2023年2月14日火曜日

正体不明



 小松原織香さんの話をきっかけに、私のあたまに浮かんで

来た言葉から始めるブログは、今回で終わり。

 「試練」「たまたまそうだった」「できることはない」と

続けて、最後は「正体不明」。何が「正体不明」なのかとい

うと、わたしたちひとりひとりのことです。

  「正体不明」とは、本当の姿が分からないということだと

しておいていいでしょう。ということで、わたしたちひとり

ひとりの本当の姿は分からないということを、これから私は

書こうとしています。


 そもそも「正体」とはなんでしょうか?

 「正体」というものは普段隠されているものですから、普

段わたしたちがお互いに見せている姿は「世を忍ぶ仮の姿」

ということになります。

 「いやいや、そんな怪盗やヒーローみたいに世を忍んでい

る人間なんてそんなにいないよ」、と思われるかもしれませ

んが、人は多かれ少なかれ世を忍んでいます。

 他人には言えないことを誰でも抱えていることでしょう

し、まわりに合わせてそのときどきに、自分のさまざまな面

を出さないようにもしているでしょう。世を忍んでいるわけ

です。

 そのようにしながら世の中に見せているのは、社会的な

「仮の姿」と言えるでしょう。そして、世の中に見せていな

い部分が「正体」ということですね。ということで、世の中

からはその人の「正体」は見えないので「正体不明」という

ことになる・・・・、このひねくれたブログが、そんな簡単

な話に落ち着くわけがありませんね。話はここからです。そ

の「正体」が当の本人にさえ「不明」だということを言いた

いのです。


 「正体」にしろ社会的な「仮の姿」にしろ、それは世の中

に対応した「お話し」であって、実体はありません。どちら

も「役割の姿」とでもいうようなものです。

 ○○家の一員。Aさんの友達。B 君の彼女。✕✕社の社員。

△△校の生徒・・・などなど、さまざまな役割の中で持たれ

ているイメージ(その人についての「お話し」)が、世の中

に見せている “その人” の「仮の姿」で、“その人” が自分自

身について持っているイメージ(自分についての「お話

し」)が「正体」ということになるのですが、どちらにせよ

「お話し」なのです。


 例えば、○○家の長男というようなことは確固としたこと

のように思えますけど、もし事故や病気で記憶を失ったりす

れば、身体はそのままでも、自分がそれであることなど消え

てしまいますね。そのことは、自分のセルフイメージは「お

話し」だということを如実に表しています。そして、「仮の

姿」の方の役割などはどんどん変わってしまうものですか

ら、もとより確固としたものであるはずがない。有名人が不

祥事を起こすと、一夜にして人の見る目が変わってしまうの

はお馴染みのことです。

 そのように「正体」も「仮の姿」も実体は無い。「正体不

明」なのがわたしたちの真実です。わたしたちは自分や他人

の「正体不明さ」が不安なので、アタマで自分や他人の「お

話し」を組み立てて、一応の安心をするのです。



 なので、自分が「正体不明」だということは、一見、寄る

辺の無い、不安なことのようにも思えます。けれど、実はと

ても自由なことです。自分の本質は何にも規定されず、何に

も縛られていないということだからです。


 小松原織香さんは、性暴力の被害を受けて傷つき、苦し

み、今はそのことからの直接的な痛みは無いとしても、その

出来事が現在も小松原さんの人生を方向付けている。

 けれど、小松原さんの身体的には、もうその出来事は残っ

ていない。仮に何かケガの痕があったとしても、自転車で転

んで出来た傷と変わらない(あくまでも、身体的な面につい

ての話ですよ。「たいしたことじゃないだろう」なんて言っ

ているわけではない)。出来事が小松原さんに影響を与える

力を持っているのは、小松原さんのアタマの中に食い込んで

いる、その出来事の「お話し」です。

 わたしたちの、「お話し」を作り、それを持ち続けようと

する在り方が、痛い出来事がもたらした苦しみを抱え込み続

けるように働いてしまい、人は苦しみ続けなければならなく

なる。


 「だから、そんなお話し忘れてしまえばいい」などと言い

たいのではないのです。そんなこと忘れられるはずがありま

せん。

 他人から勝手なイメージを張り付けられてしまうことから

も逃れられないし、自分の持つセルフイメージに自分自身が

縛られてしまうことも防げません。それで困ったり苦しんだ

りすることからも逃げられない。けれど、自分は「正体不

明」だという認識があれば、それは救いになるはずなので

す。自分が背負わされている「お話し」から一歩退いて、自

由になれるはずなのです。「正体不明」という “自分の正体" 

に意識を置けば、たとえわずかでも、ほんのひと時であると

しても、「本当は、自分は自由で安らいでいるんだ」という

ことに気付けるのです。


 痛い出来事は誰の身にも起こる。みんな、そんなことは避

けたい。出会いたくない。けれど、避けることはできない。

 その痛さや重さは人それぞれその時々に違うけれど、それ

は他の人と比べられるものではない。他の人が意に介さない

事が自分には酷く苦しかったり、その逆もあって、それぞれ

痛い出来事に苦しめられる。けれど、その痛い出来事が人

生を決定付ける大きな要素でもある。

 痛い出来事に悪戦苦闘するのが生きるということで、その

姿が人生だと言ってもいいのかもしれない。イヤでもそれを

生きるしかない。けれど、それはやっぱり「お話し」なんだ

と気付いていたい。


 痛い出来事の暴力性も、自分が「正体不明」だったらその

力は届いてこない。

 世の中からも、世の中と関わる自分からも気付かれない

「正体不明」の自分が自分の中に在る。悪戦苦闘にほとほと

疲れた時、その中に正体を暗ましてしまおう。世の中と自分

を煙に巻いて・・・。


 最後に、考えるヒントをいくつも引き出してくれた小松原

さんに感謝を・・・。
 


 

0 件のコメント:

コメントを投稿