2017年9月4日月曜日

「強くなって」何をする?

 
 前回は、子供の「いじめ」に絡めながらの話に終始してし


まいましたが、「いじめ」に限らず人間社会の問題は、“パ

ワーバランスの悪さ” と “否定すること(されること)” で

出来ています。

 子供のケンカから、ママ友の揉め事、夫婦喧嘩、国同士・


民族同士の争いまで、すべてがそうです。

 どんな場合でも、まず始めに一方がもう一方を否定すると


ころから始まります。

 そして、否定する側は「否定する為」に、否定される側は

「否定されない為」に(「 “自分を否定する相手を” 否定す

る為に」) “力” を発揮します。そうなれば当然、揉めま

す。

 そのまま揉め続ける事もあるでしょうが、一方の “力” が

強ければ、そちらが勝って一応の決着がつきます。あくまで

「一応」です。“否定” は残りますから、内側ではくすぶり

続けています。フタをしただけで、中を覗けばまだ揉めてい

ます。結局、 “力” では解決出来ません。

 “力” には、「問題を抑え込んでおくこと」しか出来ませ

ん。

 ここまで書いてくると、問題の根本は “否定する事” にあ

って、“パワーバランス” は問題の状況に影響しているもの

だということが分かってきます。

 “否定する事” が他人を苦しめ、“否定される事” で自分が

苦しめられます。「自分で自分を否定する」という器用な事

も上手です。わたしたちは “否定すること” で問題を抱える

のですね。

 「強くなれ」と励まされて強くなれたとしても、問題にフ


タをしただけか、問題が移動しただけに過ぎません。

 “万物の霊長” である人間にしては、お粗末な対応ではな


いでしょうか。


 《 「強くなれ」っていうのは

   “弱い者” に手を貸す

  〈智慧〉なり〈品性〉なりが無い者が

      言うセリフじゃないのかなぁ 》



 やはり根本的な解決を目指す方が良いでしょう。

 それには、わたしたちの「否定したがる性分」をなんとか


すべきだと思います。

 
 なぜわたしたちは「否定したがる」のか?

 いったい、何を「否定したい」のか?


 病状の良く似た、二人のガン患者がいるとします。

 ひとりは、抗がん剤による治療をすることにしていて、も


うひとりは放射線治療を選びました。この治療方法の違いを

お互いが知った場合、ふたりとも次のように思い、一抹の不

安を覚えるのではないでしょうか?

 「病状は変わらないのに、治療法が違うなんて・・・。あ


っちの治療法の方が良いのだろうか?」

 治療法が適切でなければ、命に係わります。ふたりとも、

自分の選んだ治療法を信じたいが為に、「わたしの選んだ治

療法の方が適しているはずだ・・」と思いたくて、相手の治

療法の有効性を(完全にではなくとも)否定したくなるでし

ょう。

 この例と同じ様なことを、わたしたちは日常的に行ってい


ます。

 わたしたちは自分の考えを「正しい」と思っています。

 自分が「正しいとは思えない考え」は、生きて行くことに


危険をもたらすと感じるので、採用できません。

 なので、自分と違う “考え方” “価値観” に出会うと、それ


は自分の考えの「正しさ」を揺るがすことになるので、自分

の生命の継続に不安をもたらします。

 当然、わたしたちは自分と違う “考え方” “価値観” を否定


せずにいられません。否定しなければ不安を拭えませんか

ら。


 わたしたちが「否定する」のは、「自分と違う考え方・価


値観」であり、わたしたちが「否定したがる」のは、「不安

を消したいから」です。

 しかし、そんなに必死になって他者を否定しなければなら


ないなんて、わたしたちが後生大事にしている「正しさ」っ

て、なんと揺らぎやすいものなのでしょう。

 ほんとに「正しい」「有効な」ものなら、他人がどんな行


動を執ろうが、何を言おうが心を乱される事は無い筈です。

 “誰かの一言” や “誰かの振る舞い” で簡単に揺さぶられて


しまう様なものを、「正しい」なんて思っていては、いつま

で経っても安らぐ事は出来そうにありません。

 何ものにも揺さぶられることの無いものが、本当の「正し


さ」と言えるのではないでしょうか。


 けれど「何ものにも揺さぶられることの無いもの」なん


て、そう容易く手に入れられるものでもありません。

 それが何なのか?

 どうやって手に入れればいいのか?

 その鍵は、わたしたちが普段「正しい」としているもの


が、ちょっとしたことで「揺らいでしまう」ものだというと

ころにあります。

 ちょっとしたことで「揺らいでしまう」ような(他人の言

動に怒りや挫折を感じる様な)自分の考えは、「正しい」と

は言えないのだから、その様な感情が湧いてくる時には、そ

れに対応する「自分の考え」を疑って距離を置く、最終的に

はその「考え方」は使用しないことにする。(「否定」して

よいのは、この場合だけです)

 そうやって、さまざまな局面で、不愉快な感情をもたらす


「自分の考え」を削除していけば、「正しいと思っていた」

考えがすべて無くなる事になります。その結果、何が残るの

でしょう?


 少なくとも「正しいと思っていたこと」(ほんとは「正し

くなかったこと」)は無くなったのですから、残っているの

は「正しい可能性のあること」ですね。

 それとも何も残らないのでしょうか? 


 どちらにしても、「正しいと思っていただけのこと」が巻


き起こしていた “不愉快さ” からは解放されます。その時、

人は何を見るのか?


 体験してみなければ、わかりませんね。

 わかりませんけれど、“不愉快さ” は消えているのですか


ら、“愉快” である可能性は高いでしょう。

 あるいは、“愉快” でも “不愉快” でも無い、 “何か” 。

  何だと思います?


 人は誰でも、「自分は何の為に生きてるんだろう?」と考


える事があると思います。「そんなの考えたことも無い」と

いう人がいれば、その人は相当 “困った人” だと思われま

す。(確率はとても低いですが、“悟りをひらいた人” かも

しれません)

 「何の為に」と思うのですから、普段自分がしている事が


「何の為」か分からないのですね。

 働くのはお金の為。

 お金を稼ぐのは、生活する為。

 生活するのは、・・・生きる為・・?

 以上終り。

 答えが出て来ません。


 「いえ。わたしが働くのは、仕事が好きだから」

 何故、好きなのでしょう?

 「楽しいから」

 何故、楽しいのでしょう?

 「好きだから」・・・?

 
 どんな種類の事でも、「何故?」と質問を 5回も畳み掛け


られると、世界最高の頭脳でも、答えに窮するか、誤魔化さ

ざるを得なくなります。人間の「考え」って、その程度のも

のです。

 その程度のものですから、「何の為に生きてるのか?」な


んて問いに、確信の得られる答えなんてそう易々と出るはず

もありませんね。そして、「何の為か分からない」生活に戻

り、「何の為か分からず」生きて行きます。


 「何の為か分からず」生きているので、生きて行く基盤と

なる “自分の考え・価値観” は「間に合わせ」のものです

し、下手をすると、大きな問題を生み出しかねないもので

す。


 「何の為に生きているのか」という問いは、人が幸福に、


充実して、安心して生きて行く為に何よりも大切なものであ

るはずなんですが、誰もが納得する答えを得られぬままに、

後回しにして生きて行きます。それは、自分が何の競技に出

ているかも知らずに、トラックを走り続けている様なもので

はないでしょうか?

 「速く走るの?」

 「ゆっくりでいいの?」

 「この向きでいいの?」

 「ゴールはどこ?」

 「いつまで走るの?」

 「そもそも、走るものなの?」


 「何の為に生きるのか?」

 という問題を、日本の仏教では「一大事」という言い方を


したりします。

 文字通り「一番大事な事」というわけです。他の事は些事


であって、これを解決しない事にはどうにもならない。「死

ぬまで “お茶を濁して” 終り」ということになってしまう。

 わたしたちが普段考えている事は、取るに足りない “些


事” であって、自分自身に根差していない。

 だからこそ人それぞれに言い分が違ったりして、常に揺れ

ている。

 自分を揺さぶる人を “否定” する。


 人が大人になってしなければならないのは、この「一大


事」に向き合う事だと思うんですが・・・。

 大袈裟に言うと、誰もがこの「一大事」に真剣に向き合わ

なければ、人はゴタゴタに巻き込まれ続けるし、世の中は平

和になりませんよ。


《 本当の自信を持っている人は、他者を非難しません 》


 「何の為に生きるのか?」

 という問いに対し、昔からいろんな人が、その人なりの答


えを残しています。

 誰の言葉だったか忘れてしまったんですが、私の好きな言


葉を一つ挙げておきます。


 《 死ぬるまでは、生きる也 》
   ~死ぬまでは、生きる~



 「なんじゃ、そりゃぁ?」

 って、感じですよね。

 でも、分かる時には分かるのです。





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