2022年8月22日月曜日

闘うな



 歴史上の偉人とされる人たちの中で、その中でも特に偉大

だと思われる人をイメージしてみて欲しい。その人たちは、

闘う人だろうか? たぶん、そういうイメージは持たれないだ

ろうと思う。闘うよりも、むしろ「許す人」、「受け入れる

人」というイメージがあるのではないだろうか?(「いや、

自分の思う偉人は “闘う人” だ」という人は、このブログから

逃げて下さい。〇〇扱いされますよ)


 前回、『自分と闘うな』という話を書いたので、その流れ

で書き始めたのですが、私は、これまでに何度となく、「世

界と自分は一つであって、分けられない」ということを書い

ているので、「自分と闘うな!」ということは、「世界と闘

うな!」ということになってしまうわけです。ならば、「自

分と闘うな」は「すべてと闘うな」ということなので、結果

的に「とにかく闘うな」ということになってしまうのです

ね。


 「闘うな」
 

 人は何の為に闘うのでしょう?

 闘うことで、何か良いことがあるのでしょうか?


 良いことなんかありません。

 そもそも、「闘い」は良いことも悪いことも生み出しませ

ん。闘う者が「良い」とか「悪い」とか意味付けするだけ

で、「闘い」はエネルギーの浪費に過ぎません。


 《 世の中に、寝るほど楽はなかりけり、

       浮世のバカは起きて闘う 》


 原文は「闘う」ではなく「働く」ですが、同じことです

ね。ビジネスは「競争」や「戦争」などと形容されますから

ね。
 

 人の行為は、視点を変えればまったく評価が違ってしまう

ものです。広島・長崎に原爆を落としたことは、肯定派のア

メリカ人からすれば「良いこと」ですが、日本人からすれば

「虐殺」であり「悪いこと」です。

 人は、その視点の違いゆえに「闘う」のですが、浮世とい

うものは、「浮いている」という表現が示すように、実体が

ないのです。妄想をベースに出来ています。なので、その中

ではどのような視点を持つことも可能です(こんなブログも

書けます)。それは「良いこと」にも「悪いこと」にも、確

かな基盤が無いということです。だからこそ「闘う」ことが

可能です。


 もしも、「良いこと」「悪いこと」に確固たる基盤があれ

ばどうでしょう? 闘わずとも答えは出ているのではないでし

ょうか? 

 「良いこと」「悪いこと」が分からないからこそ、闘って腕

ずくで決着を付けなければならないのではないでしょうか? 

そして、その結果出て来る答えは「正解」なのでしょうか? 

当然違いますよね。話は「良い」「悪い」、「正しい」「間

違い」から逸れて、「勝った」「負けた」になってしまって

います。〈 勝てば官軍 〉というのは、「話がずれてるよ」と

いう揶揄ですからね。


 「良いこと」「悪いこと」というのは、極端に言えば「気

分」でしかありません。自分の気分を良くしたいが為に、人

は闘うのです。なんとマヌケなことでしょうか。


 《 機嫌の悪い奴はバカである 》

 《 しあわせになるのに理由はいらない 》


 気分良くなる為に闘う必要などありません。それは愚か者

のすることです。

 気分良くなりたければ、今すぐ「気分良く」すればいいの

です。それだけです。

 それができないのならしようがない。不機嫌のままでいれ

ばいい。自分のマヌケさを噛みしめながら。


 仕事であれ、スポーツであれ、そこに闘いがあれば、それ

は愚かです。勝者も敗者も愚か者です。仕事であれスポーツ

であれ、それは楽しむべきものです。遊びです。けれど、浮

世には愚か者があふれているので、なんでもかんでも、すぐ

に「闘い」にしてしまう。
 

 《 闘う奴はバカである 》
 

 正当な「闘い」など無いのです。闘った瞬間、人はバカな

のです。


 ガンと闘うな。

 自分と闘うな。

 ひとと闘うな。

 社会と闘うな。

 とにかく闘うな!


 「浮世」の正しさは、「命」の正しさではないのだから。







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