2019年6月9日日曜日

厳しい指導と体罰



 ちょっと前から、尼崎の高校で「体罰があった」とかどう

とかニュースが流れているけれど、ああいうのは体罰ではな

く単に暴力と言うべきでしょ。そもそも「体罰」という言葉

自体はもう無くすべきなんじゃないかと思う。別に罰として

手を出しているんじゃなくて、ただ気に入らないから手が出

てるだけだろうから。それに、言葉で追い詰めるのも十二分

に暴力として機能するのに、「体罰」というと身体的な面だ

けしか問題にされないので、心身両面に対する暴力を無くす

ためにも、「体罰」という言葉を使うのは辞めて、「暴力」

と言う方が良いでしょう。


 「体罰」というと真っ先に思い浮かぶのが、「バケツを持

って、廊下に立ってなさい!」というやつですね。授業中に

ふざけたりして、授業の進行を妨げた生徒に罰として課

したり・・・。

 今の学校では、もうそんなこと有り得ない。まさに「体

罰」なので、そんなことをしたらただでは済まないのでしょ

う。けれど、今回のニュースのような「指導」のつもりの

「暴力」(あるいは、「指導」の名を借りた「暴力」)とは

違って、「バケツを持って立ってなさい!」には、「ペナル

ティ」としての機能と正当性はあるのではないか?


 「バケツを持って・・」という部分は、アナクロニズム

で、もはややり過ぎだろうけど、授業を妨害した生徒に反省

を促す意味で、「15分間、後ろに立ってなさい」ぐらいは

アリだろうと思う。他者の権利や尊厳を損なう者にペナルテ

ィが与えられるのは、どこの社会でもごく普通の事ですから

ね。なぜなら、他者を軽んじて敬意を払わない人間というも

のは、当たり前に存在するし、子供の場合「敬意を払う」と

いう態度・考え自体を理解できていなくても普通なので、ペ

ナルティが無ければ、他者をなめたまま「それで問題無い」

という意識のまま成長しかねない。


 人というものは、特に子供というものは、自分が損しなけ

れば平気でわがままを通そうとするものです。そうでしょ?

「自分が損することはない」と思ったら、すぐに人をなめて

かかる。それがわたしたち人間ですから、ペナルティは有っ

ていいのだろうと思う。ただし、課す側と課される側がそれ

を「ペナルティ」として理解できていて、それが身体的にも

精神的にも「暴力」とならないようなデリケートさが必要で

しょうがね。



 とまぁ、そんなことはさておいて、私が気になるのは、世

間でよく使われる「厳しい指導」という言葉の方です。

 「体罰」という名の暴力も、「厳しい指導」というものの

中で「厳しい指導」の一環として振るわれるのが常です。

「優しい指導」の中で「体罰」というか暴力が振るわれると

いうのは・・・、ちょっと考えにくいでしょ?


 学校で、職場で、さまざまな組織・集団で、家庭で、「厳

しい指導」や「厳しい躾け」という名目で、指導する側が指

導される側に暴力を振るう・・・。

 何かと言えばすぐに「厳しい指導」と言って、指導する側

の真剣さの現れのように言うけれど、それは簡単に、身体

で、態度で、言葉で振るう「暴力」になりかねない。だいた

い「厳しい指導」というものが必要か?


 「厳しい訓練」というのなら分かる。

 例えば、消防や海上保安庁のレスキューは、「厳しい訓

練」をこなさなければ、自身と仲間と要救助者の命を危険に

晒す。それは、必ず必要だろう。けれど、そこに「厳しい指

導」は必要だろうか?


 「厳しい訓練」をこなさなければ仕事に従事できないとい

う「厳しい現実」が有れば、それで事足りるだろう。何も上

司・上官がことさら「厳しい指導」をしなくても、「これが

出来なきゃ、死んじゃうよ。君か要救助者が」と言い、「こ

の訓練をクリア出来なければ、仕事に就かすわけにはいかな

いんだ」という現実があれば、指導される側は自らを奮い立

たせるだろう。そうは思いませんか?


 厳しくされなければモチベーションが上がらない人間なん

て、そもそも「甘い」のであって、「厳しい現実」が目の前

に立ちはだかったら、そこで自分の「甘さ」に気付くもので

すよ。もしそこでも気付けないようなら、その人間はそもそ

も本気じゃなかったか、それに合っていないのですよ。違う

道へ進むべきでしょう。


 そういった過酷な職業の過酷な訓練にあっても、「厳しい

指導」の存在意義はないと思いますから、学校の部活や企業

の現場や家庭での「厳しい指導」や「厳しい躾け」というも

のは、単なる「暴力」の温床になるだけですね。

 “相手の為になる殴り方” ができる人なんて滅多にいない

し、今の世の中ではなおさら少ないことでしょう。みんな昔

以上にアタマ優先で生きていて、アタマ優先だからこそ「手

が出る」、「口(暴言)が出る」。


 「厳しい指導」なんて辞めればいい。無くせばいい。

 何の為の「厳しい指導」?

 「厳しく」して、それで何をさせたいの?

 勉強?

 スポーツ?

 仕事?

 そんな程度のことでしょ?

 どれも、「厳しい指導」をしてまで、「厳しい指導」を受

けてまで得られるのは、「他者より上に行く」「他者に勝

つ」ということでしょ? 

 ただのエゴの満足じゃない。


 「そんなことはない!“厳しい指導” の中で、人間的に成

長するのだ」


 そんなことを言いだす人がいっぱいいるのでしょうが、

「厳しい指導」を受けた人はそれが “単なる苦痛” でしかな

かったことを認めると、自分の人生のかなりの部分がムダに

なるように思えるので、そんなこと認めたくない。そして、

それゆえに自身も人に「厳しく」しがちになる。それが「人

間的成長」ですか?

 「厳しい指導」は “苦痛の再生産” を続けてゆくので

す・・・。


 勉強。スポーツ。仕事。

 どれも、仲良く、機嫌良く、気楽にやればいいんです。た

かが、勉強。スポーツ。仕事じゃないですか。大事なのはわ

たしたちが仲良く、機嫌良く生きられることの方でしょ?

 「厳しい指導」なんて、サディスティックでマゾヒスティ

ックな事が好きな人は勝手にやったらいいけれど  人が好

きな事を邪魔してはいけない  、それが何か良いことのよ

うに言ったり思い込んだりするのは、もう辞めにしましょ

う。「厳しい指導」なんて、わたしたちの世界には必要あり

ません。

 そんなものを「良いこと」のように思い込むから、かえっ

て世の中が悪くなるんですよ。


 「“厳しい過程” をクリアしなければ、君の目的は達せら

れないよ」と、「厳しい現実」がある時に、「優しい指導」

をしてあげられればそれで十分でしょう。後は、本人の問題

なんだから。


 「厳しい指導」というようなものが必要なことがあるとす

れば、それは自分自身を損なったり、他者を損なったりしよ

うとしている人間に対してだけでしょうね(生徒を殴る指導

者のような・・)。

 人が幸福への道を見失って、それを正す為に「厳しさ」が

有効なことはあるでしょう。

 ただ「野球やサッカーが上手になって、他の者に勝てるよ

うに “厳しい指導” を・・・」なんて・・・、私はバカだと

しか思わない。

「お客様に迷惑を掛けない為に、厳しく指導する!」なんて

のもあるだろうけど、「厳しい仕事」を出来るようにする為

に 「優しい指導」をすればいいだけで、それが出来ないの

は人を指導する能力が欠けているんだよ。


 核心を突いちゃいましょうか?
 

 「厳しい」と、自分のしている事の価値が高まるような気

がするだけなんですよ。何か「大したこと」をしているよう

な気分になれる。

 ただの思い込みですけどね。

 ただの思い込みも、みんなの共通了解が得られると、価値

が有ることになりますしね。(というか、「価値」というも

のは、すべてそういうものだ)


 「厳しさ」なんて言葉、強欲でサディスティックなアタマ

を持つ人間が作り出した、“ゴミ概念” だと思うな。


 楽しくやれよ。

 人に敬意を払えよ。

 仲良くしろよ。

 それ以外の価値なんて、すべて思い込みと約束事でしかな

いんだから。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿