2023年9月28日木曜日

あとでもいいか・・・



 一週間ほど前から、「やらなくちゃいけないなぁ」と思っ

ていることがあるんだけど、なかなかやる気になれず、ずる

ずるとそのままになっている。まぁやらなきゃしようがなく

なって、その内やるんだろうけど・・・。


 小学生の頃、夏休みの宿題をせずに先延ばしにして、いよ

いよ切羽詰まっても結局半分ぐらいしかやらないまま二学期

に入り、先生に「提出しろ」と言われても、「はい・・」と

か言いながらそのままうやむやにするというのが毎年恒例だ

った。先生も忙しいので、3週間もしたらもう何も言わなく

なる。


 こういうことは誰でも身に覚えがあるはず。「そんなこと

身に覚えがない」という模範的な人間もいるのかもしれない

けど、それはそれで何か気持ち悪い気がする・・・。面倒な

ことは先延ばしするのが普通じゃないかな。そして、たぶん

それは人にとって良いことだろうと思う。


 先延ばししてしまうのは、そのことが本質的に自分にとっ

て重要じゃないから。

 先延ばししてしまうのは、そうすることがいまの自分にと

って望ましいから。

 先延ばしできてしまうということは、そのことがさしあた

り自分にとって必要ではないから・・・。
 

 わたしたちが先延ばしにするようなことは、社会的な評価

や、将来的な安定につながることですが、個人としての本

的なしあわせには関係ないことです。本当はどうでもいいこ

とだから、先延ばししたくなるし、先延ばしできてしまうの

です。

 自分の「生きること」に直接関係していることなら、人は

すぐにでも行動するものです。トラがこっちに向かって来て

るのに、「(逃げるのは)あとでもいいか・・・」なんて言

てスマホをいじっていられたりする人はいないでしょう。

たぶん・・・。(いたら弟子入りしたいところですが・・)


 人は社会的な評価基準でもって他人や自分自身の価値を考

えるように徹底的に刷り込みをされて育ちます。そのせいで

先送りしてしまう自分をネガティブに考えてしまうけれど、

自分を卑下する必要はない。先送りしてしまうことが多くっ

たって、それで当然なんです。その事はいま必要じゃないん

だから。

 先送りしてしまう時は、自分が何を大事だと感じているか

が表に出てきている時。自分を振り返るひとつのチャンスで

す。面白がってみる方が気が利いてる。


 そういえば、ひろさちやさんが自著に書いてたね。「明日

できることを今日するな」って。

 「明日できるんだから今日しなくていい」というのは、す

ごく当然のことで、なにも問題はないはずなのに、こういう

ことを言うと「なまけ者」みたいに言われてしまうことが結

構あるというのが、いまの日本です。アタマのおかしい人が

沢山いますね。(まぁ、アタマは「おかしい」のが標準です

が・・・)

 「明日できるから今日はしなくていい」という判断は合理

的で真っ当です。だけど、それが気に入らなくて否定する人

がいる。いったい何の為に否定するのでしょう?

 合理的で真っ当なことを否定するのですから、その人は不

合理で不当なことがお好きなのでしょう。不合理で不当なこ

とが好きだなんて、狂ってますよね。


 そのような狂人は、その「事」を片付けることよりも、そ

れを早くやってしまうことが目的になっています。だって、

その「事」は明日でも片付けられるんですから、今日やって

しまう必然性はありません。目的がすり替わってしまってい

ます。

 そのような狂人がやりたいことは、明日をこちらに引っ張

って来ることです。


 明日を今日に取り込んで、明後日もできるだけ取り込ん

で、一週間後も、一か月後も、一年後も、できることなら自

分の未来すべてを今日に取り込んでしまいたいのでしょう。

それはどういうことか? なぜか?


 未来が怖いのです。

 だから、未来を「予定」というカゴに入れて、「今日」と

いう自分のコントロール範囲に持ってきて、「未来をコント

ロール出来てる!」という安心感を得ようとするのでしょ

う。

 でも、明日を今日に取り込んだら、目の前には「明後日」

が立ち現れてきますから、それにも立ち向かわねばならなく

なります。首尾よく「明後日」をものにできても、すぐに

「明々後日」が・・・。いつまでやるのでしょう? 果てしな

いですね。


 未来が怖い。

 たぶん、ほとんどすべての人は未来を怖れています。「そ

んなことない」と思うかもしれませんが、人は未来を怖れて

います。というより、怖ろしいものは「未来」にしかないで

しょう? もう起きてしまったことを誰が恐れるでしょうか? 

人が「怖れ」を投影できるのは「未来」にだけです。

 “過去の怖ろしい出来事に今も苦しめられる” ということは

ありますが、それは心理的なタイムマシーンで、過去の「怖

ろしいことを体験する時点」に戻って、疑似的に「(済んで

しまっている)未来」を受け取るようなことであって、本当

は「過去」の怖れはもう消えているというのが事実です。

 そして、怖れは「今」に存在できません。「今」は一瞬な

ので、ただ体験することができるだけで、「怖れ」を投影す

る時間もスペースもありませんから。


 ・・・話は戻って、「しなければならないこと」を「しな

ければならないのに・・・」と重荷に感じたりする理由を考

えてみると、「しなければならない」のは、それをしなかっ

たときになんらかのデメリットや問題が生じると思うからで

はないでしょうか?

 それをしなくても特に問題が起きないようなことを、「し

なければならない」なんて思うはずがないですよね。「しな

ければならないこと」の背後からは、無表情な目で「怖れ」

がこちらを見ているのです(それは大抵 “誰かからの非難” で

すが)。けれど、それはアタマの妄想です。悪癖です。ほん

とうは「怖れ」なんてないのです。「未来」に・・・。


 とはいえ、「しなければならないこと」をしなかったら実

際に困ることになるのも事実です。けれど、困るのは、実際

に困ることになるようなストーリーに、自分が入り込んでい

るからです。

 しなければならない仕事をしなかった為に上司が怒り狂っ

ても、意に介さず笑っていることは可能です。それは「お話

し」だからです。

 もちろん、上司はさらに怒るでしょうし、仕事を辞めなけ

ればならなくなったりすることでしょう。困難が待ち構えて

いるかもしれません。社会は、社会の「お話し」に従うよう

に個人に要請しますから、従わない者はご褒美にありつけま

せん  「ご褒美」といっても、金かお褒めの言葉のどちら

かですが。


 ・・・・・思ったよりも話が広がり過ぎて収拾がつかなく

なってきました・・・。長くなってしまうし・・・。

 続きはこの次でいいか・・・。



 

2023年9月23日土曜日

生きてるんだから



 前回の話は、あとで少し言葉足らずだったように感じたの

で、しっくりするように話を足したいと思う。


 書いたことは「あなたは生きなくていいのです、なぜなら

いま生きているのだから」ということだったんですが、これ

は随分前に書いた『浮いて 待て』(2017/2)と同じ主題だ

なと気がついた。


 人のからだは水より比重が軽いから、仰向けで力を抜いて

じっとしてれば浮いていられるので「浮いて待て」と、小学

校などで教えている。要するに「浮くんだから、浮こうとし

ない方が良い。浮こうとしてジタバタすると、かえって溺れ

てしまう」ということ。

 それと同じように「生きているんだから、生きようとしな

い方が良い。生きようとジタバタすると、かえって生きられ

なくなる」と、前回の私は言いたかったらしい。


 わたしたちは世の中で生きている。世の中との関わり方は

人それぞれで、ど真ん中で生きていたり端っこでちまちま過

ごしていたりする。

 世の中を海に例えると、腰ぐらいの浅瀬に立っていたり、

ようやく顔が出るぐらいの深さだったり、中には立ち泳ぎを

し続けている者もいたりするのだろうけど、そこには流れが

あり、波もあるので、いままで足が届いていたのに届かなく

なったり、「立ち泳ぎも、もう限界だ・・」と思っていた

ら、浅瀬にたどり着いていたということもある。強い流れや

ひどい波に翻弄されることもあるだろう。

 世の中という海が凪ぐことはなさそうだし、深さが一律に

なることもないだろう。いつ自分が溺れそうになるかわから

ない。いま溺れそうな者も沢山いる。

 溺れそうでも、そうでなくても、力を抜けば浮いていられ

るのだから、ジタバタと動くのは疲れるだけだろう。


 とりあえず、いま生きている。

 明日も生きている保証はないけれど、いまは生きている。

 「生きている」ことに目的があるとすれば、それは「生き

ていること」だろう。生きようとすることは、かえって「生

きていること」を損ねてしまう。


 世の中の流れや波の中にいると、「このままだと死んでし

まうんじゃないか・・・」と怖くなる。意識が世の中と未来

に捕らわれて、いま生きていることを忘れてしまう。そして

「生きよう」とあがき、往々にしてそれは悪あがきになっ

て、本当に溺れ始める・・・。


 生きようとしなくていい。生きているのだから。

 わたしたちは自分の意志と力で生きているのではないのだ

から(自分の力で生きられるのなら、「人は必ず死ぬ」とい

うことはおかしいことになる)。

 わたしたちは生きさせられている。生きている。

 ただただ「生きている」を受け取ってゆけばいい。


 わたしたちが「生きよう」とするのは、「自分で生きてい

る」と思いたいから。「自分で生きている」つもりになりた

いから。エゴが「自分が人生の支配者で、自分が人生をコン

トロールするのだ」と思っているから。けれど、それは現実

に即してはいない。

 生命はエゴがコントロールするには複雑すぎるし、「生き

ていること」はエゴにとってシンプル過ぎる。エゴは「特

別」でありたがるから。


 いまエゴが活動できるということは、いま生きているから

こそで、それはエゴが「生きていること」そのものには関与

してないということを表しているし、エゴが生命にとって不

可欠のものではないということでもある。なので、エゴはシ

ンプルに「生きている」という事実が嫌いだ。それではエゴ

の出番が無い。

 それ故、エゴは「自分の力で生きている」と思いたいが為

に、不要なことを重要なことであるかのように振舞って余計

なことをする。そして自ら問題を抱え込む。それだけではな

く他人まで巻き込んで、世の中にメンドウを増やす。


 エゴは生きようとしてくれなくていい。

 存在しているのだから生きてもいいけど、身の程をわきま

えておとなしくして欲しい。

 わたしたちが「生きている」を味わうために。



 

2023年9月20日水曜日

あなたは生きなくていいのです



 「あなたは生きなくていい」

 そう言われたらどのように受け取るかは、さまざまだろう

けど、自分を完全否定されて「死ね」と言われているように

受け取る人もいるだろう。そして怒ったり、酷く気分が暗く

なったり。

 ちょうど「苦しい・・・、死んでしまいたい・・・」と思

っている人なら、本当に死のうとするかもしれない。なんに

しろ、言われた人がネガティブになる可能性の強い言葉だろ

うから、むやみに口にすべき言葉ではない。もっとも、こん

な言葉を一生に一度でも口にする人はまずいないだろうね。

直接的に、誰かに「死ね」と言う人間は結構普通にいるけ

ど。


 そんな需要の少ない言葉をなぜタイトルにしたかという

と、第一に、インパクトが強いから。第二に、これを読む人

に「自分は生きなくていいんだ」と思ってもらいたいから。


 タイトルでは「あなたは生きなくていいのです」と書い

て、書き出しでは「あなたは生きなくていい」と書いた。少

しニュアンスが違うはずです。

 「生きなくていい」だと裁定されているような感じがする

けど、「生きなくていいのです」と言われると、なんだか許

される感じで、気分的に少し楽な感じがしませんか? 

 その “楽な感じ” を自分の中に広げてもらいたいなぁ、と思

っているわけです。


 あなたは生きなくていいのです。


 生きることは義務ではありません。

 誰も生き続ける責任が有るわけでもありません。

 そういうことを言う人間はいるでしょうが、神や仏からそ

う言われた経験は私にはありません。たぶん誰も経験がない

でしょう。ですから、神や仏は、誰にも生きる義務を課して

はいないでしょう。まぁ、神や仏から「生きる義務はない

よ」と言われた経験もありませんけど、さしあたり「生きな

くていいのです」と言ってはいけない理由は無い。


 生きなければ・・・。 なぜ?


 生きろ!・・・。 どうして?


 こういうことを言うと、真面目な人は怒り出したりするん

でしょうけど、こういう生きることの根本命題みたいなこと

を不問にしたまま、「決まってること」みたいにしているの

は良いことではない。


 昨日、芦屋市で二人の女子高生が飛び降り自殺を図ったと

いうニュースがあったけれど、「死にたい・・」と言ってい

る高校生に、誰かが「生きろ!」と言って、「なぜ?」と問

い返されたら、その子が納得するような返答はまずできない

でしょう。それは、「なぜ生きなければならないか?」とい

う根本命題を不問にして生きているからですよ。

 そんなこと考えるのは面倒だし、考えてると怖くなったり

虚しくなったりするから、大抵の人は避けて生きて来てるん

ですよ。そういう人に「生きろ!」と言われても、説得力は

無いでしょう。


 「なんで生きなければならないの?」

 推測でしかないけれど、昨日、自殺を図った女の子たち

は、これまでに何度も、そう自問自答したことだろう。ふた

りでそのことを話しもしただろう。

 「なんで生きなければならないの?」と考えなければなら

ないのは、「生きなければならない」という圧力を感じてい

るからに他ならない。その圧力はどこからくるのか?

 神や仏はそんな圧力をかけはしない。その圧力は人間から

来る。そしてその圧力は、無神経に「生きろ!」などと言う

ような人間たちこそが、社会の中で増幅させている。


 「生きろ!」「生きなければならない」という圧力は、誰

でも感じているだろう。

 人生がそこそこ順調な時は気にならないけれど、上手く行

かなくなると途端に重荷になる。


 無神経な人間はその圧力を逃そうとして、誰かを攻撃した

りする。

 気の弱い人は世の中のチープな既製のストーリーに閉じこ

もったりする。

 感受性の強い人や、弱い立場にある人は圧力をまともに受

けてしまう。時には生きられなくなるほどに。

 その圧力を弱めるために、「生きなくてもいいですよ」と

いう一言は効果がある。


 「生きる」という言葉には意志が感じられるし、「自分の

力で生きる」という主体性もうかがえる。けれど、わたした

ちは自分の意志で生きているのでもないし、自分の力で生き

ているのでもない。この世界の働きによって、理由も知らさ

れず、生きさせられている。

 自分の意志でも自分の力でもないのだから、「別に責任を

持って生きなければならないことはない」と考えてもごく自

然です。だから「生きなくてもいいのです」。


 「自分の責任」「自分の力」で生きていると思うから、上

手くいかないと、それが自分のせいだと感じてしまう。ちが

う。自分のせいじゃない。

 生まれて来たのも、死んで行くのも自分のせいじゃない。

その間の人生がどう展開しようと、それも自分のせいじゃな

い。自分が生きなくていい。そもそも自分で生きるなんてこ

と誰もできていない。

 自分が生きていることは世界の働きによるのだから、

「(自分で)生きよう」なんて考えるのはムダだし、お門違

いだ。


 わたしたちは生きなくていいのです。「生きる」なんて妄

想なのです。たんに「生きている」のです。
 

 どんなに「生きよう」と頑張っても、生きられないさだめ

なら死んでしまいます。

 「自分なんか死んだらいいのに・・」と苦悩していても、

死ぬさだめが来なければ死にません。自分で生きているわけ

じゃないからです。そもそも生きているのはあなたじゃな

い。


 あなたの心臓も肺も手や足や爪や髪の毛も、あなたがどの

ように生きて来たかや、いまどのように生きているかを知り

ません。あなたの名前すら知りません。知ろうともしていな

いでしょう。そして、身体が無ければ “あなた(自我)” は存

在できない。

 生きているのは身体で、“あなた” や “わたし” は身体に間

借りしている居候です。ところが、誰もが「自分が生きてい

る」と思ってしまうので、身体が「生きている」のを邪魔し

てしまう。自分が「生きよう」とすればするほど、生きるこ

とはスムーズに行かなくなる。


 「生きよう」と頑張らなくていいのです。

 ことさらあなたが生きなくていいのです。

 生きることは、「生きている」を感じて、受け取ってゆく

こと。

 生きることは、世界の「生かす」働きに身をゆだねるこ

と。


 「生きている」ことの不可思議の前には、世の中やあなた

や私のお話しなんか、なにほどのものでもありません。


 《 自殺する人は、自殺するしか生きる道がない人です 》

と、何度か書きました。

 人は「生きたい」から自殺するのです  生きたがるのは

我(エゴ)ですけどね・・・。

 だから、「生きなくてもいいですよ」という言葉は、生き

たいから「生きていたくない」という人に違う道を提示する

ことができるはずなんです。


 「昨日、自ら命を絶った女子高生に、こんな話をしてあげ

ることができていたなら」などと思うのは、私のエゴの自惚

れなのかもしれない。

 けれど、苦悩の底であえいでいる人が、やさしく、「生き

なくてもいいんですよ」と言ってもらえたら・・。わずかば

かりの救いへの道が見えると思う。


 なにも苦悩の底であえいでいる人ばかりじゃなくて、日々

のちょっとしたつらさや悲しさに、ため息をついたり、イラ

ついてしまう時、「ことさら、生きなくていい」と思えるの

なら、局面はかなり変わるはず。


 「生きなくていいですよ」、生きてもらいたいから・・。




 

2023年9月18日月曜日

ステキなタイミング!



 いつも口から出まかせを書いてはいるけど、このブログは

不特定多数の目に触れる前提のものだし(現実として、不特

定少数だけど😅)、書かれている内容は、たまたま読んだ人

の人生を大きく変える可能性の高いものだと意識しながら書

いている。

 どう変えるかは私には分からない。安らぎへか、混乱へ

か・・・、いずれにしてもタイミング次第だろう。別の言い

方をするなら、縁次第だろう。私なりに気遣いはしているけ

ど、結果に責任は持てない。


 昔、坂本九さんの歌で『ステキなタイミング』というもの

が有って、サビの部分で〈 この世で一番肝心なのは ステキな

タイミング 〉と歌われる。

 アメリカの曲のカバーで 漣 健児 という方が訳詞されてい

て、どのような想いで詞を書かれたのかは分からないけど、

間違いなく〈この世で一番肝心なのは ステキなタイミング〉

だ。

 ただし、同様に〈この世で一番逃げ出したいのは 最悪なタ

イミング〉ということもある。良いと思えることも、悪いと

思うことも、タイミング次第で決まってしまう。

 多くの人がその事を理解しているので、何かをする時に、

誰もがタイミングを計る。それが出来ない者は「空気が読め

ない」などと言われたりもする。タイミングはとても大事

だ。

 けれども、それは人の都合に合うかどうかのタイミングで

あって、そのタイミングさえ支配している、宇宙のタイミン

グともいえるものがある。
 

 例えば、ふとしたきっかけで仲良くなったカップルが、そ

のまま二人でしあわせな人生を過ごしたとする。それは「ふ

とした」タイミングが有ればこそだけど、その「ふとした」

はそれぞれの人生の、無数の「ふとした」ことの連なりの末

のものなので、無数のタイミングの中の一つでしかない。二

人にとって、特別な出来事に思えても、それは人生の始まり

から終わりまでのあらゆることとの無数の出会いの一つでし

かない。それ以外の無数の「ふとした」の一つでも欠けてい

れば、二人の人生はまったく違ったものになる。

 そのすべてが欠けるか、欠けないかも、やはりタイミング

の問題だ。


 しかし、私は必然論者で、この宇宙のどのようなタイミン

グも、そうなるべくしてなっていると思っているので、極論

を言えばタイミングなんて無い。

 〈ステキなタイミング〉は確かに「ステキ」で、私もそん

なタイミングを望むけれど、「なるようにしかならないし、

なるべくしてなる」と思っている。

 〈ステキなタイミング〉が訪れても、〈ヒドいタイミン

グ〉で何かが起こっても、「さて、これはどう展開して行く

のだろう?」なんて思っている。


 「面倒くさい、つまんねえ人間だなぁ・・」と思われるか

もしれないけど、いま起きていることは「結果」ではなく

て、すべては「経過」でしかない、と思ってしまう。

 けれど、同時に、瞬間々々起きていることは、瞬間々々で

完結しているとも思う。矛盾して見えるけれど、要するに出

来事を小さなストーリーに納めないようにしているというこ

とらしい。

 実際には、出来事はわたしたちの考える物語に納まらず、

時間的にも空間的にも無限に続く。それと同時に、わたした

ちが出来事に物語を投影しなければ、出来事は瞬間ごとに消

えて行く。

 物語を設定しなければ、物語の流れというものもない。

 流れがなければ、タイミングも何もあったものではない。

 わたしたちの描く物語もろともに、世界はそうなるべくし

て、そうなる。


 私の世界観からすれば、タイミングというものは必然によ

るものだけど、世間の常識からすれば偶然だろうし、自分で

計れるものでもあるだろう。けど、それはエゴの願望に過ぎ

ない。わたしたちも世界を支配するタイミングによって動か

されて行くだけなのだ。


 ひとりひとりが生きるも死ぬも、笑うも泣くも、世界の動

きのタイミング次第。

 「なにがどうなろうが知ったこっちゃないなぁ」

 そう受け取れば気楽なものだ。


 と、こんなブログを読んでしまう今のあなたのタイミング

は、あなたに歓迎されるものなのだろうか

 「ちっ!」と舌打ちされているのかもしれない。けれど、

深掘りすれば、きっとステキなタイミングだろうと思います

よ。





2023年9月17日日曜日

1+1=1



 ロウでできたキューブを100個用意する。それを縦横

10個ずつ並べてまとめると、そこにまとまった100個の

キューブがある。

 この100個を火であぶるなどして表面を溶かして繋がっ

た状態にすると、実質的には変わっていないが、大きな一つ

の物に見える。

 状態は少し違うけれど実質的には同じ物がそこにはある。

けれど「分かれている」と意識すれば100個だが、「分か

れていない」と意識すれば1個だと思う。

 なんの話かと言えば、「“1” とは何か?」ということ。


 何度か書いて来たことだけど、わたしたちは物事をいった

ん分けなければ考えることができない。

 考えるという行為は、ある物事とある物事の関係を理解し

ようとする行為なので、分かれていない物事については考え

られない。なので、人間がものを考えるのは、分かれている

物事の関係(結びつき方)を知って、世界をちゃんと認識し

ようという営みだといえる。

 と、考えるのが常識的なアプローチだろうけれど、「い

や、ちょっと待て」と私は思う。


 先に「わたしたちは物事をいったん分けなければ考えるこ

とができない」と書いたけれど、どうやらわたしたちは、自

分で物事を分けておいて、それからその物事の結びつき方を

考えるという、ムダかもしれないことをしているように思え

る。

 「世界の物事が分かれているから考える」のではなくて、

「考えるという行為をしたいために、世界の物事を分ける」

というのが実情ではないのか? わたしたちが「考える」の

は、考えることでより良く生きる為というような事ではなく

て、「考える」という行為が、人類共通の先天的な病だから

だろう。

 わたしたちは、なんでもいいからとにかく考えたいのだ。


 「考えることで、理解とか幸福とか生存とかが達成できる

から」というようなことではなくて、考えることが目的なの

だ。「考える」という病気なのだ。

 なぜそれが病気だといえるかというと、世界で起きている

ことを見れば一目瞭然だ。

 犯罪・戦争・差別・搾取・環境破壊・・・。

 身近なものなら、ケンカ・裏切り・嘘・勘ぐり・

妬み・・・。

 人間の問題のすべては考えることから具体化する。


 考えようとすることで物事を分けてしまうし、物事を分け

てしまうことでさらに考えの泥沼にはまる。ならば、考えな

ければいいかといえば、人間の本能には欠陥があるので、他

の生き物のように本能に従っていればそれなりに生きていら

れるというわけにいかない。本能の欠陥を補うために考えな

ければしようがない。人は考えることから逃れられないけれ

ど、その代償はとても大きい。考えることで自分を滅ぼして

しまったり、いずれ人類そのものを自ら滅ぼしてしまう可能

性もある。そんなこと考えれば分かるけれど、考えに考えた

末に成り立ってる現代で、「考えること」をハッキリと問題

視する人はいない。いても、表舞台には出て来られない。

「そんなこと言う奴は邪魔だ!」と世の中は考えるから


 わたしたちが何も考えなくても、心臓は動くし呼吸もして

いる。ちょっとした病気になっても放っておけば大概治る。

太陽は毎日昇るし、風は流れる。

 世界のほとんどは考えなくても調っているというのが真実

なのに、わたしたちは考えて、自分が気に入ることを正しい

と思い、それに固執する。そして大抵世界からはぐれる。問

題を生む。それは人類の歴史を振り返って考えれば分かる

れど、そこは考えて分かろうとはしない。考えることの害を

どこかで気付いているから、考えて分かりたくないのだろ

う。「当事者は嘘をつく」(by 小松原織香)。


 考えることは基本的に害である。けれど考えざるを得な

い。この上は、考えることで、考えることがもたらす害を減

らすしかない。できる限り考えない生き方を探るしかない。


 ロウのキューブを溶かすように、意識上で分けてしまっ

ものをもう一度繋げてみる。

 分けた理由を取り下げてみる。

 そうして、あらためて「世界」を見てみる。

 「世界」は考えることの外に在って、わたしたちの考えと

は関わりのない調い方をしている。


 考えない生き方。 

 分けない生き方。

 考えることと分けることがもたらす害を、できる限り減ら

す生き方。


 それは「世界」に目を向けることで気付けるのではないだ

ろうか?

 「世界」は(わたしたちのようには)考えていないのだか

ら。

 それでも「世界」は調っているのだから。


 1+1=1


 そういう意識ですべてを見てみる。

 それは、あながち間違ってはいないと気付けるはずだか

ら。



2023年9月16日土曜日

極悪人という仏



 京アニの放火事件の裁判が始まって、あれこれとニュース

が流れる。

 「被告は虐待されて育った」というような内容が報道され

ると、すぐさま「そんなこと関係ない!」と、SNS に怒りの

コメントが書き込まれて、それがまたニュースになる。そう

いうことにしておけば気が済むのだろうが、あいも変わらず

「浅いなぁ」などと思わされる。

 虐待されて育てばその人間の人格形成に大きな影響を与え

ないわけがない。「○○ちゃん」と呼ばれるか「○○くん」

と呼ばれるかの違いだけでも、その人に結構影響を与えるだ

う。もちろん〈虐待される=悪人化〉という意味ではな

い。


 犯した罪の重さとはまた別の話として、そういうことを認

めた上で人というものの在り方を理解しなければ、上っ面の

つじつま合わせと、自分の都合のいいように他人を枠にはめ

る独善がまかり通ることになる。それは世の中を良くはしな

い。


 この世には極悪人がいる。時代や国を越えてまで忌み嫌わ

れ、断罪され続ける人間もいる。これまでの歴史を見るかぎ

り、そういう人間はいなくならない。小悪人などは、あらゆ

るところにいる。それが全体としての人間というものらし

い。


 そういう人間はいない方がいいに決まっているけど、いな

くならない。当然、なんの因果かそういう役回りになる人間

は後を絶たない。そんな役回りはイヤだと思っていても、な

るときにはなる。一年後、私が人殺しになっているかもしれ

ない。さだめなら、誰もそれを逃れられない。天命と言って

もいいのだろう。


 世のため人のために人生を捧げる人間がいるのも、天命。

 私利私欲のために人生を費やす人間がいるのも、天命。

 悪魔のように冷酷な行いをする人間がいるのも、天命。

 すべては、天のさだめ。個々の人間は、そのさだめを生き

るほかない。

 そこに個人の意思や力が関与できる余地はない。どのよう

な意思や力を持つかもさだめなのだから。


 「山川草木悉皆成仏」という仏教の言葉がある。

 これは仏教の大前提であり、結論ともいえる言葉。

 「すべての物、すべての生きている物は仏である」という

ことで、ならば極悪人も仏だということになる。


 この世界は人の考える「善悪」を越えたものとして在る。

 人の思惑よりも先に、人の思惑で捉えきれないものとし

て、この世界は在る(当然のことなんだけど・・・)。

 そういうものとしての、この世界とこの世界のあらゆるも

のを「仏」と言う。


 悪人はイヤだ。極悪人はもっとイヤだ。消えて無くなれば

いい。私もそう思う。けれども、悪人はいなくならない。そ

して、もし自分が極悪人になるさだめだったとしたら・・。

 血も涙もなく、人がむごい死に方をしても笑っているよう

な人間になったとしたら・・・。

 そんな人間になることは、人として生まれてきた上で最も

悲惨で悲しいことだと私は思う。それ故、そのような人間の

魂こそ救済されるべきだ。だから親鸞は言う。「善人なおも

って往生す。いわんや悪人おや」。

 善人も悪人も救われる。仏に受け入れられていることで、

すでにそのままで仏になっている。救われている。


 「もしかしたら、自分があの極悪人になっていたのかもし

れない」

 「あの極悪人は、自分の代わりにあのようなさだめを生

てくれているのかもしれない」

 「自分の身替わりなのかもしれない」

 そう考えたとき、その劣悪なさだめを生きているその人

が、そのような役回りを、自分や他の人の代わりに生きてく

れている有難いものに見えて来はしないだろうか? 極悪人も

仏なのだ。


 もちろん、そういう想いと、現世の社会の「善悪」とは別

だ。この世では「悪人」は「悪人」だ。断罪されて当然だ。

それはそれでいい。

 けれど「極悪人も仏だ」と見なす意識は持っておく方がい

い。その意識は自分も救う。「極悪人」が許されるのなら、

すべてのものは許されるのだから、当然、その中には自分も

いる。


 「山川草木悉皆成仏」という意識は、そのように自分の救

いになる。

 同時に、自分がそう思うだけで、すべての人をも救う。

 それは、ほんの一瞬、ほんの 0.00000000001% のこと

かもしれないけれど、間違いなく、すべてのものを救う。