無い。

 何も隠し事が無い。

 忖度も懐疑も無いし、競争も無い。

 それが、暮らしの中で、いつも他人の考えを読むことを迫

られるしんどさから解放してくれる。



 独りで行くのが一番いい。

 誰かと行くのなら、まったく気を使う必要のない人とにし

なければいけない。そして、出来るだけ目的を持たずに。

 目標なんて、もってのほか。

 ゆっくりと歩き、気分の良い所を見つけて、小一時間ほど

昼寝をしたら、適当な時間に帰る。


 最近、「トレイルランニング」と言うのか何かしらないけ

れど、山を走り回る「目的志向」の人間が増えて、山の空気

がバタバタ震えるので迷惑している。何をしようと自由だ

し、文句を言う筋合いも無いので、気にしない様に努めてる

が、あんなことは街の中の、人間の縄張りでやってもらいた

いものだ。どうせ、「何時間で走れた」とか自己満足した

り、人と較べたりするのだろう。山の中に競争を持ち込まな

いでもらいたいんだけどね。空気がギスギスしてしまう。

 (えらく悪口を言ってますが、モチロン、人の自由です)


 それはともかく、山の中には “競争” は無いのです。

 「生存競争」と言うけれど、自然界には「生存競争」など

無い、と私は見ています。

 そう思い始めたのは、もう二十年以上も前でしょうか。



 ある日、山の中でひと息ついている時に、何気なく上を見

ると、木々の樹冠が、隣の木と大きな隙間をつくることな

く、且つ重なることなく、見事なモザイク模様を描いていま

した。

 「植物はより多くの光を求めて、早く上に伸びようと生存

競争を繰り広げる」という決まり文句をよく聞きますが、

「あんなのウソだな」と、その時思いました。

 生存競争なんかしていない。

 “それぞれの能力と性質に応じて、空間を分け合っている

だけ” だと。


 その、「樹冠の作るモザイク模様」が生存競争の結果だと

言えば、それでも理屈は通る。そう見れば、そう見える。

 けれど、あの景色を見ると、私にはそう思えない。

 伸びるのが遅くて、他のものの日陰になり枯れてしまって

も、それがその場所で、その植物に相応しい役割だったのだ

と考える。

 あれ以来、他の生き物の姿を見ても生存競争には見えな

い。

 ジガバチが毛虫をくわえて運んでいても、ヒヨドリがセミ

を食べていても、ライオンが逃げ遅れたシマウマの喉に噛み

ついていても、盛りのついた野良ネコが睨み合っていても、

それは生存競争ではなく、“それぞれの能力と性質とに応じ

た役割を果たしているだけ” なんだと。



 「それを “生存競争” と言うんだよ」



 そんな声が聞こえそうですが、さっきも書いた様に、そう

とも言えます。それが間違いとは言えません。

 けれど、そうでは無いとも言えます。結局は、どう見るか

という話しになります。

 私は “生存競争” とは見ません。

 私からみれば “役割分担” です。

 
 同種間でも、異種の間でも、ある局面で優位に立つ者が居

るのは確かです。まったく同じものは、この世に存在しない

ので、比較すればどちらかが優位になるのは当然です。その

当然の事が、あらゆる場所で起っているというだけで、その

事にことさら「競争」というストーリーを持ち込む必要は無

いのでは。


 泥の上に石が落ちれば、泥の方がへこみます。

 “硬さ” で較べれば、石の方が硬いので、当然泥がへこみ

ます。でも、泥は場所を移動しただけで、消えて無くなった

訳では無いし、「それがどしうした?」という話でもありま

す。

 ライオンがシマウマを食べたら、食べられたシマウマは、

ライオンの身体の一部になったり、糞になって排泄されて細

菌や虫の食料になって、菌や虫の身体の一部になったりしま

す。シマウマにあった物質とエネルギーは、「泥」の様に場

所を移動したのです。「シマウマ」という形式から、別の形

式に変わったのですが、それを「競争」と見るのは、もう古

臭いストーリーなんじゃないかな。
 

 あの、見事な “樹冠のモザイク模様” を見て、生存競争に

見えるなら、感性がどうかしている。

 あのモザイク模様は、わたしたちの肺や、身体中に張り巡

らされた毛細血管の様に見える。その毛細血管同士は生存競

争の結果として、その場所に在るのでしょうか? 

 違うでしょうね。それぞれに役目を担って、その場所に落

ち着いたのでしょう。

 森の木々を見て、さまざまな生き物を見て、私は自分とい

う〈個体〉の中で起きている事と同じに見えます。



 何も、競争なんかしていない。

 競争しているのは、人間同士だけ。

 いや、人間の意識の中だけかも知れない。

 「勝った」とか「負けた」とかの、人間社会のせめぎ合い

の結果も、「それぞれの役割による〈必然〉」だと考えた方

が良いのかも知れない。

 人間だけが「余計な事」を考えて、図に乗ったり、嘆いた

り、しているだけなんだと。



 「競争」というモノの見方。

 「競争」に意味や価値をもたせるストーリー。

 人間は、もういいかげんに、そんなことから脱却できない


んだろうか?


 「自分の存在意義」や「生命の存在意義」が分からないこ

とから生まれる、〈焦燥〉とか〈不安〉といったものをねじ

伏せたいが為に、人は “〈世界〉の中に「競争」というスト

ーリーを見る” という策を生み出したのでしょう。

 「競争が存在していて、そこで優位に立てるということ

は、その者に価値がある(意義がある)という証明になる」

 それが、わたしたちが〈世界〉の中に「競争」を見てしま

う理由でしょう。


 競争したがったり、競争を観たがったりする人は、自分が

何故生きているのか分からない事が、恐ろしくてしょうがな

い人じゃないでしょうか。

 「競争」に意味を持たせ過ぎるあまり、「共生」していれ

ば済んでしまう所にも「競争」を持ち込んで、世の中を引っ

掻き回してる。そんなことが、あまりにも多すぎる。

 それに「生」と「死」も、「生存競争」という見方をはず

して観てみれば、少し冷静な目で見られるんじゃないかなと

思う。

 人間って、アタマが悪いね。

 (私も人間のひとりだ。・・・ため息が出るね・・。)









2017年9月24日日曜日

「性格」が悪い!


 毎回々々、揚げ足取りみたいなことを書いているわけです

が、実のところ、私は揚げ足を取ろうなんて考えていませ

ん。「揚げた足」を取るより、軸足を取る方がより完全に相

手を倒せますから、私は「軸足を取る」ことを主眼に置いて

ます。(ほんと、性格悪いよねぇ~)


 「アタマの悪さ」に対抗するためには、一見「性格が悪

い」ように思われる言動が要求されます。

 なぜなら「アタマの悪さ」は、世の中の常識に無自覚に従

う事で現れますから、それに対抗していると、世の中の常識

に逆らうことになってしまって、結果、「性格が悪い」とい

う評価を頂くことになります。

 もっとも普段の生活の中では、私は「すごくイイ人」で通

っています。だって、このブログに書いてある様なこと無遠

慮に言い散らしたら、死屍累々の惨劇になります。みんなそ

れなりに落ち着いて暮らしてらっしゃるわけですから、他人

の考えに、安易に手を突っ込んではいけません。ご縁の無い

人には、何も言いません。そういう “常識” には、うるさい

んです。
 

 で、本当のところ、私の性格は「イイのか」「悪いの

か」?

 それは他人が判断することで、私には決められませんが、

この “性格” というもの自体が、この先、意味を失って行き

そうに思います。


 なんの事かと言いうと、あと数十年すると “性格” と言う

言葉と概念が使われなくなって来るんじゃないだろうかと思

うんです。


 近年、脳の中の変化を外から測定する技術が発達して来

て、脳の生理学や認知科学の知見がどんどん膨らんでいま

す。さらに、鬱病や発達障害などの研究も進んで、脳の状態

が人の思考・情緒・行動とどんな対応関係にあるかが、どん

どん分かって来ています。

 その結果、いままで “性格” と捉えられていた「個人の性

質」が、脳の “先天的” あるいは “後天的” な障碍や、発達

の偏りに理由がある場合が、認められる様になって来たから

す。


 例えば、「冷酷」「無神経」「自己中心的」な “性格” の

持ち主とされている人の脳を調べてみた時に、前頭葉の倫理

観に関係する部分に障碍や発達の未熟さがあったら、その人

の「冷酷さ」「無神経さ」「自己中心的な態度」は、“性格”

という精神面での問題ではなくて、脳の機能不全という身体

的な問題と見た方が妥当になります。


 右手の親指が生まれつき無いという人に、「箸は右手で持

つものだ!」などと非難してもあたらない様に、脳の倫理観

を司る部分に障碍がある人を、「あんたは冷酷で、無神経

で、自己中心的だ!」と責め立てても、あまり意味をなさな

いでしょう。

 そもそも、「温かで」「気遣いがあって」「人を思いや

る」ために必要な身体的条件が欠けているのですから、責め

られたところで、本人にはまずどうしようもないし、責めら

れる意味を理解することさえ出来ないかも知れない。彼にと

っては、「温かさ」「気遣い」「思いやり」などというもの

は、この世に存在していない可能性が高いのだから。


 他の “性格” についても、同様の事が有り得ます。

 「積極性」だとか「繊細さ」だとか、「協調性」や「決断

力」、「真面目さ」や「根気」、それにさまざまな「セン

ス」など、それらのことが、ある人に、どの程度発現するの

かは、その人が持って生まれた脳の特性に、大きく影響され

るはずです。

 もちろん、脳は使えば使うほど、その使った部分の処理能

力が上がりますから、「足りない」と思う部分を努力で補う

事が出来ます。ですが、あまりにも欠損や不具合があると、

カバーしきれません。「無いものは無い」「出来ないものは

出来ない」。


 こういう事を書くと、「優性思想」や「選民運動」に繋が

りそうですが  すでに「デザイナーズベイビー」という考

え方は生まれていますね。「バカなことするなぁ~」と思い

ますけど  事実として受け止めて行かなければならないと

思います。

 そして、“性格” というものの捉え方を考え直さなければ

ならないでしょう。


 性格が「良い」「悪い」とか、「歪んでる」とか「偏って

る」などと言って、「性格を直せ!」やら「性根が腐って

る!」とか叱られたりする。叱るのは「本人が直そうとしな

い事に問題がある」と思っているからですが(言う側が、自

分の “支配欲” を満たしたいだけだったりもしますが・・)

直そうにも直せなかったり、何がいけなくて叱られているの

か、理解出来てさえいない場合があるわけです。


 “片付けられない子” がいるとして、その原因が脳の障碍

にあったら、片付けられる様になる見込みはまず無い。「な

んで、片付けないの!」と怒る親の方はストレスが溜まるば

かりだし、怒られる方の子供は、ただ辛いだけでどうしてい

いかも分からない。お互いに何も良い事がありません。そん

な時に「もしかしたら、この子には “片付ける能力” 自体が

欠けているのかも知れない・・」と考える視点があったら、

無用な “悩み・苦しみ” を味あわなくても済みます。

 だから、脳の障碍や発達の不足、逆に発達過剰などの生理

的な事情が、人のパーソナリティーや能力に、決定的な影響

を与える事があるということが分かって来た以上、それを踏

まえた上で人と関わる方が、人と人との間に無用な衝突を生

み難く、お互いに楽だと思うし、今後そういう考え方は拡が

って行くと思う。


 実際、「多動性障害」の子供に対してでも、昔は「落ち着

きのない子」という見方をするだけだったのが、今は「多動

性障害があるから、落ち着けないのね」という理解が得られ

るようになって来たので、当人も配慮のある接し方がしても

らえるし、親や教師も付き合い方に余裕が持てる様になって

来ている様です。


 その様に、いろいろな脳の個人差(わたしは、その人の

〈脳の癖〉と呼びたいですが)を認め合って人間関係が持た

れる様になって行けば、“性格” という、個人の努力の量を

含ませた言葉は使われなくなって行くだろうと思います。

 もし、そうならないのなら、それは「人に優劣を付け、自

分より劣る人間を見つけて心理的な安定を得たい」という、

しみったれた根性を、わたしたちが払拭出来ないという事な

のでしょう。(その、「しみったれた根性」が脳の個人差に

よるものだったら、ゴメンナサイ)


 外国の事はよく分かりませんし、どこにも程度の差はあれ

存在するでしょうが、日本は「均質化」の圧力が強い国だろ

うと思います。「同調圧力」とも言われますが、さまざまな

事に〈暗黙の基準値〉を設けて、そこに「合わせよう」「合

わせさせよう」というプレッシャーが強い。

 それが、“社会的モラルの高さ” などの良い面を生んでい

る所もあるけれど、“どうしてもその基準値に合わせられな

い人” を、「全人格的に否定する」という場面がよくある。

 誰もが、お互いに〈暗黙の基準値〉にプレッシャーを感じ

ているので、自分が有利な場面では、「基準以下」の人間を

スケープゴートにして、自身の「基準以下」の部分が目立た

ないようにするのでしょう。


 だれにでも、得意な事と苦手な事がある。

 出来る事と出来ない事が有る。

 そんな当たり前のことを、なぜ無視しようとするのでしょ

う?


 出来ないことを、無理して出来る様にする必要は無いし、

苦手な事をすべて無くすなんて出来るわけが無い。

 (小学校の頃、給食の牛乳が飲めなくて、昼休み中

  先生の前で黙って牛乳を睨んでいた同級生を思い

  だします。今なら、虐待だよなぁ。)


 それぞれが、自分の出来る事、得意な事で周りの人や社会

と折り合いを付けて行けばいいし、そうする以外ないでしょ

う?


 苦手な事を、無理してがんばっても、がんばらせても、効

率が悪いし、本人も辛いだけ。なのに、何故そんなことをや

ってるのでしょう? 何を求めているのでしょう?

 《 適材適所 》という言葉が日本にはあって、教育の現場

や組織の中でも結構使われているはずなのに、現実は《 配

材不適所 》のゴリ押しが横行している。


 人間の標準的な適応度は高いので、どんな仕事でもある程

度はこなせるものです。だから《 適材適所 》にこだわり過

ぎると、物事が上手く運びませんし、やったら出来る事を

「出来ない」で済ませてしまうことにもなりかねません。

 ですが、そんなことは少しやらせて見れば、すぐに分かる

ことです。なのに「出来そうもない」と分かって来ても、さ

せ続けて、「なぜ出来ない!」とバカにしたりする。


 なんなんでしょうね。

 人を見る目が無いのか? 

 対応が面倒くさいのか? 

   サディストなのか?

 いずれにせよ、「性格悪いよ!」


 ね! 人の性格を、ああだこうだと批判してる人間は、自

分も同じ目で見られてしまう。どっちも損です。


 “性格” なんて言葉は、廃棄するか、使い方を考え直し

て、《 適材適所 》で「出来る人が、出来る事をする」よう

にして、“お互い様” で楽に暮らせればいいのにね。

 そうしたいと思いません?




 性格の事ではないけれど、《古井戸》という昔のフォーク

デュオ(加奈崎芳太郎と仲井戸麗市=後にRCサクセション

に加入)の「お前と俺」という曲の中に、こんな詞がありま

す。


   信ずることが 愛ならば

   信じすぎることは 裏切り


 仕事や学校なんかの人間関係には関係ないけれど、夫婦や

親子、友人の間であれば、似たような事が言えるんじゃない

かな?

 求めすぎてはいけないんですよ。




2017年9月23日土曜日

素直なひねくれ者に生まれて。


 〈素直〉というものは、良いものなのだろうか?

 「素直な良い子」という言い方は普通だが、「素直な悪い

子」とは誰も言わない。よって〈素直〉は良いこととするの

が普通だろう。

 しかし、〈素直〉という言葉は、個人の資質をほめる為に

使われるより、「素直じゃない」と批判する時に使われる方

が多いだろう。


 「素直な良い子」というのは、“他人の言う事に従順な子”

であって、“周りにとって都合がいい子” を指す。だから、

〈素直〉というのは、“個人の中の社会順応度” のことを指

している。「自分に素直な者」は、往々にして「ひねくれ

者」とか「自己チュー」と呼ばれる事になる。


 私は「自分に素直」な方だと思うけれど、同時に、人に気

を使い過ぎる面があるので、「自己チュー」ではなく、“あ

あ言えばこう言う「ひねくれ者」” と言われる。

 自分に素直に、人とは違う考えを口にしてしまうのだが、

気を使うので、それを “ああだこうだ” と説明してしまう。

結果的に “ああ言えばこう言う「ひねくれ者」” 、という評

価になる。まったく筋が通った話ではある。


 筋は通っているけれども、それで私に不服が無いかという

と、無いはずが無い。心の中で「バカヤロー・・」と思って

いる。なぜなら、私を「ひねくれ者」と評価する、その「素

直な人達」は、〈素直〉を要求されない所に来ると、自分に

〈素直〉になって、陰口を叩くからだ。要するに「嘘つきの

卑怯者」なのである。私が「バカヤロー」と思うのも無理は

ない。


 そもそも人間に〈素直〉ということは可能なのか?

 人はみんな微妙に違っている。肉体的にはもちろん、価値

感も考え方も違う。

 仮に、10人の人間を、考え方が少しずつ違う順番に横一

列に並べたら。右の端と左の端では全く違った意見になるだ

ろう。

 人間とはそういうもので、ひとつの事柄だけでも考えが違

うのに、ざまざまな事柄について雑多な考えや感情を持った

人間たちが、“他人の言う事に従順” でいられるわけが無

い。だから「素直な人達」は陰口を叩かずにはいられない。

 「セコイ!」

 そう言わせてもらおう。


 「セコイ!」なんてバカにして、それじゃぁ「自分に素直

に、周りを気にせず思ったことを言え」と言うのかという 

と、“「自分に素直に周りを気にせず思ったことを言う」奴”

は、バカに決まってる。だって、みんな違うんだから、自分

をそのまま出し合えば、衝突して揉めるのに決まってる。そ

んなことを分からなかったり、気にならなかったりするのは

バカでしょ。


 自分にも、周り(他人)にも素直になれないのなら、どう

するのか?

 「どうするのか?」以前に、そもそも、〈素直〉という言

葉を人間関係に適用することが間違ってるんじゃないか。

 「〈素直〉なんて言葉を使うな!」

と言いたいですね。

 〈素直〉という言葉が使われるのは、〈素直〉という言葉

を使う側が、自分の都合を優先したい時です。


 「素直になれ」と言う側は「わたしの納得する様になれ」

と言ってるわけだし、「わたしは素直に言ってるだけです」

とか言う人は「自分の考えを主張している」わけだし、

「(自分で)素直になりたい」なんて言うのは、想定上の自

分の都合で現実の自分を否定して、自分の中で対立しちゃっ

てるわけです。

 たまたまめぐり合わせが良かったり、タイミングや相手の

状況をよく考えて使うのなら、「素直になれ」という言葉が

相手の「変わりたい」という気持ちと噛み合って、良い変化

を生むこともあるけれど、大抵の人間は自分の都合で言って

るだけです。


 「素直に・・」という言葉が出てくる時には、その前に小

さな対立が起ってしまってる。そこに「素直になれ」なんて

言葉が出て来ると、対立は完全に明らかになつて立ち上がっ

てしまう。「素直に・・・」なんて、使わない方が賢明で

す。


 「あの子、素直だね」なんて、ほめ言葉で使う事もありま

すが、当の本人がホントに素直に言う事を訊いているのか、

分かったもんじゃありません。

 「あのバカ野郎・・・」と思ってるかも知れません。


 〈素直〉を、人の資質の一つと考えて、人の評価基準に使

ったりするのは辞めた方がいいでしょう。

 なぜなら〈素直〉というのは、“ある考えを採用するのが

自分にとって有用かどうか” という個人の中の作業に、外か

ら 合・否 を与える言葉だからです。


 〈素直〉は、個人の資質や性格ではなく、ある人間が、

の時々の状況と親和性があるかどうかだけの話で、「素直な

人」とか「素直でない人」とかが居るわけでは無い。


 人が意思表示をした時、取り巻く状況(人や組織)の方が

優位である時だけ、「素直だ」とか「素直でない」とかの評

価がされる。はなはだ強権的で不公平なものです。

 また、「わたしは素直に言ってるだけです」などと言う人

は、周りの強権的な態度に、理不尽さを感じて抵抗している

わけなので、当人が自発的に〈素直〉をアピールしているわ

けではない。

 そして、「素直になりたい」というのは、理想の自分が現

実の自分に強権を発動している状態です。


 いずれにせよ〈素直〉という言葉は、対立を深める役にし

か立たない忌むべき言葉です。

 人間関係の中では使うべきではない。使うメリットが無

い。

 もちろん、人が素直に従うこともありますよ。でもそれ

は、人間関係がスムーズに進む状況が出来ているのであっ

て、そこに居る人が「素直な人」だからではない。要求され

る事と、対応する方の条件が合致している為にスムーズに事

が進むだけの話です。


 人に関して〈素直〉という言葉を使うのは、禁止しましょ

う。百害あって一利なし。

 〈素直〉という言葉が無くても、何も困ることはないはず

です。むしろ、有ったら困ることを生み出すだけ。

 ただ、他人を従わせたり、自分の優位を感じたい人にとっ

ては、大事なツールが無くなることになるので、嫌でしょう

ね。


 〈素直〉を人に使ってはいけませんが、唯一使って良いと

したら、人間関係を超越した人にだけでしょう。


 《 〈社会〉とは、個人のエゴの集まったもの

   〈自分〉とは、社会の要求が作り出した

               一人分のエゴのこと 》


 そのどちらにも束縛されない、自由闊達な人であれば、

〈素直〉と言って良いと思います。


 はなはだしく、素直では無いお話になりました。

 「ああ言えば、こう言う」にも程がある。

 でも、反省はしませんよ。



 “素直じゃないねぇ~・・・”






2017年9月22日金曜日

特別電源所在県科学技術振興事業補助事業評価報告書?


 一昨日だったか、Googleニュースを見たら、次の単語

目に入りました。 


 〈特別電源所在県科学技術振興事業補助事業評価報告書〉


 目にした瞬間、「へぇ~!?」と声が出て、笑ってしまいま

した。数えたら24文字あるのですが、これで一つの名詞で

す。こんなに長い漢字の単語を見たのは、おそらく初めてだ

ったので、ビックリしてしまったんです。本気で「もしかし

て、冗談?」とも思いましたが、文部科学省のHPに載せら

れた、公式の「おしらせ」です。(これが何かを知りたい方

は、文部科学省のHPをご覧下さい)

 完全に “漢文” ですが、これって単語ですよね? 文じゃな

いですよね?

 「官僚言葉」と言うと、ちょっと意地が悪いとは思いま

す。文面・・・じゃないか。言面(!)を見ると、こうなら

ざるを得ないと思われるので・・。しかし、これはもう冗談

のレベルです。これを見た私の感想は、

 「世の中は、こんなに込み入ってしまってるんだ・・」

でした。


 「特別な電源が所在する県に対する科学技術の振興事業を

補助する事業の評価についての報告書」ということなんです

が・・・。(アカン! 笑ってしまう!)

 何のことかは分かりませんが、自治体と研究者・団体と文

部科学省との間で(企業や監査委員会なんかも絡むのかも)

かなり面倒なやりとりが行われて来た、と想像されます。


 昨日、「この世界では、さまざまな “世の中” が絡み合っ

ている」といったことを書きましたが、日本の中だけを見て

も、「もはや冗談としか思えないほど “世の中” は込み入っ

ている」 ということを、この「一つの単語」が表している

と思うのです。


 文明と文化が進んで、利便性や安全性が高まり、価値が多

様化して娯楽が増えるなど、プラス(に見える)の面がある

一方で、それに伴う面倒も比例して増えている。「“人類の

進歩” などと言われるものは、結局プラス・マイナス ゼロ

なんだろうなぁ」と思う。資源の消費の速さを考えると、マ

イナスの方が大きい様な気にもなるけれど・・。


 とは言うものの、私の様な一般人が、仏教や老荘思想や脳

科学・心理学・物理学・歴史や考古学やら、さまざまな専門

分野の知見を聞きかじって、こんなブログを物して嬉しがっ

ていられるのも、文明と文化が進んだおかげです。

 だ ・ け ・ ど。

 なんだかんだと、世の中あまりにも面倒過ぎませんか !?

 「こんな世の中になって欲しい」と思ったことも、頼んだ

ことも無いですからね。


 しかし、まぁ、愚痴を言っても仕方がないですね。


 《 通常、「込み入る」と「深刻」になり

   「深刻さ」からは「不幸」が発生する

   「幸福」で居たければ、

   「込み入らない “智慧”」が求められる 》


〈特別電源所在県科学技術振興事業補助事業評価報告書〉
  

 この言葉を見て、笑ってしまうという事は、この世の中を

笑ってしまえるという事でもあるので、人間の引き起こす面

倒なドタバタも、喜劇だと笑って、機嫌良く過ごすのが賢明

ですね。


(そんなこと言いながら、このブログの内容も、たいが

 い込み入ってるよね。しゃぁないね。笑ってしまおう!)