2023年9月20日水曜日

あなたは生きなくていいのです



 「あなたは生きなくていい」

 そう言われたらどのように受け取るかは、さまざまだろう

けど、自分を完全否定されて「死ね」と言われているように

受け取る人もいるだろう。そして怒ったり、酷く気分が暗く

なったり。

 ちょうど「苦しい・・・、死んでしまいたい・・・」と思

っている人なら、本当に死のうとするかもしれない。なんに

しろ、言われた人がネガティブになる可能性の強い言葉だろ

うから、むやみに口にすべき言葉ではない。もっとも、こん

な言葉を一生に一度でも口にする人はまずいないだろうね。

直接的に、誰かに「死ね」と言う人間は結構普通にいるけ

ど。


 そんな需要の少ない言葉をなぜタイトルにしたかという

と、第一に、インパクトが強いから。第二に、これを読む人

に「自分は生きなくていいんだ」と思ってもらいたいから。


 タイトルでは「あなたは生きなくていいのです」と書い

て、書き出しでは「あなたは生きなくていい」と書いた。少

しニュアンスが違うはずです。

 「生きなくていい」だと裁定されているような感じがする

けど、「生きなくていいのです」と言われると、なんだか許

される感じで、気分的に少し楽な感じがしませんか? 

 その “楽な感じ” を自分の中に広げてもらいたいなぁ、と思

っているわけです。


 あなたは生きなくていいのです。


 生きることは義務ではありません。

 誰も生き続ける責任が有るわけでもありません。

 そういうことを言う人間はいるでしょうが、神や仏からそ

う言われた経験は私にはありません。たぶん誰も経験がない

でしょう。ですから、神や仏は、誰にも生きる義務を課して

はいないでしょう。まぁ、神や仏から「生きる義務はない

よ」と言われた経験もありませんけど、さしあたり「生きな

くていいのです」と言ってはいけない理由は無い。


 生きなければ・・・。 なぜ?


 生きろ!・・・。 どうして?


 こういうことを言うと、真面目な人は怒り出したりするん

でしょうけど、こういう生きることの根本命題みたいなこと

を不問にしたまま、「決まってること」みたいにしているの

は良いことではない。


 昨日、芦屋市で二人の女子高生が飛び降り自殺を図ったと

いうニュースがあったけれど、「死にたい・・」と言ってい

る高校生に、誰かが「生きろ!」と言って、「なぜ?」と問

い返されたら、その子が納得するような返答はまずできない

でしょう。それは、「なぜ生きなければならないか?」とい

う根本命題を不問にして生きているからですよ。

 そんなこと考えるのは面倒だし、考えてると怖くなったり

虚しくなったりするから、大抵の人は避けて生きて来てるん

ですよ。そういう人に「生きろ!」と言われても、説得力は

無いでしょう。


 「なんで生きなければならないの?」

 推測でしかないけれど、昨日、自殺を図った女の子たち

は、これまでに何度も、そう自問自答したことだろう。ふた

りでそのことを話しもしただろう。

 「なんで生きなければならないの?」と考えなければなら

ないのは、「生きなければならない」という圧力を感じてい

るからに他ならない。その圧力はどこからくるのか?

 神や仏はそんな圧力をかけはしない。その圧力は人間から

来る。そしてその圧力は、無神経に「生きろ!」などと言う

ような人間たちこそが、社会の中で増幅させている。


 「生きろ!」「生きなければならない」という圧力は、誰

でも感じているだろう。

 人生がそこそこ順調な時は気にならないけれど、上手く行

かなくなると途端に重荷になる。


 無神経な人間はその圧力を逃そうとして、誰かを攻撃した

りする。

 気の弱い人は世の中のチープな既製のストーリーに閉じこ

もったりする。

 感受性の強い人や、弱い立場にある人は圧力をまともに受

けてしまう。時には生きられなくなるほどに。

 その圧力を弱めるために、「生きなくてもいいですよ」と

いう一言は効果がある。


 「生きる」という言葉には意志が感じられるし、「自分の

力で生きる」という主体性もうかがえる。けれど、わたした

ちは自分の意志で生きているのでもないし、自分の力で生き

ているのでもない。この世界の働きによって、理由も知らさ

れず、生きさせられている。

 自分の意志でも自分の力でもないのだから、「別に責任を

持って生きなければならないことはない」と考えてもごく自

然です。だから「生きなくてもいいのです」。


 「自分の責任」「自分の力」で生きていると思うから、上

手くいかないと、それが自分のせいだと感じてしまう。ちが

う。自分のせいじゃない。

 生まれて来たのも、死んで行くのも自分のせいじゃない。

その間の人生がどう展開しようと、それも自分のせいじゃな

い。自分が生きなくていい。そもそも自分で生きるなんてこ

と誰もできていない。

 自分が生きていることは世界の働きによるのだから、

「(自分で)生きよう」なんて考えるのはムダだし、お門違

いだ。


 わたしたちは生きなくていいのです。「生きる」なんて妄

想なのです。たんに「生きている」のです。
 

 どんなに「生きよう」と頑張っても、生きられないさだめ

なら死んでしまいます。

 「自分なんか死んだらいいのに・・」と苦悩していても、

死ぬさだめが来なければ死にません。自分で生きているわけ

じゃないからです。そもそも生きているのはあなたじゃな

い。


 あなたの心臓も肺も手や足や爪や髪の毛も、あなたがどの

ように生きて来たかや、いまどのように生きているかを知り

ません。あなたの名前すら知りません。知ろうともしていな

いでしょう。そして、身体が無ければ “あなた(自我)” は存

在できない。

 生きているのは身体で、“あなた” や “わたし” は身体に間

借りしている居候です。ところが、誰もが「自分が生きてい

る」と思ってしまうので、身体が「生きている」のを邪魔し

てしまう。自分が「生きよう」とすればするほど、生きるこ

とはスムーズに行かなくなる。


 「生きよう」と頑張らなくていいのです。

 ことさらあなたが生きなくていいのです。

 生きることは、「生きている」を感じて、受け取ってゆく

こと。

 生きることは、世界の「生かす」働きに身をゆだねるこ

と。


 「生きている」ことの不可思議の前には、世の中やあなた

や私のお話しなんか、なにほどのものでもありません。


 《 自殺する人は、自殺するしか生きる道がない人です 》

と、何度か書きました。

 人は「生きたい」から自殺するのです  生きたがるのは

我(エゴ)ですけどね・・・。

 だから、「生きなくてもいいですよ」という言葉は、生き

たいから「生きていたくない」という人に違う道を提示する

ことができるはずなんです。


 「昨日、自ら命を絶った女子高生に、こんな話をしてあげ

ることができていたなら」などと思うのは、私のエゴの自惚

れなのかもしれない。

 けれど、苦悩の底であえいでいる人が、やさしく、「生き

なくてもいいんですよ」と言ってもらえたら・・。わずかば

かりの救いへの道が見えると思う。


 なにも苦悩の底であえいでいる人ばかりじゃなくて、日々

のちょっとしたつらさや悲しさに、ため息をついたり、イラ

ついてしまう時、「ことさら、生きなくていい」と思えるの

なら、局面はかなり変わるはず。


 「生きなくていいですよ」、生きてもらいたいから・・。




 

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