2017年9月29日金曜日

本当のマイノリティと、押し付けられる「生き辛さ」

 
 今日は、「生き辛さ」のお話を。


 ハッキリ言って、私も生き辛い。

 “生き辛い人” というのは、マイノリティだと考えて、お


おむね間違いではないでしょう。

 このブログに書いてあることは、はなはだ一般的では無


い。明らかに私はマイノリティだ。故に、生き辛い。

 だけど私のマイノリティ性は、“ものの見方”、“価値感” 


 については大きく在るけれども、身体的な能力や、人種・

宗教上の事柄などでは問題にならない。



 一口にマイノリティと言っても、さまざまな事柄があっ

て、多くの人がなんらかの意味でマイノリティの部分を持っ

ているだろうと思う。それが、「生き辛さ」になるのは、社

会的要請の強い事柄についてマイノリティになってしまって

いる場合ですね。

 要するに〈普通〉か、どうか。



 〈普通〉って、マジョリティの事ですもんね。普通は

 でも、この〈普通〉が怪しい。

 〈普通〉が曲者です。

 〈普通〉は本当にマジョリティか?

 そもそも〈普通〉は実在するのか?


 マジョリティが存在することは確かです。それぞれの事柄


ごとには。

 けれど、雑多な事柄で出来ているわたしたち人間は、だれ


でも、マジョリティ性とマイノリティ性をを持っている。だ

ったら、トータルに見れば誰も〈普通〉じゃないし、〈普

通〉でなくもない。いったい、誰が〈普通〉なの?


 自分が〈普通〉であると思う事で、安心したい人がいっぱ


い居るんだね。

 だから、自分がマジョリティ側に回れる場面で、マイノリ


ティを「普通じゃない」と区別して、自分の〈普通〉を確認

する。マイノリティをダシにするわけですね。

 まぁ、「自分が〈普通〉であると思う事で、安心したい」


という人はいっぱい居るんだから、そういう意味では確かに

〈普通〉ですよね。“凡庸” というんだけど。


 マジョリティに回りたい人って、“凡庸” なんですね。

 言葉の意味からして、そのままなんだけど、「たまたまマ


ジョリティ」の人と、「自分からマジョリティ」の人とでは

意味が違う。

 「たまたまマジョリティ」の人は、自分がマジョリティで


ある事に特別な価値を見ていない。一方、「自分からマジョ

リティ」の人は、マジョリティに価値を見出しているからこ

そ、「自分から」“マジョリティ” なんですね。

 いったい、なんだって自分から “凡庸” になりたいんでし


ょうか? “凡庸” にどんな価値を見出しているのでしょう

か?


 「普通が安心」というのはわかりますよ。お天気だって、


普通がいい。料理だって、見慣れないものを出されたら手を

出し難い。

 けれど、〈普通〉を生み出すのは、「安心できる、安全な


立場」を手に入れる為に、誰かを “普通じゃない人” に仕立

て上げる姑息さです。

 自ら求める〈普通〉は、姑息で凡庸です。

 ですが、凡庸を求めている訳ではない。自分が凡庸だなん


て事には気付いていないだけでしょう。けれど、自分の姑息

さは無意識にしろ自覚していて、その自己嫌悪をマイノリテ

ィに投影する。ロクでもないね。


 しかし、“ボロカス” ですね。

 でも、“ボロカス” に言ってもいいでしょう。自分がマイ


ノリティになっていじめられたり、損したりしない様に、他

人をマイノリティに仕立てて、自分は「普通という人ごみ」

に隠れる。セコくて、凡庸で、憐れです。



 そりゃあね、時代によってはマジョリティに回っておかな

いと、命が危ないという事だってある。国が大きく乱れてい

る時とかね。そんな時は、仕方がないとは思うよ。人は弱い

ものだし、私だってそうするだろうと思う(その代り、自分

に言い訳をし続ける事になるけれどね)。けれど、そんな極

端な状況でもないのに、マジョリティに回ろう回ろうとする

のはセコ過ぎる。



 私の感じでは、どんな事柄であっても、マジョリティの中

の5~6割は「自分からマジョリティ」の人間だろうと思

う。日本語だと、《烏合の衆》ですね。

 だけど、そうなると実際のマジョリティ(たまたまマジョ


リティ側の人)は、全体の3割ぐらいしか居ないはずだか

ら、「どこが、マジョリティなんだよ」という話になってし

まう。

 マジョリティとマイノリティ  〈普通〉と〈普通じゃな

い〉  の対立を生み出しているのは、実は「自分からマジ

ョリティ」の、姑息な連中なんですね。この手の人間が居な

ければ、たぶんマイノリティの問題は起きない。「生き辛

さ」はそれほど大きくならないでしょう。だって、数による

圧力が無くなるか、半分以下になるでしょうから。



 具体的な命の危険が無いのなら、マイノリティであること

に問題は無いでしょう。むしろ、堂々とマイノリティである

ことが、安全をもたらすと思います。なにせ、「自分からマ

ジョリティ」の連中は姑息な弱虫ですし、「たまたまマジョ

リティ」の人は、自分に特段の価値を覚えていません。

 マイノリティに圧力をかけてくるのは、自分が “マジョリ


ティ側” だとアピールしたい《烏合の衆》の方です。そいつ

らは姑息で弱虫だから、マイノリティが堂々としてたら逃げ

て行くし、「たまたま・・」の人は “ただ普通” に接してく

れるはずです。


 ただ、ここで大事なのは「堂々とする」在り方ですね。

 「何が悪い!」なんて自意識過剰になって、 “弱者の論


理” みたいなものを振り回すと、それまで何とも思ってなか

った「たまたま・・」の人から、「あいつら、なに偉そうに

てるの・・」と反感を持たれてしまいます  居るでし

ょ、メンドクサイ “フェミニスト” のオバサンとか。


 「堂々とする」というのは、「おまえ、○○だろ!」と言

われた時、「えっ。それが何か?」と思えるということです

ね。そうすると、「たまたま・・」の人達は何とも思ってい

ないから「堂々としている」し、マイノリティ側も「堂々と

している」ので、この両者が「堂々としている側」というマ

ジョリティになります。結果、「堂々としている側」と「姑

息で弱虫の側」に分かれて、“姑息な《烏合の衆》の方が、

マイノリィになる” という逆転現象が起きるわけです。

(ザマアミロ!)
 

 本当のマイノリティは、個人ではなくて、“いつも他人の

目を気にして、人間関係の中を渡り歩く《烏合の衆》” の方

かもしれませんよ。(それはそれで、憐れで気の毒ですが)

 
 わたしたちは、なんらかの事柄で必ずマイノリティに属し


ているはずです。

 誰もが「マイノリティ性」を持っているということは、そ


の一点で “全員同じ” ということです。

 「ひとりひとり違う」という人間の特性は、全人間の共通


項です。

 「違う」ということが、「同じ」を保証してもいます。


 〈普通〉という、ちまちました、つまらない自己弁護が、


世の中を息苦しく、いやらしくしています。

 「100%普通」の人なんていません。

 いたとしたら、その人は「100%凡庸」な人です。

 たぶん、存在感は “ゼロ” です。

 なんだって〈普通〉になんか成りたがる?


 わざわざ〈普通〉になるのなら、そこには無理があるわけ

でしょう? 無理して〈普通〉の側に身を隠しても、それで

守られる「自分」は、無理する前の “自分” じゃない。

 守りたかったはずの “自分” は、もう変質してしまってい

て、無い。


 《 普通の側に身を置こうとする人は

   「自分のようなもの」を渡り歩く、迷子です 》 


 〈普通〉になるより、なるべく〈自分〉をしている方がし

あわせなのは、間違いないでしょう。





 

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