2023年2月13日月曜日

できることは無い



 前回の終わりの方で「自分にできることは何も無い」と書

いたけれど、本当に何もできないのだろうか?・・・・・・

考えてみたけど、やっぱり何もできないだろう。 


 わたしたちの意識は出来事の後追いでしか機能できないの

で、何をしても、何かをしたつもりでいても、その意志は後

付けにならざるを得ないし、その意志自体も意識の中で起こ

る出来事であって、自分が意志を起こしているのではない。

ということで、やっぱりわたしたちに「自分でできるこ

とは何も無い」。


 “自分” というものには、意識の表面にある〈自分〉と、意

識の奥の方にある〔自分〕がある。それは別の “自分” かもし

れないし、エゴが二層に分かれているだけかもしれない。あ

るいは、一つのエゴが、意識の瞬間ごとに〈自分〉と〔自

分〕を入れ替えながら、別の “自分” として振る舞っているだ

けかもしれない。そのあたりは、どうも判然としない。私の

感覚的には答えがでないのです。

 私の希望としては、意識の奥にある〔自分〕が、エゴの目

くらましのようなものではなく、この世界と〈自分〉を観て

いる “何か” であって欲しいところです。もしそうなら、私の

物語に決着が付くからです。「ああ、〔自分〕は世界を懐に

抱いている “それ” なんだ」と。


 けれど、そんな決着は付きません。多分、そう思ってしま

った瞬間に、そこにはエゴが滑り込んで、意識の表面で自意

を満足させることでしょう。


 自分が自分をしているかぎり、この世界の本質を捉えるこ

とはできません。それを捉えようとすることもエゴの働きな

ので、エゴがコントロールしようとするし、捉えようとする

こと自体が間違ってもいる。それは掴めば逃すものであり、

放せばそこにあるものだからです。だから「放てば手に満て

り」(正法眼蔵・弁道話)という言葉がある。

 なぜこういうことを確信があるような言い方ができるかと

いうと、確信が有るからです。一度、知ってしまったからで

す。それ以来、この “自分” から解放されて “それ” に戻りた

いと願い続けてきたのが私の人生のように思います。

 このブログを書き始めたのもそのプロセスの一部でしょう

けど、結果としては有意義なものになったようです。このよ

うに「自分にできることは何も無い」というような思いを、

ハッキリと持つことができるようになったということは、か

なり “自分” から解放されてきたということですから。


 こんな話を読んでいれば、「そんなに自分を嫌がって何に

なるの?」と思う人もいることでしょうけど、そういう人に

は、こう尋ねてみたい。

 「いままで、“自分” があなたに何をしてくれましたか?」

と。

 あなたにとって、“自分” というものは決してイイ奴ではな

かったのではないですか?

 “自分(アタマ)” は悪さをするのです。

 何もできないのに、何かができると粋がって、余計なこと

ばかりをしてあなたの世界を引っ掻き回す・・・。


 「自分にできることは何も無い」

 そうつぶやく時、私の世界は、その分だけ静かになるんで

す。私にはそれが大事なんです。その静かさが “それ” だか

ら。
 

 


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