2023年2月25日土曜日

平和のために



 ロシアがウクライナに攻め込んでから一年になるそうだ。

「核戦争の懸念」みたいなことを報道して、人を不安がらせ

ようとしている人間もいて、それで不安になってる人もいる

んだろうね。

 もし本当に核戦争になって、世界中が巻き込まれて自分が

死ぬことになっても、人類が滅ぶことになったとしても、人

はみんな死ぬんだし、いつかは知れないけど人類も滅ぶ時は

必ず来るんだから、「ああそうですか」と思っていてもいい

わけです。


 戦争に巻き込まれて自分が死ぬかも・・・とか、核戦争で

人類が滅びるかも・・・とか考えて不安になるのは、心のど

こかで「自分」というものが永遠に続くような意識を持って

いるからですね。

 「100歳まで生きられたとしたら上等だし」とか、「人

類はあと10万年ぐらいは存続できるかなぁ・・」とか考え

るような人なら、近いうちに自分が死んでも、近い将来に人

類が滅びるとしても、「自分の想定より早いけど、そうなの

かぁ・・・。ちょっと残念😢」ぐらいの受け止め方をするん

じゃないでしょうか?


 自意識や人類意識(人類という大きなイメージ)というも

のを強く持っていて、それがいずれは自然の摂理によって消

えるものだと理解していない人は、世の中が不安を煽ってく

ると、必要以上に恐れる。この戦争もコロナにしても、物価

の上昇にしてもエネルギー不足にしても・・・。エゴが強い

んですよ。そういう人は。

 「どうせ誰でも死ぬんだよ。ちょっと早いか遅いかだけの

話」。そんな風に思っている人はけっこう気楽なもんです。

そして、みんながそうなら世の中は平和でしょう。人が争っ

たり、いらない事をする根本の理由は「不安」と「恐れ」な

だから。


 ロシアが侵攻してからもう一年。私のような年齢の人間に

したら、一年なんて本当に「あっ」という間です。戦争が拡

大して巻き込まれなくても、「あっ」という間に月日は流れ

て、気がついたら私は死んでるでしょう。まぁ、戦争が拡大

して本当に日本が巻き込まれたら、若い人は気の毒だけど、

なぁに、すぐに歳を取るんですよ。それは歳を取ればわかる

ことだけど、人生は「あっ」という間ですよ。

 何かをして、何かがあって、そのたび大事にして、良いこ

とはうぬぼれたり、悪いことは大変だとうろたえたりするけ

れど、過ぎてしまえば「さほどの事も無かったな・・」と思

うんですよ。そう思えないのなら、その人はかなりのエゴイ

ストなんですよ。

 結局のところ生きて死ぬだけで、その間のことは「お話

し」に過ぎないんだから、気楽にしてるに越したことはな

い。深刻に受け取るから、物事が却って本当に深刻になって

しまうのがこの世の中です。


 前に《 社会は安らぎを嫌う 》と書いたことがありますが

(2022/6)社会は常に、わたしたちを不安にさせるような

「お話し」を語るのです。人々に動いてもらう為にね。そし

て、人がそれで動かされてしまうのは、さっき書いたように

「自分」の永遠性の意識を漠然と持っているからなんです

ね。そして、やはりさっき書いたようにそういう人ほどエゴ

が強いので、そういう人たちが動くのだからエゴとエゴが衝

突する・・・。世の中の平和が乱れるわけです。そして、世

の中に本当に「深刻」と言えるような事が起きてしまう。今

回の戦争もそうです。


 常識的には「不謹慎だ!」と誹られることでしょうけど、

「どうせみんないずれは死ぬんだよね😅」と、できるだけ多

くの人が、気楽に思うことが平和への道です。それも唯一

の。


 《 社会は安らぎを嫌う 》


 それは、言葉を代えれば《 社会は平和を嫌う 》ということ

です。歴史を振り返れば歴然としていますよ。社会の語る

「お話し」を真に受けていては、平和など人類が滅びるまで

生まれません。

 みんな生きて死ぬだけです。気楽にしているのが理にかな

っていると思います。人間以外の生き物はみんなそうしてい

るようですよ。





2023年2月24日金曜日

無意味の意味



 「無意味の意味」。なにやら意味深な感じのするタイトル

だと思いますけど、ハッキリ言って、あざとい。いやらしい

ねらいがありそうですが、まぁそうです。何をねらっている

のかはおいおいあきらかになるでしょう。


 このブログでは、矛盾した言葉の使い方をよくします。

「有るけど無い。無いけど有る」とか「一にして全。全にし

て一」とかいうような感じのことですね。

 また、以前書いたことと逆のことを書いている場合もある

でしょう。「どっちなんだ。話が違う」と思われかねないの

ですが、そんなこと私はどっちでもいいと思っているので、

その時々の目的が果たせれば整合性が無くてもいいのです。

言葉にできないことを伝えようとしているので、それが伝わ

る可能性を探っていると、言葉という道具はその場しのぎの

用が足りればそれでいい。矛盾しようが、その時々に言うこ

とが変わろうが、その時の話の流れに適切ならば OK だと思

っています。


 言葉というものは道具です。普通「考え」を組み立て、

「考え」を伝える道具として使われます。けれど、言葉を使

う究極の目的は、「考えられないこと」を考え、「伝えられ

ないこと」を伝えることだと思います。言い換えると「意味

を使って無意味を感じ取り」、「意味を使って無意味を感じ

取ってもらう」ことです。たとえば、こういう詩がありま

す。


  rose is a rose is a rose is a rose

    ~ バラは バラは バラは バラ ~


 ガートルード・スタインが書いた、世界で最も有名な詩の

一節ともいわれる言葉ですが、この言葉はそれ自体なにも意

味していません。無意味です。ですが、ある程度、感性的な

部分を大事にする人なら、この言葉にふれると何かしら引き

込まれるような想いを持つのではないでしょうか。意味付け

できない “何か” へと。


 形容していない、評価していない、説明もない。いや、読

む人、聞く人に、形容させまい、評価させまい、説明させま

いとしている。そして、ただ「バラ」が目の前に差し出され

ている。意味付けしなくても、意味付けできなくても「

」は存在していることを示している。意味に納まらない価

値とでもいうようなものを伝えようとしている。(こういう

説明というか意味付け自体が無粋ではありますが)


 人間の世界の中の「無意味」は、それこそただの「ナンセ

ンス」だけれど、人間の理解の枠組みに入れられない「無意

味」は「⁉」とでも表すべきでしょうか。それは「ナンセン

ス」ではない。


 意味の外にあるもの、意味が作られる前からあるもの。そ

ういうものが在ることを、わたしたちのアタマはすぐに忘れ

てしまう。いや、無視しようとする。そして、意味の世界に

引きこもって安心を得ようとするけれど、その目的は永遠に

果たせない。どんなに自分の前に繋ぎ合わせた意味を並べて

も、意味付けできない世界が視界の端に見えてしまう。


 「現にそれ(意味付けできない世界)は在るし、隠しきれ

ないんだから、しっかりと目を向けたらどう?」スタインは

そう言っている。そして、それが言葉にならないほど豊かで

美しい世界であることを言うために、「バラ」を差し出して

いる。


 意味付けできない世界は、意味を使わずに受け取るしかな

いけれど、意味(言葉)を使うことで、逆に意味の外へ目を

向けることができる。意味の外の世界に足を踏み入れること

ができる。その為に言葉を使わないのならば、言葉を手に入

れた値打ちが無いだろうと思う。


 言葉に囚われ、言葉に振り回されることから卒業すること

は、人として生まれた甲斐のあることではないでしょうか?




 

2023年2月14日火曜日

正体不明



 小松原織香さんの話をきっかけに、私のあたまに浮かんで

来た言葉から始めるブログは、今回で終わり。

 「試練」「たまたまそうだった」「できることはない」と

続けて、最後は「正体不明」。何が「正体不明」なのかとい

うと、わたしたちひとりひとりのことです。

  「正体不明」とは、本当の姿が分からないということだと

しておいていいでしょう。ということで、わたしたちひとり

ひとりの本当の姿は分からないということを、これから私は

書こうとしています。


 そもそも「正体」とはなんでしょうか?

 「正体」というものは普段隠されているものですから、普

段わたしたちがお互いに見せている姿は「世を忍ぶ仮の姿」

ということになります。

 「いやいや、そんな怪盗やヒーローみたいに世を忍んでい

る人間なんてそんなにいないよ」、と思われるかもしれませ

んが、人は多かれ少なかれ世を忍んでいます。

 他人には言えないことを誰でも抱えていることでしょう

し、まわりに合わせてそのときどきに、自分のさまざまな面

を出さないようにもしているでしょう。世を忍んでいるわけ

です。

 そのようにしながら世の中に見せているのは、社会的な

「仮の姿」と言えるでしょう。そして、世の中に見せていな

い部分が「正体」ということですね。ということで、世の中

からはその人の「正体」は見えないので「正体不明」という

ことになる・・・・、このひねくれたブログが、そんな簡単

な話に落ち着くわけがありませんね。話はここからです。そ

の「正体」が当の本人にさえ「不明」だということを言いた

いのです。


 「正体」にしろ社会的な「仮の姿」にしろ、それは世の中

に対応した「お話し」であって、実体はありません。どちら

も「役割の姿」とでもいうようなものです。

 ○○家の一員。Aさんの友達。B 君の彼女。✕✕社の社員。

△△校の生徒・・・などなど、さまざまな役割の中で持たれ

ているイメージ(その人についての「お話し」)が、世の中

に見せている “その人” の「仮の姿」で、“その人” が自分自

身について持っているイメージ(自分についての「お話

し」)が「正体」ということになるのですが、どちらにせよ

「お話し」なのです。


 例えば、○○家の長男というようなことは確固としたこと

のように思えますけど、もし事故や病気で記憶を失ったりす

れば、身体はそのままでも、自分がそれであることなど消え

てしまいますね。そのことは、自分のセルフイメージは「お

話し」だということを如実に表しています。そして、「仮の

姿」の方の役割などはどんどん変わってしまうものですか

ら、もとより確固としたものであるはずがない。有名人が不

祥事を起こすと、一夜にして人の見る目が変わってしまうの

はお馴染みのことです。

 そのように「正体」も「仮の姿」も実体は無い。「正体不

明」なのがわたしたちの真実です。わたしたちは自分や他人

の「正体不明さ」が不安なので、アタマで自分や他人の「お

話し」を組み立てて、一応の安心をするのです。



 なので、自分が「正体不明」だということは、一見、寄る

辺の無い、不安なことのようにも思えます。けれど、実はと

ても自由なことです。自分の本質は何にも規定されず、何に

も縛られていないということだからです。


 小松原織香さんは、性暴力の被害を受けて傷つき、苦し

み、今はそのことからの直接的な痛みは無いとしても、その

出来事が現在も小松原さんの人生を方向付けている。

 けれど、小松原さんの身体的には、もうその出来事は残っ

ていない。仮に何かケガの痕があったとしても、自転車で転

んで出来た傷と変わらない(あくまでも、身体的な面につい

ての話ですよ。「たいしたことじゃないだろう」なんて言っ

ているわけではない)。出来事が小松原さんに影響を与える

力を持っているのは、小松原さんのアタマの中に食い込んで

いる、その出来事の「お話し」です。

 わたしたちの、「お話し」を作り、それを持ち続けようと

する在り方が、痛い出来事がもたらした苦しみを抱え込み続

けるように働いてしまい、人は苦しみ続けなければならなく

なる。


 「だから、そんなお話し忘れてしまえばいい」などと言い

たいのではないのです。そんなこと忘れられるはずがありま

せん。

 他人から勝手なイメージを張り付けられてしまうことから

も逃れられないし、自分の持つセルフイメージに自分自身が

縛られてしまうことも防げません。それで困ったり苦しんだ

りすることからも逃げられない。けれど、自分は「正体不

明」だという認識があれば、それは救いになるはずなので

す。自分が背負わされている「お話し」から一歩退いて、自

由になれるはずなのです。「正体不明」という “自分の正体" 

に意識を置けば、たとえわずかでも、ほんのひと時であると

しても、「本当は、自分は自由で安らいでいるんだ」という

ことに気付けるのです。


 痛い出来事は誰の身にも起こる。みんな、そんなことは避

けたい。出会いたくない。けれど、避けることはできない。

 その痛さや重さは人それぞれその時々に違うけれど、それ

は他の人と比べられるものではない。他の人が意に介さない

事が自分には酷く苦しかったり、その逆もあって、それぞれ

痛い出来事に苦しめられる。けれど、その痛い出来事が人

生を決定付ける大きな要素でもある。

 痛い出来事に悪戦苦闘するのが生きるということで、その

姿が人生だと言ってもいいのかもしれない。イヤでもそれを

生きるしかない。けれど、それはやっぱり「お話し」なんだ

と気付いていたい。


 痛い出来事の暴力性も、自分が「正体不明」だったらその

力は届いてこない。

 世の中からも、世の中と関わる自分からも気付かれない

「正体不明」の自分が自分の中に在る。悪戦苦闘にほとほと

疲れた時、その中に正体を暗ましてしまおう。世の中と自分

を煙に巻いて・・・。


 最後に、考えるヒントをいくつも引き出してくれた小松原

さんに感謝を・・・。
 


 

2023年2月13日月曜日

できることは無い



 前回の終わりの方で「自分にできることは何も無い」と書

いたけれど、本当に何もできないのだろうか?・・・・・・

考えてみたけど、やっぱり何もできないだろう。 


 わたしたちの意識は出来事の後追いでしか機能できないの

で、何をしても、何かをしたつもりでいても、その意志は後

付けにならざるを得ないし、その意志自体も意識の中で起こ

る出来事であって、自分が意志を起こしているのではない。

ということで、やっぱりわたしたちに「自分でできるこ

とは何も無い」。


 “自分” というものには、意識の表面にある〈自分〉と、意

識の奥の方にある〔自分〕がある。それは別の “自分” かもし

れないし、エゴが二層に分かれているだけかもしれない。あ

るいは、一つのエゴが、意識の瞬間ごとに〈自分〉と〔自

分〕を入れ替えながら、別の “自分” として振る舞っているだ

けかもしれない。そのあたりは、どうも判然としない。私の

感覚的には答えがでないのです。

 私の希望としては、意識の奥にある〔自分〕が、エゴの目

くらましのようなものではなく、この世界と〈自分〉を観て

いる “何か” であって欲しいところです。もしそうなら、私の

物語に決着が付くからです。「ああ、〔自分〕は世界を懐に

抱いている “それ” なんだ」と。


 けれど、そんな決着は付きません。多分、そう思ってしま

った瞬間に、そこにはエゴが滑り込んで、意識の表面で自意

を満足させることでしょう。


 自分が自分をしているかぎり、この世界の本質を捉えるこ

とはできません。それを捉えようとすることもエゴの働きな

ので、エゴがコントロールしようとするし、捉えようとする

こと自体が間違ってもいる。それは掴めば逃すものであり、

放せばそこにあるものだからです。だから「放てば手に満て

り」(正法眼蔵・弁道話)という言葉がある。

 なぜこういうことを確信があるような言い方ができるかと

いうと、確信が有るからです。一度、知ってしまったからで

す。それ以来、この “自分” から解放されて “それ” に戻りた

いと願い続けてきたのが私の人生のように思います。

 このブログを書き始めたのもそのプロセスの一部でしょう

けど、結果としては有意義なものになったようです。このよ

うに「自分にできることは何も無い」というような思いを、

ハッキリと持つことができるようになったということは、か

なり “自分” から解放されてきたということですから。


 こんな話を読んでいれば、「そんなに自分を嫌がって何に

なるの?」と思う人もいることでしょうけど、そういう人に

は、こう尋ねてみたい。

 「いままで、“自分” があなたに何をしてくれましたか?」

と。

 あなたにとって、“自分” というものは決してイイ奴ではな

かったのではないですか?

 “自分(アタマ)” は悪さをするのです。

 何もできないのに、何かができると粋がって、余計なこと

ばかりをしてあなたの世界を引っ掻き回す・・・。


 「自分にできることは何も無い」

 そうつぶやく時、私の世界は、その分だけ静かになるんで

す。私にはそれが大事なんです。その静かさが “それ” だか

ら。
 

 


2023年2月12日日曜日

たまたまそうだった



 前回からの続きです。(シリーズかな?)

 これまでも何度か書いたことがあるけれど、私は必然論者

です。この世界のすべては必然的に「そうなるようになって

いる」「なるべくしてなっている」と思っているわけです。

そう思わざるを得ないので、そう思っているわけですね。

 運命論とは少しニュアンスが違って、「すべては決まって

いる」というような、シナリオがあるというような感覚では

ない。運命論にはなにか大仰なものを感じるし、運命論を語

る人は物語的なこだわりを持っているように思うので違和感

がある。なので、必然論者という方が私はしっくりくるので

す。


 不運だと思うことも、幸運だと思うことも、たまたまそう

なるだけで、そこに意味もシナリオも無い。それをわたした

ちがどう受け取るかということも、そのときどきにたまたま

そうなるだけで、そうなるべくしてなっている。身も蓋も無

いけれど、私はそう思っている。いや、そう思わされてい

る。


 「そんな考え方をして虚しくないのか」とか言われたとし

ても、そう思ってしまうのだから仕方がない。そうなってい

る。私が何を考えようと、何をしようと、私のせいじゃな

い。

 無責任な話ですよね。でも、それと同時に、他の誰が何を

考えようと、何をしようと、それはその人のせいじゃないと

も思っている。それも、たまたまそうなるだけだと・・・。


 誰かが私を酷い目に合わせたら、当然ハラが立ったりす

る。けれど、それはたまたまそうなったので、その人のせい

じゃないと思う。それでひと時私が不愉快になっても、それ

もたまたまそうなるだけで、私のせいでもない。

 さまざまな事が私の身に起こる。さまざまな事を私が起こ

す。同様に、すべての人もさまざまな事を経験し、さまざま

な事をする。それらはすべてわたしたちのせいじゃない。風

で木が揺れるようなものだと思う。

 地球上のエネルギーが大気を動かし、その動きで木が揺れ

るように、この世界のエネルギーの動きが、内から外から、

物理的にも精神的にもわたしたちを動かしている。


 起こる事は起こる。起こらない事は起こらない。

 当たり前のことを言っているはずだと思うけど、普通、人

はなかなかそうは思わない。

 「なんでこんなことになった?」

 「なんで思うようにいかない?」

 人はすぐにそういう風に思うものですが、それは要する

に、自分のアタマの都合に合わないと言っているだけです

ね。アタマが自分の都合を持ち出さなければ、「すべてはな

ようになっているだけだ」と受け取れるはずです。


 困る事が起きれば、そりゃぁ確かに困る。誰も困る事は望

まない。けれど、そんな自分の都合は世界には関係ない。起

こる事はしようがない。困る時は困ればいい。困るしかしよ

うがない。そのとき困る事が、そのときの自分の命の在り方

なので・・・。


 苦しむことも、楽しむことも、どんなことも、たまたまそ

うなるだけです。そもそも自分がいま存在しているのもたま

たまだし、この宇宙が存在しているのも、たまたまでしょう

し・・・。
 

 自分の身に起きる事や自分がすることに対して、自分の価

値とか自分の能力がどうだとか、徳を積んだかどうかという

ようなことを考えがちですけど、自分の価値や能力や徳のよ

うなものも、自分の身に起きていることに過ぎません。わた

したちが思っているような意味での「自分にできること」は

何も無い。そう感じられるのならば、無責任で気楽なもので

す。

 苦しみながら、喜びながら、右往左往七転八倒しながら、

心の中心では気楽なものです。

 自分も世界もなにもかも、「たまたまそうなっているだけ

のお話しなんだ」と。





2023年2月11日土曜日

試練



 少し前のNHKの『こころの時代』で、『当事者は嘘をつ

く』という本を書いた小松原織香という方のインタビューを

見た。

 19歳の時に知人の男性から性暴力を受けたことが、その

後の彼女の人生を方向付け、いまに至るまでどのような展開

をみせたかということが語られていたが、話を聞きながらい

くつもの言葉が私の頭に浮かんで来た。今回のタイトルにし

た「試練」もその一つで、これからその時に浮かんだ言葉を

キーワードにいくつかのブログを書こうと思っている。


 小松原さんの話が、なぜ私の頭からいくつもの言葉を引き

出したかというと、それはたぶん、彼女が執拗に自分に正直

であろうとしている姿勢からだろうと思う。その姿勢が、う

わべだけではない語りを彼女にさせ、それが私の頭を強く刺

激したのだろうと思う。


 本のタイトル『当事者は嘘をつく』というのは、試練に合

った人が、自分でも気付かずに表面的なつじつま合わせをし

て、表面的な安心を得ようとすることを指していると思う

(本はまだ読んでいない)。それは人の情として致し方ない

とも言えるけれど、それで本当に安心できるのか? 彼女はそ

こを見過ごせない。「そんなことじゃないんだ」という心の

つぶやきを無視できないのだろう。だから徹底的に正直であ

ろうとする。

 人は自分を肯定しようとして、自分や他者に対して「嘘を

つく」。「嘘」というよりは、「ごまかし」「すりかえ」を

してと言う方がより実情を表しているだろうけれど、それで

は本当に自分を肯定できない。そのことを彼女は気付いてい

る。だから「そんなことではないんだ」という焦燥にかられ

て、どこまでも自分の内面と世の中の本当を掘り進めて行

く。


 「試練」の大きさは人それぞれだけど、誰でも生きていれ

ば大なり小なり「試練」に合う。その「試練」は、人を “普

通” から “マイナス” へ突き落す。そして誰もが、その “マイ

ナス” から、せめて “普通” へと這い上がろうともがくことに

なるけれど、もしそこに、自分に対する嘘があったらどうな

るか? そうやって這い上がった先に自分はあるか?

 彼女はそこに自分はないだろうと感じているのだろうし、

「這い上がった」というのも見せかけに過ぎないのではない

だろうか? と、思うのだろう。


 人は「試練」から這い上がったり、「試練」を克服したり

できないだろうと私は思う。

 ときどき、「神は、人に乗り越えられない試練を与えな

い」とか「試練は神があなたを試しているのだ」などと言う

人間がいる。そういうセリフを聞いたりすると「バカか」と

思う。重い病の末に死んでしまったり、世の中に上手く適応

できなくて社会の底辺で辛酸をなめながら人生の大半を過ご

すだけで終わってしまったり、あるいは大きな苦しみに耐え

られず自殺したり・・・。

 そのように「試練」を乗り越えられない人は沢山いるし、

なんのために試されなくてはならないと言うのか。ふざけた

ことを言うなと思う。


 「試練」という言葉自体が、(人を)「試し、練る」とい

うことなので、それを前提にすればそういう言葉も出て来る

のだろうけど、「試練」というのは普通の感覚なら「酷い苦

しみ」だ。それは人を試しているのではないし、さらに言え

ば乗り越えるものでもない。

 その「酷い苦しみ」は、それぞれの人がいま立っている場

所の、その足元を作っている一つの大きなピースだ。それが

無ければ、いまの自分ではない別の自分になっていたのだか

ら。そして、別の自分などというものは存在し得ないのだか

ら、とにかくそのピースをふまえて生きるのだ。それをごま

かしたり、無いことにしたりすれば、いまの自分を自分たら

しめている “何か” が欠けてしまう。


 小松原さんが「マイナスに落とされたのはこっちなのに、

なんで自分がそれを回復する為に苦労しなくちゃならないん

だ」という趣旨のことを言っていた。そりゃ、そう思うだろ

う。腹が立つだろう。けれど、それはもう消せない。自分で

折り合いをつけるしかない。だから彼女は自分に嘘をつかな

いように、自分が自分につく嘘にのせられないように苦闘し

ている。

 そして、その苦闘の末には、「苦しみ」は、乗り越えるも

のでも、這い上がるものでもないという気付きが待っている

だろう、と私は思う。

 “マイナス” から這い上がろうとするんじゃなくて、自分を

取り囲む “普通” の世界を、自分の所へ引き下ろすべきなん

だ。(自分の意識の中でだけど)


 「自分に酷い苦しみを与えるような世の中が、“普通” で 

“良い” 世の中なわけがないだろう、そっちが降りてこい。い

や、そっちが上だなんてわけがない。こっちだって、いまこ

うして生きているんだから、上も下も無いだろう!」そんな

風に毒づいていいのだ。


 小松原さんの話の中で一番印象的だったのが、(自分が経

験し、感じ、考えてきたことを整理する為に)「チープな物語

を作らな方がいい」という言葉だった。*( )内は私の推測で


 “世の中の推奨するような、表面的なつじつま合わせのお話

しに合わせて、自分を騙したら、大きな何かが失われてしま

う” そんな思いがあるのだろう。 


 世の中からも、自分の意識からも「チープな物語」を剥ぎ

取れば、いま生きているという本当だけが残る。

 「苦しみ」も「喜び」も、それが “過ぎ去る(過ぎ去っ

た)お話し” であることを、徹底した正直さで確かめたと

き、人は嘘のない自分に出会う。それは人が本当に望むこと

ではないだろうか?








2023年2月8日水曜日

「陰と陽」の誤解



 今日は、前回、鬼の話を書いてから思ったことを。


 「鬼」というのは、もともと命のエネルギーを表している

のではないだろうか?

 「鬼神」という言葉があるけれど、調べてみると「鬼」は 

“陰の力” であり、 “陽の力” が「神」だそうだ。けれど、そ

れらは本来、ひとつの “命の力” であるものを人が思慮・分別

によって「鬼(陰)」と「神(陽)」に分けてしまうだけだ

ろう。


 人の不安・怖れ、そこから転じる怒りや我欲が “命の力” を

使う時、それは破壊的で忌わしい “陰の力” 「鬼」となって現

れる。人の意識が「鬼」を生む。

 一方で、一見 “陽” に見えるエネルギーの現われが、実は無

意識に “陰” に対抗しようとするもので、“陰” に囚われてい

て自由ではない場合も少なくないだろう。それは偽装した 

“陰の力” だともいえる。

 「から元気」というようなものがそうだけれど、そんな分

かりやすいものだけではなく、明るくパワフルに、ビジネス

や遊びやスポーツにエネルギーを爆発させているような人

が、実は大きな不安やコンプレックスを抱えていて、それゆ

えに明るくパワフルにしていなければいられないということ

もよくあるだろう。けれど、その偽装した “陰の力” は姿の無

い(本人にも意識できない)「鬼」となって、その人を蝕ん

でゆく。そして、病を生み出したり、自ら命を絶ってしまっ

たりする。犯罪を犯すこともあるだろう。
 

 そのように考えを進めて来て疑問に思い始めたのが、果た

して “陽の力” というものがあるのだろうかということ。

 世の中には底抜けに明るく元気で、なんの屈託もないとい

うような人もいるのだろう。けれどもその “陽” は、救いよう

のない絶望の中に居る人の “陰” を代償するために、世界が

ランスを取る結果ではないのか? “陰” から完全に独立した

 “陽” は無いように思える。


 “陰” であれ “陽” であれ、わたしたちが感じるそれらの

“力” は、実は命のアンバランスが現われたものなのではない

か? わたしたちがことさらに意識してしまうような “力” 

は、本当は命にとって不安定でいびつなことなのかもしれな

い。


 前回の終わりの方で書いた、〈 鬼が出てこないようにして

いれば、「福」は「ふわ~っ」と「じわ~っ」とにじみ出て

くるように思う 〉というのはその時の思い付きだけど、正解

かもしれない。

 “陰” であれ “陽” であれ、それらは意識のバランスゲーム

に過ぎないので、そのことをよくわきまえていれば、意識の

中にあるうちに相殺されて “力” を失うことだろう。そうする

ことで、本当に “命の力” と言えるものが、静かに淡々と満ち

て来るんじゃないだろうか。

 そして、その静かな “力” が満たす「陰でも陽でもない場」

の中でこそ、人は幸福であり、人としての力を、本当にこの

世界に役に立つように使えるのではないのだろうか?