2019年6月23日日曜日

ホント・・、大袈裟。



 18日に新潟で震度 6 強の地震があったわけだけれど、も

うこのごろは震度 6 程度では大したニュースにならない。

これが三十年前なら、一週間は報道が続いて、テレビが特番

を組んだだろう。しかし、阪神淡路大震災以後に大きな地震

が何度も起って、極めつけに東日本大震災まで起きたので、

日本人の地震に対する感覚は本当に変わってしまったね。

 “震度6” なら、どの程度の事が起るかという事をみんな

よく知っているから、「ああ、震度6か」なんて言って、3

0分もニュースを見てたらいい方だろう。もちろん当事者に

なれば話は別だけれど、それでも被災後の身の処し方も、以

前とは大きく違っているだろう。

 「社会がどう動くか」、「自分はどうしていたらいいか」

という事を、誰もが学習していて、かなり落ち着いていられ

るようになっているね。

 そうやって、日本人の地震に対する冷静さは格段に増して

いるのに、マスコミが大事(おおごと)にしよう大事にしよ

うとするのがホントに不快だ。


 昨日も、テレビを見ていると、瓦が落ちているのを見たリ

ポーターが、「瓦が地面に叩きつけられて割れています」と

言う・・。地面に「落ちている」んでしょ。

 道路が10㎝ほど陥没しているのを見て、「地面が大きく

陥没しています」と言う。

 住宅の室内の壁に2~3㎜のヒビが入っているのを見つけ

て、「こちらのお宅では、壁に大きなヒビが入ってしまって

います!」などと言う。

 だいたい、ああいう中継をする連中は、走って来たわけで

もないのに、何故 “荒い息” を吐きながらリポートをするの

か?

 何にせよ、「そういうもんだ」と思い込んでいるのだろう

なぁ。「マスコミはバカですよ」と自ら表現しているような

ものだと思うけどなぁ。もういい加減にしたら? いつまで

バカを続けるの?


 「大事(おおごと)にしよう」

 「大袈裟にしよう」

 「深刻にしよう」

 それが至上命題なんだろうけど、それは世の中にかなりの

害悪を流していると思うね。

 罪ですよ。


 「大事(おおごと)」とは何か?

 いったい “何” が「深刻」なのか?

 基本的には「人が死ぬ事」でしょうねぇ。でも、人はみん

な死ぬでしょ?


 「瓦が地面に叩きつけられています」という表現も、「地

面が大きく陥没しています」というのも、それが普段は起き

ない異常事態だから、その分「人は死に近づく」ということ

を表現しているのだろうと思うけれど、人はみんな死ぬでし

ょ? 災害に遭って死ぬ事や、病気になったり、事故に遭っ

て死ぬことは当たり前ですよね。

 それ以外には老衰しかないのだし、「災害」や「病気」や

「事故」で死ぬことは別に “異常” ではない(このごろは、

老衰で死ぬ事さえ “異常” のようですが・・)。


 そりゃぁね、身内が死ぬ事は大事(おおごと)ですよ。

「そんなことで騒ぐな」とは言えない。けれど「災害」も

「病気」も「事故」も起るんですよ。人はみんな死ぬんです

よ。その「災害」や「病気」や「事故」で、日本では毎日三

千人以上が死んでいるんですよ。その当たり前の事実は、謙

虚に厳粛に受け止めるべき事だと思うんですよね(「犯

罪」や「戦争」による “死“ の受け止め方は少し違うとは思

ますが・・・)。

 ところが、マスコミはそれを「大事(おおごと)にしよう

事にしよう」とする。それに乗せられて人も「大事」だ

い込む・・・。

 けれど、考えてみて下さい。誰も死ななかったらどうなる

んでしょう?

 生まれて来る人間が、みんな永遠に生き続けたらどうなる

のでしょう?

 それは想像を絶する・・・。


 人は生まれて来て、人は死ぬ。その事実を謙虚に受け止め

るべきですよ。

 百歳以上まで生きる人もあれば、生まれたその日に死んで

しまう人もいる。その人生に・・、いや、その命の価値に違

いは無いと私は思う。

 あさはかな価値観にもとづいて、「死」や「死をイメージ

させる」ことがらを、大袈裟に、深刻に演出することは下品

なことだと思うね。そこには「生きること」について深く考

えていない「怠慢さ」や「無責任さ」が感じられる。

 「人が死ぬ事はいけないこと」という、無責任でステレオ

タイプな判断放棄があって、「死」を本気で受け止めてはい

ないと思う。


 「災害」で「事故」で「病気」で、あるいは「犯罪」で

「戦争」で、さらには「老衰」で人が死ぬ。いづれにせよ人

が死ぬ。もちろん、それは軽いことではない。身近な人にと

っては、その人の世界が大きく変わってしまうことだ。けれ

ど、そのことをことさら大袈裟に、より深刻に演出すること

は決して良いことではないだろう。


 遅かれ早かれ、すべての人が受け入れるしかない「死」と

いうものを、たかがマスコミの “印象操作” にのせられて、

無自覚に「深刻」に受け止めるべきではないだろう。だっ

て人はみな死ぬのだから、「死」が深刻なだけならば、生き

ること自体が深刻になってしまう。「生きること」は、そん

なことでいいのか?


 わたしたちは「死」を “深刻” なことと決めつけているけ

れど、改めてそれを捉え直すべきなんだろう(犯罪や戦争に

よる「死」は、やはり意味合いが違うだろうけど)。


 以前にも書いたけれど、わたしたちは「死」から生まれて

来る。(『死から生まれて来た』2019/2)

 「死(の世界)」こそが、この世界の本質。

 「死(の世界)」は、わたしたちの「生の世界」よりワン

ステージ高く、遥かに広大な「〈命〉の世界」と捉えるべき

だろうと思う。「死」をむやみやたらに忌み嫌うのは、エゴ

がパニックを起こしているのでしかない。 


 自然の成り行きとして起こることを、「異常」と見做し、

「大事(おおごと)」にして、「大袈裟」に取り上げ、「深

刻」に扱うことは、さらなる「不安」や「問題」を生み出す

だけだ。それは、人の本性が求めることではないだろう。


 “人” は特別な存在なのかもしれない・・・、けれど、自

然の理(ことわり)の中では、他の存在となんら変わりはな

い。アリやゴキブリやネズミやクラゲと変わりなく、生まれ

ては死んで行く・・・。けれど、そのことを受け入れること

でこそ、わたしたち人が持つ〈意識〉の “価値” ・ “意味合

い” が輝くのではないだろうか? 

 そうしてこそ、“人として生れて来た値打ち” を知るこ

とができるんじゃないだろうか?


 「大袈裟さ」や「深刻さ」や「大切さ」はアタマがでっち

あげるものなので、訝(いぶか)しんで、真に受けないよう

にしないと、人は生き損ねるでしょうね。


 この世で起る事は、この世の事ですから、起きてしかるべ

き事なんですよ。

 だから、本当は「深刻」な事なんて一つも無い。

 アタマが「深刻」な事を生み出して、「深刻」な事を “世

の中” に定着させて行く。

 それを、ひとりひとりの人間が取り込んでしまって「深刻

さ」を増幅させてゆく・・。


 「戦争は “深刻” な事じゃないか!」


 確かに戦争は「深刻」な事ですよ。でも、戦争が起るの

は、ひとりひとりの「深刻さ」が集まって増幅されるせいで

す。

 エゴが「自分が、自分の望む様に生きたい!」と思う。で

もそれが叶わない。それを「深刻」に捉え、それが叶うよう

に世界を変えようとする・・・、その究極の結果が戦争で

す。戦争が「深刻」なのは、人が生み出す「深刻さ」が増幅

し切った結果であって、人が「深刻さ」を生み出さなけれ

ば、そもそも起きないことです。

 善きにつけ悪しきに付け(人間の価値感の上でですが)、

「大袈裟」に、「深刻」にするのは人間の病気です。人間の

悪業です。その悪業が、本当に「深刻」というしかない出来

事を実際に生み出してしまう・・・。

 人が、出来事を「深刻な事」と「何でもない事」のように

分けなければ、わたしちはかえって、穏やかにしあわせに生

きられるのではないでしょうか? 「深刻な事」ではなく、

「大切な事」に気付くのではないでしょうか?


 テレビやラジオが生まれてたかが数十年。インターネット

はもっと最近。新聞はもう少し古いけれど、それらメディア

は “エゴの増幅装置” ・ “エゴの濃縮装置” としての働きの

方が強い。

 物事を人に伝えるのなら、“ありのまま” 、“額面通り” に

伝えるのが人としての “たしなみ” でしょう。

 まぁ、マスコミにそんなことを期待しても無理なので、受

け手が気を付けるしかないでしょうね(受け手に “それ” を

期待するのも無理でしょうが・・)。


 本当に、マスコミの幼稚さ加減にはウンザリです。まぁ、

私も “しっかりとした受け手” だとは言えませんが

ね・・・。やだねぇ。








 

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