2023年2月8日水曜日

「陰と陽」の誤解



 今日は、前回、鬼の話を書いてから思ったことを。


 「鬼」というのは、もともと命のエネルギーを表している

のではないだろうか?

 「鬼神」という言葉があるけれど、調べてみると「鬼」は 

“陰の力” であり、 “陽の力” が「神」だそうだ。けれど、そ

れらは本来、ひとつの “命の力” であるものを人が思慮・分別

によって「鬼(陰)」と「神(陽)」に分けてしまうだけだ

ろう。


 人の不安・怖れ、そこから転じる怒りや我欲が “命の力” を

使う時、それは破壊的で忌わしい “陰の力” 「鬼」となって現

れる。人の意識が「鬼」を生む。

 一方で、一見 “陽” に見えるエネルギーの現われが、実は無

意識に “陰” に対抗しようとするもので、“陰” に囚われてい

て自由ではない場合も少なくないだろう。それは偽装した 

“陰の力” だともいえる。

 「から元気」というようなものがそうだけれど、そんな分

かりやすいものだけではなく、明るくパワフルに、ビジネス

や遊びやスポーツにエネルギーを爆発させているような人

が、実は大きな不安やコンプレックスを抱えていて、それゆ

えに明るくパワフルにしていなければいられないということ

もよくあるだろう。けれど、その偽装した “陰の力” は姿の無

い(本人にも意識できない)「鬼」となって、その人を蝕ん

でゆく。そして、病を生み出したり、自ら命を絶ってしまっ

たりする。犯罪を犯すこともあるだろう。
 

 そのように考えを進めて来て疑問に思い始めたのが、果た

して “陽の力” というものがあるのだろうかということ。

 世の中には底抜けに明るく元気で、なんの屈託もないとい

うような人もいるのだろう。けれどもその “陽” は、救いよう

のない絶望の中に居る人の “陰” を代償するために、世界が

ランスを取る結果ではないのか? “陰” から完全に独立した

 “陽” は無いように思える。


 “陰” であれ “陽” であれ、わたしたちが感じるそれらの

“力” は、実は命のアンバランスが現われたものなのではない

か? わたしたちがことさらに意識してしまうような “力” 

は、本当は命にとって不安定でいびつなことなのかもしれな

い。


 前回の終わりの方で書いた、〈 鬼が出てこないようにして

いれば、「福」は「ふわ~っ」と「じわ~っ」とにじみ出て

くるように思う 〉というのはその時の思い付きだけど、正解

かもしれない。

 “陰” であれ “陽” であれ、それらは意識のバランスゲーム

に過ぎないので、そのことをよくわきまえていれば、意識の

中にあるうちに相殺されて “力” を失うことだろう。そうする

ことで、本当に “命の力” と言えるものが、静かに淡々と満ち

て来るんじゃないだろうか。

 そして、その静かな “力” が満たす「陰でも陽でもない場」

の中でこそ、人は幸福であり、人としての力を、本当にこの

世界に役に立つように使えるのではないのだろうか?




 

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