2019年6月29日土曜日

反社会的勢力?



 最近、「反社会勢力」とかいう言葉をよく見聞きする。芸

人の闇営業の話題で出てくるのだが(しかし、“闇営業” な

んて酷い言葉だね。「悪い事をしている」というイメージを

強めたいんだろうなぁ)、詐欺グループだとか暴力団を「反

社会勢力」とか「反社会組織」と呼ぶのは妥当だろうか? 

ああいう人たちは「反社会勢力」ではなくて、「二次社会的

勢力」とでも呼ぶ方がいいのではないだろうか? 彼らは、

充分に「社会的」だろうから。


 社会がどうしても内包してしまう “闇” の部分に居場所を

見つけて、その部分で、その部分のやり方で、社会活動をし

ているのであって、決して「反社会的」ではないだろう。彼

らも含めて「社会」なのだと思うね。

 「社会」は、すべての人間を取り込めるほどの柔軟性や完

成度を持っているわけではない。どうしても「社会」が取り

こぼす人間が出てくる。それも結構な割合で。

 その中では、社会不適応を起こす人たちも居る。

 ニート・引きこもり・鬱・パニック障害・自閉症・発達障

害などの人たちや、なんらかの依存症になる人たち。そうい

った人たちは、「社会」に適応出来なくて、「社会」から距

離を置くしかなくなってしまっている。これらの人たちは個

人の枠から出られなくなっているわけなので、「外社会的」

とでも呼ぶべきだろうか。


 一方で、社会不適応を起こしながらも普通とは違う形で社

会適応する人たちがいる。それらの人たちは、社会に裏側か

ら適応しているのであって、「反社会的」なのではない。

「社会」の方では認めたくないだろうけれど、彼らは「社会

的」なのだ。やはり「二次社会的」とでも呼ぶべき存在だろ

う。だって、組織を作ったり、ある目的を持ったグループに

なって、その中で秩序だった活動をしているのだから「社会

的」なんですよ。ただ単に法律を順守しないというだけです

(「ただ単に・・」というのはイケナイか・・)。


 では「反社会的勢力」と呼ぶべきはどのような人たちか?

 「地下鉄サリン事件」を起こした時のオウム真理教など

は、確かに「反社会的勢力」だったと言えるでしょうね。け

れど彼らは自分たちの社会を持っていた、あるいは持とうと

していたのですから、「社会」という在り方自体を否定して

いるのではない。今ある「社会」に反対していたのだから

「反・現社会勢力」でしょう。「この社会は気に喰わな

い!」と言っていたんですね。


 では、「反社会勢力」なのはどの様な人たちか?

 本当に「反社会的」なのは、私のような人間でしょうね。

だって、このブログでは社会を否定する事をいっぱい書いて

いるんですからね。けれど「勢力」ではありませんね。一人

ですからね。


 「反社会的」な人間が「勢力」になるはずがありません。

「勢力」あるいは「組織」になれば、それはもう「社会」で

すから、「反社会的な人間」は個人に留まらざるを得ないん

です。だから「反社会的勢力」だとか「反社会的組織」だと

かいうものは存在しないんですね。そういったものは単に

「違う社会」ということです。


 「イスラム原理主義者」と「キリスト教原理主義者」は、

お互いからすれば「反社会的勢力」でしょうが、それぞれに

それぞれの「社会」を持っているだけですね(仲良くすりゃ

ぁいいのになぁ)。


 ということで、私は「反社会的」だというわけなんです

が、このブログの中でも度々書いているように、人間は「社

会」を作らざるを得ません。「社会」を作らずに生きて行く

ことは、ごく稀な場合を除いて不可能です。なので私も「社

会というものを作ってはいけない」というのではありませ

ん。ただ、「“社会” というものは、個人の集団が生きて行

くための “方法” に留まっていなければならない」と思って

いるだけです。


 人は手段と目的を取り違えるのを得意としている》存在

です。人が生きて行き易くするために生み出した「社会」で

あったはずなのに、「“より良い社会” の為には、人が生き

辛くても構わない」ということになってしまった・・・。人

間は、いったい何をしているのでしょうか?


 今、“生き辛さ” を感じていない人たちの多くは、「社

会」のパーツとして効率よく動けているだけなのかも知れま

せん。そのような人たちは、この先さらに効率化と管理が進

めば、「社会不適応」を起こして「社会」から外れてしまう

ことでしょう。そして最終的には「社会」というシステムか

ら人は排除されてしまうでしょう。ごくわずかな、“「社

会」のパーツに成り切れる人間” を除いて  それを人と

べるかどうかは疑問ですが・・・。


 個人が「社会」の道具とされている限り、私は「反社会

的」に成らざるを得ませんね。「勢力」に成ることはありま

せんがね。

 もし「勢力」になってしまったら、それは私が「社会」に

取り込まれてしまったということですね。


 こうやって、ほとんど誰も知らない所で「ブツブツ」と独

り言を言っているのは、ある意味、当然のことなわけです。



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 こんな話がお好きでしたら、『リアルマトリックス』

(2017/3 )という回も見てね。



 

2019年6月27日木曜日

“経済” をリセットする。



 「経済が煮詰まって来たようだ」と前回書いた。その続き

を考えてみる。つまり、なんとか話をでっち上げようという

わけです。


 「経済が煮詰まった」といっても、「不景気になった」と

いうようなことではない。“経済” という人間の活動自体

が、もう前に進めなくなりかけているような気がするので

す。


 “経済” といえば、“お金” の動きのことと考えていいでし

ょうが、その “お金” が消えようとしている。だって「キャ

ッシュレス」なんだから。

 “お金” というものは、「社会の中でサービスを受ける権

利を数量化したもの」です。

 さまざまな場所で、さまざまなサービスを受ける(買う)

権利を担保する為に生み出されたものが “お金” というもの

ですね。それを提示してサービスと交換する。サービスと交

換に、サービスを受ける権利を譲渡する。“お金” のやり取

りは、“権利” のやり取りです。

 ところがキャッシュレス化すると、“権利” の「情報」だ

けが何処か知らないコンピューターネットワークの中を行き

来することになるけれど、それは “権利” という、もともと

「情報」であるものが、純粋に「情報」となることなんです

が、それは何を意味するか? 何をもたらすか?


 キャッシュレス化が進めば、当然ながら給料もキャッシュ

レス化する。すでに当たり前にそうなっていて、給料という

ものは銀行のデータとして与えられるものになっているけれ

ど、これからはそのデータが現金化されることはなく、デー

タのやり取りだけが行われることになる。その他、ありとあ

らゆる資産も現金化されることはなくなる。そうなった時、

人は “経済” というものが「権利の情報」のぐるぐる回しで

しかないことに気付くのではないだろうか? “経済” や “お

金” に対して抱いていたイメージが崩壊するかもしれない。

 五感で世界を捉えている人間にとって、「現物」というも

のの持つ「実体感」の影響は大きい・・・。“現金” という

「現物」が消えることは、“経済” に対する「実体感」を揺

るがすかもしれない。


 何が言いたいかというと、“電子決済の手数料” という形

で搾取される内に、人々は物々交換を始めるかもしれないと

いうこと。

 物々交換から始まった “経済” というものが、純粋な「情

報」の動きだけになった時、人々の営みから “経済” が浮い

てしまって、“経済” が見捨てられるかも知れない。


 それはコンピュータネットワークから離れたところで、個

人と個人から起こる。「どうせ、何処かで数字のやり取りし

ているだけなんだから、そんなこと無視して、直接交換し合

おうよ」と。


 起り得ることだと思う。もうすでに起り始めていることだ

ろう。思いもかけず大きな波となって、世界を変えてしまう

かもしれない。

 進化し続けて、その極限まで来た “経済” がリセットされ

て、物々交換の  “始め” に戻る。面白いんじゃない?

 “お金” の動きに直接介入して、大儲けを企んでいた連中

は泡を吹くかもしれない。そうなれば本当に面白いね。



 というような話をでっち上げてみましたけど・・・、どう

でしょう?

 
 ヨタ話だけどね。でも、ホントにそんなことが起るかも知

れないよ。人間は不合理なものだし、歴史は予想外な事ばっ

かり起こるもんだからね。




2019年6月26日水曜日

キャッシュレスはサクシュデス(搾取です)!



 この頃「キャッシュレス化」だなんとかウルサイ。

 私なんぞはスマホを持たないので、この先困ることになる

のかも知れない。クレジットカードで勘弁してもらいたい。


 ところで、私は経済にはうといので間違ってるのかも知れ

ないのですが、キャッシュレスが当たり前に普及すると物価

が上がると思うんだけど、違うのかしら?


 電子マネーのサービスは信販会社や IT 企業といった民間

企業がやっていて、そこには当然、提供する決済サービスの

手数料が発生する。その手数料は店など、物やサービスを売

る側が負担するのだが、売る側はこれまた当然のこととし

て、その分を価格に上乗せする。せざるを得ない。

 それが一部の商品や一部の店だけならともかく、あらゆる

支払いが電子マネーになると、決済手数料の分だけ物価が上

がることになると思うんだが、そうはならないのだろうか?

 そして、その物価が上がった分はすべて、電子決済サービ

スを提供する企業に流れて行く。わたしたちがお金を使うた

びに  といっても電子マネーだが  決済サービス会社に

お金が自動的に流れてゆく・・・。何百億円も使ってキャン

ペーンをして利用者を増やしたいはずだよね。そんな金、す

ぐに元が取れるにちがいない。


 しかし、民間企業にそんなことを自由にさせていていいの

か? 「便利だ、便利だ!」などと浮かれているけど、決済

会社が結託して手数料をコントロールすれば、いったいどう

なる? 手数料の上限なり、利用者数に応じた手数料収入の

上限なりを法律で規制しなければ、ひどい搾取の構造が固定

化してしまいかねない・・・。などと思うのだけれど、違う

のだろうか? 
 

 あらためて申しますが、私は経済にはうとい。なぜうとい

かというと、経済という「魔物」に関わりたくないので、で

きるだけ関わらないようにしてきた結果ということです。そ

んなものに自分の人生の主導権を取られたくはない(ほとん

どムダな抵抗ではあるけれど)。
 

 人が「経済」に呑み込まれて長い長い年月が経ったけれ

ど、最近の「キャッシュレス化」の流れを見ていると、いよ

いよ「経済」と「人間」の関係も煮詰まってきたような気が

する。どう煮詰まって来たかは次回考えよう。なぜなら、も

う、眠くなってきたので・・・。


 おやすみなさい。



 

2019年6月23日日曜日

ホント・・、大袈裟。



 18日に新潟で震度 6 強の地震があったわけだけれど、も

うこのごろは震度 6 程度では大したニュースにならない。

これが三十年前なら、一週間は報道が続いて、テレビが特番

を組んだだろう。しかし、阪神淡路大震災以後に大きな地震

が何度も起って、極めつけに東日本大震災まで起きたので、

日本人の地震に対する感覚は本当に変わってしまったね。

 “震度6” なら、どの程度の事が起るかという事をみんな

よく知っているから、「ああ、震度6か」なんて言って、3

0分もニュースを見てたらいい方だろう。もちろん当事者に

なれば話は別だけれど、それでも被災後の身の処し方も、以

前とは大きく違っているだろう。

 「社会がどう動くか」、「自分はどうしていたらいいか」

という事を、誰もが学習していて、かなり落ち着いていられ

るようになっているね。

 そうやって、日本人の地震に対する冷静さは格段に増して

いるのに、マスコミが大事(おおごと)にしよう大事にしよ

うとするのがホントに不快だ。


 昨日も、テレビを見ていると、瓦が落ちているのを見たリ

ポーターが、「瓦が地面に叩きつけられて割れています」と

言う・・。地面に「落ちている」んでしょ。

 道路が10㎝ほど陥没しているのを見て、「地面が大きく

陥没しています」と言う。

 住宅の室内の壁に2~3㎜のヒビが入っているのを見つけ

て、「こちらのお宅では、壁に大きなヒビが入ってしまって

います!」などと言う。

 だいたい、ああいう中継をする連中は、走って来たわけで

もないのに、何故 “荒い息” を吐きながらリポートをするの

か?

 何にせよ、「そういうもんだ」と思い込んでいるのだろう

なぁ。「マスコミはバカですよ」と自ら表現しているような

ものだと思うけどなぁ。もういい加減にしたら? いつまで

バカを続けるの?


 「大事(おおごと)にしよう」

 「大袈裟にしよう」

 「深刻にしよう」

 それが至上命題なんだろうけど、それは世の中にかなりの

害悪を流していると思うね。

 罪ですよ。


 「大事(おおごと)」とは何か?

 いったい “何” が「深刻」なのか?

 基本的には「人が死ぬ事」でしょうねぇ。でも、人はみん

な死ぬでしょ?


 「瓦が地面に叩きつけられています」という表現も、「地

面が大きく陥没しています」というのも、それが普段は起き

ない異常事態だから、その分「人は死に近づく」ということ

を表現しているのだろうと思うけれど、人はみんな死ぬでし

ょ? 災害に遭って死ぬ事や、病気になったり、事故に遭っ

て死ぬことは当たり前ですよね。

 それ以外には老衰しかないのだし、「災害」や「病気」や

「事故」で死ぬことは別に “異常” ではない(このごろは、

老衰で死ぬ事さえ “異常” のようですが・・)。


 そりゃぁね、身内が死ぬ事は大事(おおごと)ですよ。

「そんなことで騒ぐな」とは言えない。けれど「災害」も

「病気」も「事故」も起るんですよ。人はみんな死ぬんです

よ。その「災害」や「病気」や「事故」で、日本では毎日三

千人以上が死んでいるんですよ。その当たり前の事実は、謙

虚に厳粛に受け止めるべき事だと思うんですよね(「犯

罪」や「戦争」による “死“ の受け止め方は少し違うとは思

ますが・・・)。

 ところが、マスコミはそれを「大事(おおごと)にしよう

事にしよう」とする。それに乗せられて人も「大事」だ

い込む・・・。

 けれど、考えてみて下さい。誰も死ななかったらどうなる

んでしょう?

 生まれて来る人間が、みんな永遠に生き続けたらどうなる

のでしょう?

 それは想像を絶する・・・。


 人は生まれて来て、人は死ぬ。その事実を謙虚に受け止め

るべきですよ。

 百歳以上まで生きる人もあれば、生まれたその日に死んで

しまう人もいる。その人生に・・、いや、その命の価値に違

いは無いと私は思う。

 あさはかな価値観にもとづいて、「死」や「死をイメージ

させる」ことがらを、大袈裟に、深刻に演出することは下品

なことだと思うね。そこには「生きること」について深く考

えていない「怠慢さ」や「無責任さ」が感じられる。

 「人が死ぬ事はいけないこと」という、無責任でステレオ

タイプな判断放棄があって、「死」を本気で受け止めてはい

ないと思う。


 「災害」で「事故」で「病気」で、あるいは「犯罪」で

「戦争」で、さらには「老衰」で人が死ぬ。いづれにせよ人

が死ぬ。もちろん、それは軽いことではない。身近な人にと

っては、その人の世界が大きく変わってしまうことだ。けれ

ど、そのことをことさら大袈裟に、より深刻に演出すること

は決して良いことではないだろう。


 遅かれ早かれ、すべての人が受け入れるしかない「死」と

いうものを、たかがマスコミの “印象操作” にのせられて、

無自覚に「深刻」に受け止めるべきではないだろう。だっ

て人はみな死ぬのだから、「死」が深刻なだけならば、生き

ること自体が深刻になってしまう。「生きること」は、そん

なことでいいのか?


 わたしたちは「死」を “深刻” なことと決めつけているけ

れど、改めてそれを捉え直すべきなんだろう(犯罪や戦争に

よる「死」は、やはり意味合いが違うだろうけど)。


 以前にも書いたけれど、わたしたちは「死」から生まれて

来る。(『死から生まれて来た』2019/2)

 「死(の世界)」こそが、この世界の本質。

 「死(の世界)」は、わたしたちの「生の世界」よりワン

ステージ高く、遥かに広大な「〈命〉の世界」と捉えるべき

だろうと思う。「死」をむやみやたらに忌み嫌うのは、エゴ

がパニックを起こしているのでしかない。 


 自然の成り行きとして起こることを、「異常」と見做し、

「大事(おおごと)」にして、「大袈裟」に取り上げ、「深

刻」に扱うことは、さらなる「不安」や「問題」を生み出す

だけだ。それは、人の本性が求めることではないだろう。


 “人” は特別な存在なのかもしれない・・・、けれど、自

然の理(ことわり)の中では、他の存在となんら変わりはな

い。アリやゴキブリやネズミやクラゲと変わりなく、生まれ

ては死んで行く・・・。けれど、そのことを受け入れること

でこそ、わたしたち人が持つ〈意識〉の “価値” ・ “意味合

い” が輝くのではないだろうか? 

 そうしてこそ、“人として生れて来た値打ち” を知るこ

とができるんじゃないだろうか?


 「大袈裟さ」や「深刻さ」や「大切さ」はアタマがでっち

あげるものなので、訝(いぶか)しんで、真に受けないよう

にしないと、人は生き損ねるでしょうね。


 この世で起る事は、この世の事ですから、起きてしかるべ

き事なんですよ。

 だから、本当は「深刻」な事なんて一つも無い。

 アタマが「深刻」な事を生み出して、「深刻」な事を “世

の中” に定着させて行く。

 それを、ひとりひとりの人間が取り込んでしまって「深刻

さ」を増幅させてゆく・・。


 「戦争は “深刻” な事じゃないか!」


 確かに戦争は「深刻」な事ですよ。でも、戦争が起るの

は、ひとりひとりの「深刻さ」が集まって増幅されるせいで

す。

 エゴが「自分が、自分の望む様に生きたい!」と思う。で

もそれが叶わない。それを「深刻」に捉え、それが叶うよう

に世界を変えようとする・・・、その究極の結果が戦争で

す。戦争が「深刻」なのは、人が生み出す「深刻さ」が増幅

し切った結果であって、人が「深刻さ」を生み出さなけれ

ば、そもそも起きないことです。

 善きにつけ悪しきに付け(人間の価値感の上でですが)、

「大袈裟」に、「深刻」にするのは人間の病気です。人間の

悪業です。その悪業が、本当に「深刻」というしかない出来

事を実際に生み出してしまう・・・。

 人が、出来事を「深刻な事」と「何でもない事」のように

分けなければ、わたしちはかえって、穏やかにしあわせに生

きられるのではないでしょうか? 「深刻な事」ではなく、

「大切な事」に気付くのではないでしょうか?


 テレビやラジオが生まれてたかが数十年。インターネット

はもっと最近。新聞はもう少し古いけれど、それらメディア

は “エゴの増幅装置” ・ “エゴの濃縮装置” としての働きの

方が強い。

 物事を人に伝えるのなら、“ありのまま” 、“額面通り” に

伝えるのが人としての “たしなみ” でしょう。

 まぁ、マスコミにそんなことを期待しても無理なので、受

け手が気を付けるしかないでしょうね(受け手に “それ” を

期待するのも無理でしょうが・・)。


 本当に、マスコミの幼稚さ加減にはウンザリです。まぁ、

私も “しっかりとした受け手” だとは言えませんが

ね・・・。やだねぇ。








 

2019年6月16日日曜日

何用あって大気圏外へ?



 最近、宇宙関連のビジネスのニュースをよく目にする。

 いろんな投資家・事業家が宇宙旅行や衛星の利用などのビ

ジネスに参入しているようだけれど・・・。


 半世紀も前、アポロ11号が月へ行った時、山本夏彦氏は

「何用あって月世界へ」と言った。当時、そんな技術力を持

っていたのはアメリカとソ連だけだったけれど、今や民間参

入が可能な時代になって、猫も杓子も「宇宙へ!」と息巻

く。

 「何用あって大気圏外へ?」。


 もはや地上ではビジネスのネタが尽きたのだろうな。

 「何用」も無くても、とにかくビジネスを続けなければな

らない。経済は拡大し続けなければならない。「地球でする

ことがないのなら、宇宙だ!」ということなのだろう。


 まあ、好きなようにすればいい。

 どんな問題を引き起こそうとも、どんなにムダでも、他に

すべきことがあっても、そういう必然なのであればそうする

しかないからね。人は愚かなまま行くのだろう。行けるとこ

まで・・・。
 

 人が宇宙に関心を持つのは、「自分たちが生きているこの

世界がどういうものであるかを知りたいから・・」だったと

思うけれど、そこに政治や、ましてや商売が絡んで来ると、

もう別の話になってしまう。ただでさえ地に足が着いていな

いのに、もはや完全な妄想の世界に入り込む事になる。「何

用あって大気圏外へ?」。


 バカな科学者が「火星の環境を地球のように変えて、住む

ことが出来るようにするのは可能だ」とか言う。目立ちたい

だけなんだろうな。

 ああいうことを言う奴は、すぐに「生命の存続に必要な 

“水” があるかどうか」というけれど、仮に十分な水があっ

たとしても、地球型の生物のからだを構成するのに必要な、

炭素や窒素などが無ければ(それだけじゃ済まないけれ

ど・・)、増える事はできない。それはどうするの? 

 地球から運ぶの? 他の惑星からメタンガスやらアンモニ

アなんかを採って来るの? 

 コスパが悪すぎてどうにもなんないだろうな。

 もういいかげんにしたら?


 終りなんだと思うよ。この文化は、文明は。

 滅びるとかいう以前に、もう行き詰ってるんだよ、あらゆ

る面で。もう新しいことは生み出せない。

 人の考えうること、出来うることは、基本的に出尽くした

んだと思う。残っているのは、ちょっとしたアレンジを加え

ることだけ。それすらもあと数十年で行き詰るような気がす

る。

 商売やテクノロジーだけの事ではなく、芸術でもエンター

テイメントでもフアッションでも他のあらゆる文化でも、も

う考えつくされてしまっている。


 今日は『ゴジラ キング オブ モンスター』を観て来たんだ

けれど  ゴジラ映画はすべて観るようにしている。そうい

う世代の男子なもので  、怪獣のバトルが迫力があって、

娯楽映画として面白かったけれど、ストーリーはもう目新し

くない。もう新しい発想は出て来ない。最後は、アメリカ人

大好きの、“家族の絆” だし・・。


 認めるべきだと思うけどね。「もう終わりなんだ・・」

と。

 大気圏外へ行ったってしようが無い。

 「宇宙」なんていうけれど、月だって地球の衛星であって

地球圏内なんだから、「宇宙へ行った」なんて言えるのはせ

いぜいボイジャーとか火星探査機とかぐらいだろう。

 「大気圏外へ」なんて、バカみたいに(というかバカだけ

ど)エネルギーを浪費して、話のタネになるだけでしょう?

ちょっと自慢したいだけでしょう? 

 そんなことを「凄いこと」のようにもてはやすのはもうや

めにしたらと思うんだけどね。


 もう終わりなんだよ。

 もうすることないんだよ。

 “ちょっと刺激があるだけのどうでもいい事” を、「価値

が有る」ことのように吹聴し合って、その実、経済に動かさ

れてるだけなんだ。わけが分かんなくなってるだけなんだ。

 それは人の「業」としてしかたがないことではあるけれ

ど、ここ百五十年ほどのバカ騒ぎは、バカ過ぎたんだと思う

よ。

 時々美味しいものを食べて酒でも飲んで、そこそこ働い

て、歌でも歌って、昼寝でもして・・・。

 人の暮らし・文化って、その程度で十分なんだろうと思う

けどね。等身大のね。




 

2019年6月9日日曜日

厳しい指導と体罰



 ちょっと前から、尼崎の高校で「体罰があった」とかどう

とかニュースが流れているけれど、ああいうのは体罰ではな

く単に暴力と言うべきでしょ。そもそも「体罰」という言葉

自体はもう無くすべきなんじゃないかと思う。別に罰として

手を出しているんじゃなくて、ただ気に入らないから手が出

てるだけだろうから。それに、言葉で追い詰めるのも十二分

に暴力として機能するのに、「体罰」というと身体的な面だ

けしか問題にされないので、心身両面に対する暴力を無くす

ためにも、「体罰」という言葉を使うのは辞めて、「暴力」

と言う方が良いでしょう。


 「体罰」というと真っ先に思い浮かぶのが、「バケツを持

って、廊下に立ってなさい!」というやつですね。授業中に

ふざけたりして、授業の進行を妨げた生徒に罰として課

したり・・・。

 今の学校では、もうそんなこと有り得ない。まさに「体

罰」なので、そんなことをしたらただでは済まないのでしょ

う。けれど、今回のニュースのような「指導」のつもりの

「暴力」(あるいは、「指導」の名を借りた「暴力」)とは

違って、「バケツを持って立ってなさい!」には、「ペナル

ティ」としての機能と正当性はあるのではないか?


 「バケツを持って・・」という部分は、アナクロニズム

で、もはややり過ぎだろうけど、授業を妨害した生徒に反省

を促す意味で、「15分間、後ろに立ってなさい」ぐらいは

アリだろうと思う。他者の権利や尊厳を損なう者にペナルテ

ィが与えられるのは、どこの社会でもごく普通の事ですから

ね。なぜなら、他者を軽んじて敬意を払わない人間というも

のは、当たり前に存在するし、子供の場合「敬意を払う」と

いう態度・考え自体を理解できていなくても普通なので、ペ

ナルティが無ければ、他者をなめたまま「それで問題無い」

という意識のまま成長しかねない。


 人というものは、特に子供というものは、自分が損しなけ

れば平気でわがままを通そうとするものです。そうでしょ?

「自分が損することはない」と思ったら、すぐに人をなめて

かかる。それがわたしたち人間ですから、ペナルティは有っ

ていいのだろうと思う。ただし、課す側と課される側がそれ

を「ペナルティ」として理解できていて、それが身体的にも

精神的にも「暴力」とならないようなデリケートさが必要で

しょうがね。



 とまぁ、そんなことはさておいて、私が気になるのは、世

間でよく使われる「厳しい指導」という言葉の方です。

 「体罰」という名の暴力も、「厳しい指導」というものの

中で「厳しい指導」の一環として振るわれるのが常です。

「優しい指導」の中で「体罰」というか暴力が振るわれると

いうのは・・・、ちょっと考えにくいでしょ?


 学校で、職場で、さまざまな組織・集団で、家庭で、「厳

しい指導」や「厳しい躾け」という名目で、指導する側が指

導される側に暴力を振るう・・・。

 何かと言えばすぐに「厳しい指導」と言って、指導する側

の真剣さの現れのように言うけれど、それは簡単に、身体

で、態度で、言葉で振るう「暴力」になりかねない。だいた

い「厳しい指導」というものが必要か?


 「厳しい訓練」というのなら分かる。

 例えば、消防や海上保安庁のレスキューは、「厳しい訓

練」をこなさなければ、自身と仲間と要救助者の命を危険に

晒す。それは、必ず必要だろう。けれど、そこに「厳しい指

導」は必要だろうか?


 「厳しい訓練」をこなさなければ仕事に従事できないとい

う「厳しい現実」が有れば、それで事足りるだろう。何も上

司・上官がことさら「厳しい指導」をしなくても、「これが

出来なきゃ、死んじゃうよ。君か要救助者が」と言い、「こ

の訓練をクリア出来なければ、仕事に就かすわけにはいかな

いんだ」という現実があれば、指導される側は自らを奮い立

たせるだろう。そうは思いませんか?


 厳しくされなければモチベーションが上がらない人間なん

て、そもそも「甘い」のであって、「厳しい現実」が目の前

に立ちはだかったら、そこで自分の「甘さ」に気付くもので

すよ。もしそこでも気付けないようなら、その人間はそもそ

も本気じゃなかったか、それに合っていないのですよ。違う

道へ進むべきでしょう。


 そういった過酷な職業の過酷な訓練にあっても、「厳しい

指導」の存在意義はないと思いますから、学校の部活や企業

の現場や家庭での「厳しい指導」や「厳しい躾け」というも

のは、単なる「暴力」の温床になるだけですね。

 “相手の為になる殴り方” ができる人なんて滅多にいない

し、今の世の中ではなおさら少ないことでしょう。みんな昔

以上にアタマ優先で生きていて、アタマ優先だからこそ「手

が出る」、「口(暴言)が出る」。


 「厳しい指導」なんて辞めればいい。無くせばいい。

 何の為の「厳しい指導」?

 「厳しく」して、それで何をさせたいの?

 勉強?

 スポーツ?

 仕事?

 そんな程度のことでしょ?

 どれも、「厳しい指導」をしてまで、「厳しい指導」を受

けてまで得られるのは、「他者より上に行く」「他者に勝

つ」ということでしょ? 

 ただのエゴの満足じゃない。


 「そんなことはない!“厳しい指導” の中で、人間的に成

長するのだ」


 そんなことを言いだす人がいっぱいいるのでしょうが、

「厳しい指導」を受けた人はそれが “単なる苦痛” でしかな

かったことを認めると、自分の人生のかなりの部分がムダに

なるように思えるので、そんなこと認めたくない。そして、

それゆえに自身も人に「厳しく」しがちになる。それが「人

間的成長」ですか?

 「厳しい指導」は “苦痛の再生産” を続けてゆくので

す・・・。


 勉強。スポーツ。仕事。

 どれも、仲良く、機嫌良く、気楽にやればいいんです。た

かが、勉強。スポーツ。仕事じゃないですか。大事なのはわ

たしたちが仲良く、機嫌良く生きられることの方でしょ?

 「厳しい指導」なんて、サディスティックでマゾヒスティ

ックな事が好きな人は勝手にやったらいいけれど  人が好

きな事を邪魔してはいけない  、それが何か良いことのよ

うに言ったり思い込んだりするのは、もう辞めにしましょ

う。「厳しい指導」なんて、わたしたちの世界には必要あり

ません。

 そんなものを「良いこと」のように思い込むから、かえっ

て世の中が悪くなるんですよ。


 「“厳しい過程” をクリアしなければ、君の目的は達せら

れないよ」と、「厳しい現実」がある時に、「優しい指導」

をしてあげられればそれで十分でしょう。後は、本人の問題

なんだから。


 「厳しい指導」というようなものが必要なことがあるとす

れば、それは自分自身を損なったり、他者を損なったりしよ

うとしている人間に対してだけでしょうね(生徒を殴る指導

者のような・・)。

 人が幸福への道を見失って、それを正す為に「厳しさ」が

有効なことはあるでしょう。

 ただ「野球やサッカーが上手になって、他の者に勝てるよ

うに “厳しい指導” を・・・」なんて・・・、私はバカだと

しか思わない。

「お客様に迷惑を掛けない為に、厳しく指導する!」なんて

のもあるだろうけど、「厳しい仕事」を出来るようにする為

に 「優しい指導」をすればいいだけで、それが出来ないの

は人を指導する能力が欠けているんだよ。


 核心を突いちゃいましょうか?
 

 「厳しい」と、自分のしている事の価値が高まるような気

がするだけなんですよ。何か「大したこと」をしているよう

な気分になれる。

 ただの思い込みですけどね。

 ただの思い込みも、みんなの共通了解が得られると、価値

が有ることになりますしね。(というか、「価値」というも

のは、すべてそういうものだ)


 「厳しさ」なんて言葉、強欲でサディスティックなアタマ

を持つ人間が作り出した、“ゴミ概念” だと思うな。


 楽しくやれよ。

 人に敬意を払えよ。

 仲良くしろよ。

 それ以外の価値なんて、すべて思い込みと約束事でしかな

いんだから。

 

2019年6月5日水曜日

『拡大自殺』なんて、お手軽な言葉を使うんじゃないよ。



 “引きこもり” の人が関わった事件が相次いで、“引きこも

り” に対する偏見というか無理解が、「悪意」に変質しそう

な雰囲気が出て来ているようですが、少し前に私は、『引き

こもって当たり前じゃない?』(2019/4/4)という話を書

いた。

 「“引きこもってる人” が異常なんじゃなくて、この社会

が異常であり、その社会に適応できている人の方が異常なん

だ」という話だったんですが、社会適応出来なくて、その挙

句に無差別に人を殺すなんて言うのは、もちろん異常に決ま

っている。断罪されて仕方がないのですが、この犯人が異常

な行動に出たのは、この社会の異常さが、その人間を通して

表に出て来たということだと思っています。それが今回はた

またま “引きこもり” の人だったということですよ。


 これまでにも、無差別殺人や通り魔殺人は何度となく起き

て来たけれど、昨日まで普通に働いていた者が起こすケース

もある。

 あきらかに社会適応出来ていなくても、表面上社会適応出

来ていながら内面的には強いストレスを抱えている場合で

も、その「不適応」が閾値を越えてしまえば、人は自身のコ

ントロールを失って暴走する・・・。殺人、自殺。


 今回は、心理学者と称する人間が、『拡大自殺』などとい

胡散臭い概念をマスコミ向けに出したこともあって、いろ

いろ騒ぎになっているようだけれど、あんな言葉は、人を理

解するためのものではなくて、適当な所で思考停止して楽す

る為にあるようなものでしょう。


 殺した方も、殺された方も、それぞれ一人の人間ですよ。

 殺した方と殺された方のどちらをも “人間” として並べる

と、怒る人がいっぱいいるでしょうが、それぞれに無限の因

果の働きに動かされた結果として、殺す側になり、殺される

側になってしまったのですよ。『拡大自殺』なんてひとつの

お手軽な言葉で括って楽しようとしないで、ちゃんと自分の

心の動きとシンクロさせて、殺した側の狂気と、犠牲になっ

てしまった側の恐怖や無念を「感じ取ろう」「理解しよう」

とするべきですよ。

 『拡大自殺』なんて、そんな言葉を使った瞬間に、他人事

になるんですよ。


 そりゃぁ、他人事なんですよ・・。当事者の気持ちにはな

れない・・。けれど、言葉で簡単に括らずに、できるだけ心

をシンクロさせて、その人間の想い・在り方を解ろうとする

のが、あのような出来事との誠実な関わり方なんじゃないだ

ろうかと思うんです。


 そりゃあ、殺された方が気の毒ですよ。家族はたまらな

い。冷静に受け止めることなんか出来なくて当然。そんなこ

とは、普通の人であればさしあたり想像がつく・・。想像が

つくだけで、同じ想いになれるわけではないけれど・・・。

 でも、考えてみて下さい。自分ならば、今回の事件の犯人

になるか? 被害者として死んでしまうか?どちらがマシで

すか?


 こんなことを言うと、烈火のごとく怒る人が沢山いるので

しょうが、犯人と、犠牲になった人と、それぞれの心に自分

の心をシンクロさせようとした場合、犯人の心にシンクロさ

せた場合は、とてもじゃないが “地獄” ですよ・・・。犠牲

になった人の心の方が、まだ救いがある・・・。


 こんな話、受け付けられない人もいるでしょうが、犠牲に

なった人と、その人の家族といった当事者の “救い” がある

とすれば、まさにそこに在るはずなんです。


 同じように人として生まれて来て、「人を殺す」というさ

だめになった人と、「殺される」というさだめになった人

と、どちらも望んだことではないはずですよ。

 「人を殺す」さだめになった人は、「人を殺してやろう」

という望みを持ったかもしれないけれど、生まれた時からそ

う思ったはずがない。なのに、「人を殺してやろう」という

衝動が自分の中に湧きあがり、実際に人を殺してしまっ

た・・・。いったい誰がそんな人間になることを望む? で

も、そういう「生」を生きることになる人がいる・・・。


 人は、止むに止まれず、望んでも望まなくても、自分のさ

だめを生きるしかない。

 「動機」だとか「理由」だとか、そんなもの探ってみて

も、上っ面の辻褄合わせでしかない。『拡大自殺』なんて言

葉を思い付いて、そこで思考停止して楽しても、人が生きて

行くことの「苦しさ」も「悲しさ」も、誤魔化し切れはしな

い。


 悲惨なことは起って欲しくない。

 ならば、その「悲惨」が味あわせるものを、どれほど苦く

ても、しっかりと味あわなければならないでしょう。誰もが

ね。

 言葉で辻褄合わせをするのではなく、苦しくても、気持ち

悪くても、あまりに悲しくても・・、心を開いてね・・・。



2019年6月2日日曜日

正しくなければいけないのでしょうか?



 前回は、かなり非常識な事を書いてしまったなと思ってい

る。血も涙もない人間だと思われかねない内容だ。これが人

気ブログだったりしたら間違いなく炎上してるだろうと思う

けれど、幸いにもこのブログはインターネットの辺境にあ

る。どこかの田舎の村立図書館の棚の隅にある郷土史さなが

らに、人の目に触れない(なんか悲しくなってきた・・)。

 だからといって、好き勝手に酷いことを書いてもいいと思

っているわけではないし、酷いことを書いたとも思っていな

い。その逆に、今の時代、人は好き勝手が過ぎるということ

を書いているつもりです。思い通りにしたがり過ぎる。そし

てそれ故に苦しむと・・・。


 でも、誰かを悪者にして非難したい人や、人の揚げ足を取

って面白がりたい人は、進んで曲解・誤解してくれるでしょ

うがね。そういう輩には構ってられません。


 芸能人や、いろんな有名人にとどまらず、一般人までがネ

ット上に揚げたコメントの内容を非難され、毎日あちこちで

炎上する。


 「おまえは間違ってる!」

 「何考えてんだ? バカだろ?」

 「なんも知らねーんだな。黙ってろ!」


 しかし、官僚の答弁や、役所の説明や、仕事の内容の報告

でもないのに、なぜ正しくなければいけないのか? 個人が

自分の考えを述べているだけなのだ、「そう考える人間もい

るのだな」ということで片づけられることではないか。それ

をいちいちあげつらって攻撃しなければ気が済まないという

のは、自分の側に何か欠損しているものがあるのだと考える

べきだろう。他人の頭の中より、自分の頭の中のことを考え

た方がいいと思うが、自分の頭の中のことを考えたくないか

らこそ、他人の頭の中を問題にするのだろうな。パチンコし

てたら気がかりな事を考えずに済むのと同じようなものだろ

う。自分というものの妥当性は考えたくないのだ。



 自分は安全な場所にいて、誰からの非難も受けないであろ

う公式見解や常識を振り回して人を鞭打つのだが、その公式

見解や常識で動いている世の中は問題だらけ。そんな世の中

の公式見解や常識は、検証してみるべきじゃないのか?


 非常識な発言の中には、耳を傾けて、自身を問い直してみ

る手掛かりになるものも多いだろうと思うが。


 そもそも、事務的なことでもなければ、誰も「正しいこ

と」など言えはしない。そんなもの無いのだから。

 “そもそも無いもの” を提示することは誰にも出来ないの

だから、誰でもが、誰にでも「おまえは正しくない」と言う

ことは可能だ。その為のどんな理由でも付けられる。


 《理屈と膏薬は何処にでも付く》(好きな言葉です💛)


 〈「理屈」は、「正しさ」の為に有るのではなくて、“自

分” の為に有る〉ということは、気付いてはいけないことに

なっている。


 誰かが間違っているのでもなく、おかしいのでもなく、悪

いのでもなく、ただ「自分の気に入らない」だけでしょう。

 「気に入らない」では、ワガママのように聞こえそうなの

で、「正しさ」を持ち出して、自分を正当化する。自分が

しくありたい。


 誰も彼も、自分が正しいことを確認したくて必死です。そ

の為に人殺しや戦争までする。「正しい」なんて、無いのに

ね。


 「正しいこと」など存在しない。

 もし「正しいこと」が存在するとしたら・・、あえて「正

しいこと」設定するとしたら・・。

 《仲良くすること》でしかないんじゃないだろうか?

 人と、世界と、自分自身と・・・。


 仲良く出来ないのかなぁ。