歴史上の偉人とされる人たちの中で、その中でも特に偉大
だと思われる人をイメージしてみて欲しい。その人たちは、
闘う人だろうか? たぶん、そういうイメージは持たれないだ
ろうと思う。闘うよりも、むしろ「許す人」、「受け入れる
人」というイメージがあるのではないだろうか?(「いや、
自分の思う偉人は “闘う人” だ」という人は、このブログから
逃げて下さい。〇〇扱いされますよ)
前回、『自分と闘うな』という話を書いたので、その流れ
で書き始めたのですが、私は、これまでに何度となく、「世
界と自分は一つであって、分けられない」ということを書い
ているので、「自分と闘うな!」ということは、「世界と闘
うな!」ということになってしまうわけです。ならば、「自
分と闘うな」は「すべてと闘うな」ということなので、結果
的に「とにかく闘うな」ということになってしまうのです
ね。
「闘うな」
人は何の為に闘うのでしょう?
闘うことで、何か良いことがあるのでしょうか?
良いことなんかありません。
そもそも、「闘い」は良いことも悪いことも生み出しませ
ん。闘う者が「良い」とか「悪い」とか意味付けするだけ
で、「闘い」はエネルギーの浪費に過ぎません。
《 世の中に、寝るほど楽はなかりけり、
浮世のバカは起きて闘う 》
原文は「闘う」ではなく「働く」ですが、同じことです
ね。ビジネスは「競争」や「戦争」などと形容されますから
ね。
人の行為は、視点を変えればまったく評価が違ってしまう
ものです。広島・長崎に原爆を落としたことは、肯定派のア
メリカ人からすれば「良いこと」ですが、日本人からすれば
「虐殺」であり「悪いこと」です。
人は、その視点の違いゆえに「闘う」のですが、浮世とい
うものは、「浮いている」という表現が示すように、実体が
ないのです。妄想をベースに出来ています。なので、その中
ではどのような視点を持つことも可能です(こんなブログも
書けます)。それは「良いこと」にも「悪いこと」にも、確
かな基盤が無いということです。だからこそ「闘う」ことが
可能です。
もしも、「良いこと」「悪いこと」に確固たる基盤があれ
ばどうでしょう? 闘わずとも答えは出ているのではないでし
ょうか?
「良いこと」「悪いこと」が分からないからこそ、闘って腕
ずくで決着を付けなければならないのではないでしょうか?
そして、その結果出て来る答えは「正解」なのでしょうか?
当然違いますよね。話は「良い」「悪い」、「正しい」「間
違い」から逸れて、「勝った」「負けた」になってしまって
います。〈 勝てば官軍 〉というのは、「話がずれてるよ」と
いう揶揄ですからね。
「良いこと」「悪いこと」というのは、極端に言えば「気
分」でしかありません。自分の気分を良くしたいが為に、人
は闘うのです。なんとマヌケなことでしょうか。
《 機嫌の悪い奴はバカである 》
《 しあわせになるのに理由はいらない 》
気分良くなる為に闘う必要などありません。それは愚か者
のすることです。
気分良くなりたければ、今すぐ「気分良く」すればいいの
です。それだけです。
それができないのならしようがない。不機嫌のままでいれ
ばいい。自分のマヌケさを噛みしめながら。
仕事であれ、スポーツであれ、そこに闘いがあれば、それ
は愚かです。勝者も敗者も愚か者です。仕事であれスポーツ
であれ、それは楽しむべきものです。遊びです。けれど、浮
世には愚か者があふれているので、なんでもかんでも、すぐ
に「闘い」にしてしまう。
《 闘う奴はバカである 》
正当な「闘い」など無いのです。闘った瞬間、人はバカな
のです。
ガンと闘うな。
自分と闘うな。
ひとと闘うな。
社会と闘うな。
とにかく闘うな!
「浮世」の正しさは、「命」の正しさではないのだから。