2022年8月15日月曜日

「無別主義者」



 今回のタイトルを見て、「え、何?」と思われたかもしれ

ない。

 これは、You Tube で、日本に住む黒人さんのエピソード

を見てコメントを書いた時に、ふと出て来た言葉です。


 最近は、人と人、あるいは文化の違いなど、「違い」を口

にしたりすると、なんでもかんでも「差別はいけない!」と

言って批判する人間が増えたようで、本当に迷惑だと思って

いる。

 ああいうのは、逆に、攻撃し「迫害」を加えているわけ

で、そういう言動・考えをする人間を「無別主義者」と呼ん

でみたわけです。


 ほとんどの生き物は、感覚器を使って「違い」を認識し

て、それに対応しながら生きようとしている。人間も同じだ

から、「違い」を意識するのは当たり前で、それを言葉にし

たりするだけで批判したりするのは、アタマが悪いと言うし

かない。

 人はみんな、いろいろに「違う」のだから、「違うね」と

言うことまでが問題になっては、人と人とがそれぞれの自分

らしさを見せて付き合うことが出来なくなってしまう。恐ろ

しい管理主義です。


 「違い」を問題にすることと、「違い」を話題や議題にす

ることは全然違う。

 「差別」と「区別」の違いさえ分からないような人間を、

私は区別する。


 黒人街へ出かけて、「おまえらは俺とは違う!」と声高に

あざ笑う白人は存在しないように、自分が他の国などへ行っ

たら、自分の方が少数派で、「区別」されてしまうことは必

至だが、「無別主義者」はそれを受け入れないのか? それ

に、すべての人間は「自分と違う」のだから、「違い」を受

け入れなければ、その人はすべての人から孤立することにな

り、完全に孤独な人となってしまうが、それは了承済なのだ

ろうか?

 そんなわけがない。そういうことを考えたことも無い、ア

タマの悪さが際立つ人間だと言って差し支えがないだろう。


 「違い」を見ることは、生物として問題ない。単に「区

別」だ。けれど、そこにアタマが「評価」を持ち込んだとた

ん、それは「差別」へと変貌し、エゴのエネルギーを取り込

みながら、人の行動を醜悪で愚かなものに変えてゆき、時に

は残虐と言うしかないことまでしでかす。なぜそんなことが

起こるのか?

 多くの人間が孤独だからだろう。孤独だからこそマジョリ

ティの側に入りたい。マイノリティを「自分とは違う奴ら」

とすることで、自分はマジョリティの側だと思えるから。


 個人が、一人で大勢を「差別」することはできない。それ

は単なる「批判」「クレーム」になってしまう。「差別」

は、必ず「多数」から「少数」へと向かう。その「多数」

は、 “人数の多さ” か、“社会的力の多さ” だけれど、本質的

には “人数の多さ” による。“社会的力の多さ” だと、一対一

の関係になって、単に「ケンカ」になるかもしれないから。

 「自分と違う」という理由だけで人を受け入れない人間

は、既得権益を利用して、自分が優位に立とうとしているだ

け。



 「差別」の本質は「違い」を口にすることではなく、「評

価」を下すことにある。

 「無別主義者」は、“「区別」する人間” を区別して「評

価」を下す。アンタは「✕」。

 自分が「区別」し、さらに「評価」していることに気付か

い。


 誰もが生まれてきた子供をあれこれと「評価」し、物心

付いたら、自分と他の子を比較して「評価」することを教

え、すべての人間に「評価」という種が撒かれる。そして

「評価」から「差別」が芽を吹く・・・。


 差別が無くなることは無い。






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