2022年8月22日月曜日

闘うな



 歴史上の偉人とされる人たちの中で、その中でも特に偉大

だと思われる人をイメージしてみて欲しい。その人たちは、

闘う人だろうか? たぶん、そういうイメージは持たれないだ

ろうと思う。闘うよりも、むしろ「許す人」、「受け入れる

人」というイメージがあるのではないだろうか?(「いや、

自分の思う偉人は “闘う人” だ」という人は、このブログから

逃げて下さい。〇〇扱いされますよ)


 前回、『自分と闘うな』という話を書いたので、その流れ

で書き始めたのですが、私は、これまでに何度となく、「世

界と自分は一つであって、分けられない」ということを書い

ているので、「自分と闘うな!」ということは、「世界と闘

うな!」ということになってしまうわけです。ならば、「自

分と闘うな」は「すべてと闘うな」ということなので、結果

的に「とにかく闘うな」ということになってしまうのです

ね。


 「闘うな」
 

 人は何の為に闘うのでしょう?

 闘うことで、何か良いことがあるのでしょうか?


 良いことなんかありません。

 そもそも、「闘い」は良いことも悪いことも生み出しませ

ん。闘う者が「良い」とか「悪い」とか意味付けするだけ

で、「闘い」はエネルギーの浪費に過ぎません。


 《 世の中に、寝るほど楽はなかりけり、

       浮世のバカは起きて闘う 》


 原文は「闘う」ではなく「働く」ですが、同じことです

ね。ビジネスは「競争」や「戦争」などと形容されますから

ね。
 

 人の行為は、視点を変えればまったく評価が違ってしまう

ものです。広島・長崎に原爆を落としたことは、肯定派のア

メリカ人からすれば「良いこと」ですが、日本人からすれば

「虐殺」であり「悪いこと」です。

 人は、その視点の違いゆえに「闘う」のですが、浮世とい

うものは、「浮いている」という表現が示すように、実体が

ないのです。妄想をベースに出来ています。なので、その中

ではどのような視点を持つことも可能です(こんなブログも

書けます)。それは「良いこと」にも「悪いこと」にも、確

かな基盤が無いということです。だからこそ「闘う」ことが

可能です。


 もしも、「良いこと」「悪いこと」に確固たる基盤があれ

ばどうでしょう? 闘わずとも答えは出ているのではないでし

ょうか? 

 「良いこと」「悪いこと」が分からないからこそ、闘って腕

ずくで決着を付けなければならないのではないでしょうか? 

そして、その結果出て来る答えは「正解」なのでしょうか? 

当然違いますよね。話は「良い」「悪い」、「正しい」「間

違い」から逸れて、「勝った」「負けた」になってしまって

います。〈 勝てば官軍 〉というのは、「話がずれてるよ」と

いう揶揄ですからね。


 「良いこと」「悪いこと」というのは、極端に言えば「気

分」でしかありません。自分の気分を良くしたいが為に、人

は闘うのです。なんとマヌケなことでしょうか。


 《 機嫌の悪い奴はバカである 》

 《 しあわせになるのに理由はいらない 》


 気分良くなる為に闘う必要などありません。それは愚か者

のすることです。

 気分良くなりたければ、今すぐ「気分良く」すればいいの

です。それだけです。

 それができないのならしようがない。不機嫌のままでいれ

ばいい。自分のマヌケさを噛みしめながら。


 仕事であれ、スポーツであれ、そこに闘いがあれば、それ

は愚かです。勝者も敗者も愚か者です。仕事であれスポーツ

であれ、それは楽しむべきものです。遊びです。けれど、浮

世には愚か者があふれているので、なんでもかんでも、すぐ

に「闘い」にしてしまう。
 

 《 闘う奴はバカである 》
 

 正当な「闘い」など無いのです。闘った瞬間、人はバカな

のです。


 ガンと闘うな。

 自分と闘うな。

 ひとと闘うな。

 社会と闘うな。

 とにかく闘うな!


 「浮世」の正しさは、「命」の正しさではないのだから。







2022年8月20日土曜日

自分と闘うな



 医師の近藤誠氏が亡くなった。

 三十年以上前、『患者よ、ガンと闘うな』を書店で見た時

は、驚いたと同時に「我が意を得たり」と思ったし、こうい

うことを言ってくれる医師が現われたことが嬉しかった。


 当時、職場で親しくしていた方がガンで亡くなったのをき

っかけに、ガンについていろいろ考えていた頃だった。

 自分はもちろん医師ではないし、専門的な医学知識も無

い。医学の常識には当てはまらない道筋で、ガンについて考

えて(妄想して)いたのです。それは、小児ガンや若い人の

ガンは、先天的な遺伝子の問題も有るだろうから別として、

30歳以降にガンになる人は「自分にウソをついている人だ

ろう」という考察でした。


 意味が分からないでしょ?(笑)

 ヨタ話と捉えてもらって結構ですよ。私にもエビデンスな

んかありませんからね。「そう思う」というだけです。で

も、ちょっと解説してみようと思います。


 ガンというものは、自分の細胞の一部が、他の細胞との連

携を取らなくなって、勝手に増殖し始める病気ですよね。遺

伝子の一部が変異してそうなるわけですけども、その変異を

もたらすのが「自分にウソをつきながら生き続ける」という

行為だろうと考えたわけです。(もちろん、放射線被曝や発

ガン性の強い物質を取り込んでしまうという、物理的な発ガ

ンもあります)


 「自分にウソをつく」とどうなるでしょう?

 本来の自分と、表向きの自分と、二つの自分に分裂します

よね?

 人には誰にでも二つの自分があって、この二つの自分のう

ち、表向きの自分というのは、「社会に意識が向いている」

自分ですが、ガンになるような人の場合、本来の自分に「ウ

ソをつく」ほどに極度に社会化しているのだろうと思うので

す。その結果、本来の自分が訴える、希望や SOS を無視し

てしまう。けれど、無視しつつも無意識化で不安(不満)を

持ち続ける為に、その解消、あるいは代償としてなんらかの

刺激を求める。その刺激を求める行為が、ガンになりやすい

ような生活習慣につながるのではないだろうか、ということ

です。


 ひどく偏った食生活や、極端に偏った生活習慣をすれば、

さまざまに重い病気のリスクは増えますよね。そのリスクの

中にガンも入るだろうということですが、それだけにはとど

まらず、その意識がもたらす身体の状態が、直接、遺伝子に

変異を起こして、細胞をガン化させるのではないかと思った

のです。ようするに「病は気から」という話なんですね。


 その頃、「病は気から」なんていう言葉は、ほとんど死語

になっていました。むしろ、そんなことを言えば、「非科学

的な頭の古いバカ」のような扱いを受ける時代でした。とこ

ろが、30年以上を経た現在。どこの街にも心療内科が普通

にあります。心のあり方が身体に直接問題を起こすというこ

とが医学的、社会的に常識になったのですね。「病は気か

ら」が復活したのです。常識は変わるものです。


 私は、間接的なものを含めれば、病気のかなりの部分は

「病は気から」だと考えています。

 「仕事のストレスを紛らわすため、毎日浴びるように酒を

飲み、肝硬変になった」というような場合、根本的な原因は

仕事のストレスでしょ?「病は気から」と言えます。

 そのように、多くの病気の元をたどれば、精神的な苦しさ

から逃れる為の行為が見えてきます。

 その、病気の元となる苦しみが生まれるのは、本来の自分

にそぐわない生き方をしている(あるいは、せざるを得な

い)からではないでしょうか? そして、「自分にウソをつ

く」ほど本来の自分にそぐわない生き方をすれば、重い病気

になるだろうと思うのです。そして、その象徴的なものがガ

ンだろうと考えたわけです。


 ガン細胞は、全体の調和を保とうとしている身体の中で、

それとは無関係に増えてゆくのですけど、その振る舞いは、

身体の声にも心の嘆きにも耳を貸さず、身体と心からエネル

ギーを取り込みながら肥大しようとする、アタマのアナロジ

ーになっているわけです。なので私は、「自分にウソをつく

ガンになる」と思ったのです。けれど、意識の形が、身体

あり方に反映するのでしょうか?


 先に述べたような食生活や生活習慣に特段の偏りが無くて

も、日々、強いストレスを持ちながら、それを意識できずに

(自分をダマして)生活していれば、新陳代謝にもかなり影

響を与えるでしょうから、活性酸素の処理が上手くいかない

とかいうような原因で、ガン細胞が多く発生したり、ガン細

胞を潰してくれるはずの NK 細胞の活性が落ちたりして、ス

トレスが直接的にガンの発症につながる可能性はあるのでは

ないかと思います。あくまで可能性ですけどね。


 薄っぺらな医学知識しかない人間がそんな推測をして、何

が言いたいかというと、「自分と闘うな!」ということなん

です。


 わたしたちの身体は、いつだってガンと闘っているので

す。

 毎日何千個ものガン細胞が生まれますが、身体がそれを潰

してくれている。

 食生活や生活習慣のせいで病気になりそうでも、なんとか

そうならないように、身体は四六時中働いている。けれど、

それで対処しきれなくなるまで身体の声を無視し続けると、

病気になる。原因はわたしたちのアタマです。ところが、病

気になると、アタマは病気と闘う。「病気が悪い」と言うの

です。いや、悪いのはアタマです。アタマの傲慢が病気を生

んだのですから。

 病気は、身体と心の SOS か、下手をすると断末魔なのか

もしれない。もしそうならば、そういう状況で「病気と闘

う」ことは、本来の自分の声を封殺することになるのではな

いか?「病気と闘う」と言いながら、自分と闘っているので

はないか? 

 自分と闘う。

 当然ながら、それは自殺行為です。


 なぜ、自分がガンになったのか?

 なぜ、自分が深刻な病気になったのか?

 さまざまな依存症、鬱病、パニック障害、過労死、過労自

殺・・・。それらは、アタマの支配によって生み出されるも

のではないのか?


 病気の陰には自分がいるかもしれない。

 そこに目を向けてみることもせずに、「病気は “自分” じゃ

ないんだから、排除」、というアタマの声に、唯々諾々と従

うのが現代人のようです。


 近藤誠氏の主張、活動に対して「ガン放置療法」などと、

皮肉のようなレッテル貼りをする人たちがいるけれど、私の

知る限り、近藤氏が「放置療法」などと述べたことはないと

思う。

 近藤氏は「その方の人生に良い効果をもたらすことが期待

できるのなら、どのような治療をしてもいいし、緩和ケアを

するのもよい。放っておいても進行せず、勝手に治るガンも

あるので、放置して様子を見るのも選択肢の一つだ」という

立場であって、なんでもかんでも放っておけなどとは言って

いない。


 近藤氏は、「病気→闘う」という、現代医学と現代人の傲

慢さがはびこる社会に、「病気→付き合ってみる」という、

おおらかな生き方を提示した。残念ながら、その想いはほと

んど広がっていないが・・・。


 医療は、人が機嫌よく生きる手助けをするものであって、

アタマの望み通りに身体や心を支配する為にあるのではな

い。もっともタチの悪いガンは、わたしたちのアタマだろ

う。けれど、近藤氏の示すように、アタマとも付き合ってや

べきなのだ。だって、それは "在る” のだから・・・。


 病気と闘うな。

 自分と闘うな。


 近藤氏がそこまで思っていたかどうか・・・。

 私は、思っていたと思うのだが・・・。






 

2022年8月15日月曜日

「無別主義者」



 今回のタイトルを見て、「え、何?」と思われたかもしれ

ない。

 これは、You Tube で、日本に住む黒人さんのエピソード

を見てコメントを書いた時に、ふと出て来た言葉です。


 最近は、人と人、あるいは文化の違いなど、「違い」を口

にしたりすると、なんでもかんでも「差別はいけない!」と

言って批判する人間が増えたようで、本当に迷惑だと思って

いる。

 ああいうのは、逆に、攻撃し「迫害」を加えているわけ

で、そういう言動・考えをする人間を「無別主義者」と呼ん

でみたわけです。


 ほとんどの生き物は、感覚器を使って「違い」を認識し

て、それに対応しながら生きようとしている。人間も同じだ

から、「違い」を意識するのは当たり前で、それを言葉にし

たりするだけで批判したりするのは、アタマが悪いと言うし

かない。

 人はみんな、いろいろに「違う」のだから、「違うね」と

言うことまでが問題になっては、人と人とがそれぞれの自分

らしさを見せて付き合うことが出来なくなってしまう。恐ろ

しい管理主義です。


 「違い」を問題にすることと、「違い」を話題や議題にす

ることは全然違う。

 「差別」と「区別」の違いさえ分からないような人間を、

私は区別する。


 黒人街へ出かけて、「おまえらは俺とは違う!」と声高に

あざ笑う白人は存在しないように、自分が他の国などへ行っ

たら、自分の方が少数派で、「区別」されてしまうことは必

至だが、「無別主義者」はそれを受け入れないのか? それ

に、すべての人間は「自分と違う」のだから、「違い」を受

け入れなければ、その人はすべての人から孤立することにな

り、完全に孤独な人となってしまうが、それは了承済なのだ

ろうか?

 そんなわけがない。そういうことを考えたことも無い、ア

タマの悪さが際立つ人間だと言って差し支えがないだろう。


 「違い」を見ることは、生物として問題ない。単に「区

別」だ。けれど、そこにアタマが「評価」を持ち込んだとた

ん、それは「差別」へと変貌し、エゴのエネルギーを取り込

みながら、人の行動を醜悪で愚かなものに変えてゆき、時に

は残虐と言うしかないことまでしでかす。なぜそんなことが

起こるのか?

 多くの人間が孤独だからだろう。孤独だからこそマジョリ

ティの側に入りたい。マイノリティを「自分とは違う奴ら」

とすることで、自分はマジョリティの側だと思えるから。


 個人が、一人で大勢を「差別」することはできない。それ

は単なる「批判」「クレーム」になってしまう。「差別」

は、必ず「多数」から「少数」へと向かう。その「多数」

は、 “人数の多さ” か、“社会的力の多さ” だけれど、本質的

には “人数の多さ” による。“社会的力の多さ” だと、一対一

の関係になって、単に「ケンカ」になるかもしれないから。

 「自分と違う」という理由だけで人を受け入れない人間

は、既得権益を利用して、自分が優位に立とうとしているだ

け。



 「差別」の本質は「違い」を口にすることではなく、「評

価」を下すことにある。

 「無別主義者」は、“「区別」する人間” を区別して「評

価」を下す。アンタは「✕」。

 自分が「区別」し、さらに「評価」していることに気付か

い。


 誰もが生まれてきた子供をあれこれと「評価」し、物心

付いたら、自分と他の子を比較して「評価」することを教

え、すべての人間に「評価」という種が撒かれる。そして

「評価」から「差別」が芽を吹く・・・。


 差別が無くなることは無い。






2022年8月14日日曜日

自分をデザイン



 昨日、この夏初めてツクツクボウシの声を聞き、「お盆だ

な」と思った。

 一昨年とは違い、新しいものに取り換えたので、今年のお

盆は誰もいないのにインターホンが鳴ったりはしていない。

(一昨年の怪現象は、アリのいたずらだった・・・、たぶん

ね・・・。『お盆です』2020/8 参照


 今回はインターホンではなく、ただ音が鳴るだけのチャイ

ムを付けた。そもそも内の奥さんも私もインターホンで会話

をしない。「ピンポン」と鳴れば、直接玄関に出てゆく。小

さな家なのでその方が早い。ということで、今回はインター

ホンをやめてしまった。

 あらためて考えれば、インターホンなどというものは、玄

関まで行くのに時間がかかるような広い家や、治安が悪い地

域に必要なものであって、そもそも我が家には必要なかった

のだ。
 

 実は、今回インターホンをやめてみると、なにやら少しホ

ッとした。

 どうやら、インターホンがあるのに受話器を取って話をし

ないことに対して、心のどこかで「自分は正しい手順を無視

してる」という、小さな罪悪感のようなものを持っていたら

しい。HSP は難儀なものだ。そんなことまでストレスの元に

してしまう。アタマが悪い。


 習慣になっていたり、当たり前だと思ってやっていること

が、実はストレスの元になっているということは、当人が気

付かないだけで結構あるのだろう。

 「自分には、これが当然」と思って生きているけれど、そ

れはアタマがそう自己暗示をかけているだけで、身体のほう

は悲鳴を上げているのに、それは無い事にして生きている。

そういう人は気付かぬうちに病んでゆき、気付いた時には抜

き差しならない状態になっていたりするだろう。


 情報があふれかえり、「推奨される生き方の “手本” 」のよ

うなものを目の前に並べられ、それを選んで、それを「自

分」として生きたりしていると、場合によっては自分の性質

との間に大きな齟齬を生んでしまう。そして、病む。

 身体の病気になる。心の病気になる。外に向かえば、誰か

を傷付ける。犯罪者になる。

 自分自身に敬意を払わないことのツケは大きい。


 わたしたちは、自分のことをよく知らない。知ることはと

ても難しい。自分なのにつかみどころが無い。そこへ加え

て、さまざまな生き方を情報として見せられるので、目が外

へ向く。つかみどころのない曖昧な自分を、外から囲ってか

くしてしまい。それで安心する。それが現代なのではない

か?


 このごろ、筋トレで身体を作る芸能人がやたらと目に付

く。ジム通いをする人も多い。それと、タトゥーを入れる者

も増えている。そういった、外から自分を形作ろうとする行

為は、自分というものの曖昧さが不安だから、形を与えたい

のではないだろうか?
 

 自分の望む形に自分をデザインする。

 そうする前に、身体の声、心の深い所の声にも、耳を傾け

ているのだろうか?いないだろうな。



 ツクツクボウシは、今も昔も「ツクツクボウシ」と鳴い

て、ツクツクボウシであり続けている。

 「ヒグラシのようになりたい・・」

 そんなツクツクボウシはいないだろうと思う







2022年8月11日木曜日

一期一会



 鹿児島の小学校で、イチョウの老木の大きな枝が折れて落

ちて来て、草刈りをしていた校長先生が下敷きになり亡くな

るという事故があった。

 十数年前にも淡路島で、学校行事でそこに来ていた中学生

の上に、崖の上の松の木が折れて落ちて来て、やはり亡くな

ったという事があったと記憶している。

 どちらも大変不運なことで、家族は「なぜ・・」と思うば

かりだろう。


 次の瞬間、わたしたちの身の上に何が起こるか、誰も知ら

ない。


 二十年ほど前、仕事中に200Vに感電したことがある。両

手を電気が通り抜け、耳の中で「ブーン」と音がしていた。

機械の漏電が原因で、まったく予想外の事だった。

 あの時死んでいてもまったく不思議はなかったが、縁あっ

て今もこうして生きている。(たまたま、その翌日に電気保

安協会の人が来たので事情を話したら、「死ぬで!」と言わ

れた)

 そんな経験をした私が生きていて、今回の校長先生や淡路

島の中学生が無くなったことには、それぞれ個人の、生き方

だとか、徳だとかは何の関係も無い。さらに言えば、死んで

まったことが「悪いこと」で、死ななかったことが「良い

と」だとも、私には言えない。


 まったく予期しないことで命を失うことは不運だと思う。

気の毒に思う。無い方がいいと思う。けれど、起こってしま

ったことは戻せない。起こってしまうことを防げない。この

数時間以内に私が死ぬかもしれない。それがさだめなら、し

ようがない。わたしたちは自分の死に方を選べない。


 以前にNHKの番組で消防やレスキューの隊員にインタビュ

ーするものがあって、その中の一人が、「いつもは玄関で見

送ってくれる奥さんが、夫婦喧嘩をした翌日、送りに出て来

なかったことがあって、その時に “もしかしたら、出かけた

ら二度と返ってこないかもしれないような仕事なんだから、

腹が立っても見送りだけはしてくれ” と頼んだ」と言ってい

たのを憶えている。

 もしも、喧嘩して見送らず、本当に帰ってこなかったら、

奥さんは生涯自分を責めることになるのではないだろうか?


 一期一会である。

 人と人とだけではない、この世界と、瞬間ごとに一期一会

だ。


 いつ終わる人生なのか、誰も知らない。

 その時その時、すべての瞬間に誠心誠意だとか、ベストを

尽くすとかいう必要はないし、そんなことはできはしないけ

ど、その時その時、いまある世界を少し大切にするのなら

ば、次の瞬間命を終えても悔いは無いだろう。大切な人を無

くして、深い悲しみに打ちひしがれたとしても、そこには救

いがあるだろう。


 校長先生は一心に草刈りをしていたことだろう。

 淡路島の中学生は、友達と楽しんでいただろう。

 そうであったことを祈るが、そうでなかったとしても、一

つ一つの人生に価値の違いは無い。

 悔やんでも惜しんでも命は戻らない。そのような終わり方

をするさだめにあった、その人の人生を受け入れる。そうな

った時の自分の人生を受け入れる。

 一期一会。


 南無。




2022年8月8日月曜日

「物語」を終わらせて



 人は物語を求め続ける。

 これまでより良い物語。今よりも良い物語。満足できなか

った過去を埋め合わせ、さらなる満足を提供してくれる物

語。

 映画やドラマだけの話ではなく、実際の暮らしと人生のよ

り良い物語を求める。人はそういう生き物ですが、その性質

に合わせるべく登場するのが、政治家と商売人です。


 政治家は、次の映画の構想を語って資金を集めようとする

映画監督のようなものだし、商売人は、映画の予告編を見せ

て、できるだけ観客を取り込もうとするプロモーターみたい

なものですね。どちらにせよ、物語の断片を見せて、観衆が

「良さそうだ」と思うように仕向ける。

 映画と違い、実際の物語の出来がどうであろうが大して問

題ではない。公開後は、すぐ次の予告編が流されるので、観

衆はそれを見る。


 映画やドラマの場合なら、実際に本編を観終えることがで

きるけれど、政治や商売の場合、本編が気に入らなくて、多

くの観衆が文句を言いそうになる前に、次の予告が入って来

るので、観衆は、ずるずると次の予告を観て、希望のかけら

を求めてしまう・・・。本編が完結した試しが無い。もう

「サル痘」の話が出ているように・・・(こちらは不安を煽

って観衆を動かすタイプだけど)。

 陰謀論のようなことではなくて、政治や商売が、そもそも

そういう仕組みになっているということ。


 映画やドラマはフィクションだし、お楽しみだから別にい

いけれど、実社会を予告編のノリだけでつなげて、イイよう

にしようとする政治家や商売人に対しては、ブーイングが必

要ではないだろうか?

 「おい。一まず、完結させてから次に行けよ」と。

 そうしないと、評価がいい加減なまま先へ進んでしまうよ

ね。


 とはいうものの、そのような政治家や商売人のズルさが野

放しになっているのは、観衆の方に見る目が無いせいでもあ

るので、世の中は両者の共同作業で成り立っているのだろ

う。

 世の中がどのようであるかは、その世の中を構成する全員

の、総和ないし平均値、あるいは最大公約数の具体化した姿

だろうからね。


 世の中のことであれ、個人の人間関係や目的であれ、そこ

で進められる物語には終わりが書かれていない。だって、物

語が終わるとしたら「死」か「滅亡」に決まっているからね

(ハッピーエンドは、「ハッピーな場面で終える」ってこと

だからね)。なので、人々は予告編なりパイロット版だけを

見続け、その中途半端な物語の継ぎはぎを「世界」だと思っ

てる。何やってんの?


 映画やドラマや小説で物語が完結するのは、作者がそこで

終わらせるからであって、実際の世界では、何も完結するこ

とは無い。すべては継ぎ目なく繋がっている〈完璧な未完の

何か〉です。そこにアタマが物語を持ち込むから、何もかも

が中途半端で悩ましいものになってしまう。


 それが悩ましいものであるとしても、人間には物語が必要

です。けれど、大袈裟でバカバカしい物語はもうたくさん。

 世の中は、インストルメンタルのBGMが流れるぐらいで十

分。

 小賢しい詞や映像は、もうOFFにした方が良さそうだと思

う。


 「物語」は、もう終わらせよう。


 そんなこと、私だけが考えている物語なんだろうけれ

ど・・・。





2022年8月7日日曜日

占いと量子力学


 注  占い好きの方には、お勧めできない内容です



 昨日ブログを書いた後、種田山頭火のことをあらためてウ

ィキペディアで調べてたら、〈山頭火〉という号 は「納音

(なっちん)」だと書いてあった。


 「納音」というのが何か知らなかったので調べると、中国

やベトナムの占星術の一種で使われる、干支をもとに人のタ

イプを表すもので、30のタイプがあり、〈山頭火〉はその

一つだということらしい。


 「へぇ、そんなのがあるんだ」と思って自分の事を調べる

と、私は〈壁上土〉というものらしくて、思わず笑ってしま

った。

 というのも、以前『「スクルット」たちへ・・・』

(2018/2)という回などで、「私は社会に上手くなじめな

くて、社会の周縁の壁の上にいる」というようなことを書い

ていたので、「当たってるやん!」と思ってしまったから。


 詳しく見てみると、〈壁上土〉の「上」は、「壁の上」で

はなくて、「壁の表面」のことを指していて、要するに「壁

土」のことらしい。それなら〈壁土〉でよさそうなものだけ

ど、三文字で表すといった決まりでもあるのだろう。なにに

せよ、私は壁土のようなタイプということらしくて、やはり 

“ある場所” の端っこに居る存在のようだ。


 「面白いな」と思ったけども、私は占いに興味はない。占

いは役立たず、あるいは無意味だと思っているので、私は自

分の人生の指針として占いを取り入れるようなことはしな

い。占いを見たり、人とそういう話をしたとしても、暇つぶ

しや雑談のお付き合いというにとどまる。


 この「納音」のように、占いで自分の性格や運勢が言い当

てられてると感じることは、誰しも経験があるだろう。けれ

ども、それはアタマが自分から占いの内容に寄せて行ってし

まうから起こるとも考えられるので、当たっているのかどう

かは定かではない。


 人は誰しも雑多な性格が寄せ集まったもので、その中でと

くに目立つ部分を捉えて、「あの人はこういう性格」「わた

しはこんな性格」などというだけで、本当はそんな単純なも

のではない。

 例えば、ある人が〈 人間関係には神経質できっちりしてい

るが、物の扱いはルーズだ 〉という場合。「あなたは神経質

なタイプです」と言われれば、自分の人間関係の処し方を思

い浮かべて「当たってる」と思い。「あなたはルーズな人で

す」と言われれば、自分の物の扱いを振り返って「確かにル

ーズだ」と思う。そのように、自分から回答に寄せて行って

しまう。

 〈 家族に対しては頑固で我が強いけれど、会社や学校では

気が弱くて人に譲ってばかりいる 〉という、いわゆる “内弁

慶” なら、「あなたは気が強い」と言われれば家族との関係

を思い、「あなたは気が弱い」と言われれば会社の中の自分

を思って、どちらにせよ心当たりが有ることになる。

 そのような自己誘導は自分に起こる “出来事” の吟味の場合

でもかなりあり得るので、占いがどれだけ当たるのかは判然

としない。


 けれど、世の中には占いを人生の指針にする人もかなりい

る。占いを活用することで、望まない運命や良くない運命を

変えることができると考えるのですね。

 でも、それは私から見れば、「占いを活用することで運命

を変えようとする “運命” 」なんですね。その “運命” のこと

はどう思うのでしょう?

 「自分の人生に占いを取り入れる生き方」というさだめに

あって、そのさだめが進んでいるだけ。「占いで運命を変え

よう」としても、まだ起こっていないことが変えられたかど

うかは後になっても分からない。占わなかった場合と比べる

ことができないから。


 占いは当たらないとは言えない。私もそんなことは言わな

い。言う根拠が無い。占いが当たることもあるのでしょう。

でも、仮に占いが当たっていて人生が変えられたとしても、

「占いを活用することで運命が変えられたと思える “運命” 」

が展開しているだけだし、占わなかった方が満足できる運命

になっていた可能性もある。役に立っているのでしょうか?


 量子力学かなんかで、「観測者が観測するという行為で、

結果が変わってしまうので、純粋に観測することができな

い」なんて言いますね(言っていたと思う)。占いと同じで

す。



 未来を変えようとか作ろうとかしてもムダです。そもそ

も、未来は無いからです。


 無限に積み重なった過去の延長として、今が確定して行

く。そして、その確定した今が、次の今を確定して行

く・・・。

 わたしたちそれぞれは、確定した今を受け入れるのか? 受

け入れないのか? 

 悲しいかな嬉しいかな、それも確定している。

 確定している今に敬意を払い、尊ぶことができるなら、そ

れは嬉しく、しあわせな運命だと思いますが。


 やはり「どのようでも、良い」のでしょう。



 しかし、量子力学は占いだったんだなぁ・・・。


 (誰かに怒られそうだな)