2023年9月28日木曜日

あとでもいいか・・・



 一週間ほど前から、「やらなくちゃいけないなぁ」と思っ

ていることがあるんだけど、なかなかやる気になれず、ずる

ずるとそのままになっている。まぁやらなきゃしようがなく

なって、その内やるんだろうけど・・・。


 小学生の頃、夏休みの宿題をせずに先延ばしにして、いよ

いよ切羽詰まっても結局半分ぐらいしかやらないまま二学期

に入り、先生に「提出しろ」と言われても、「はい・・」と

か言いながらそのままうやむやにするというのが毎年恒例だ

った。先生も忙しいので、3週間もしたらもう何も言わなく

なる。


 こういうことは誰でも身に覚えがあるはず。「そんなこと

身に覚えがない」という模範的な人間もいるのかもしれない

けど、それはそれで何か気持ち悪い気がする・・・。面倒な

ことは先延ばしするのが普通じゃないかな。そして、たぶん

それは人にとって良いことだろうと思う。


 先延ばししてしまうのは、そのことが本質的に自分にとっ

て重要じゃないから。

 先延ばししてしまうのは、そうすることがいまの自分にと

って望ましいから。

 先延ばしできてしまうということは、そのことがさしあた

り自分にとって必要ではないから・・・。
 

 わたしたちが先延ばしにするようなことは、社会的な評価

や、将来的な安定につながることですが、個人としての本

的なしあわせには関係ないことです。本当はどうでもいいこ

とだから、先延ばししたくなるし、先延ばしできてしまうの

です。

 自分の「生きること」に直接関係していることなら、人は

すぐにでも行動するものです。トラがこっちに向かって来て

るのに、「(逃げるのは)あとでもいいか・・・」なんて言

てスマホをいじっていられたりする人はいないでしょう。

たぶん・・・。(いたら弟子入りしたいところですが・・)


 人は社会的な評価基準でもって他人や自分自身の価値を考

えるように徹底的に刷り込みをされて育ちます。そのせいで

先送りしてしまう自分をネガティブに考えてしまうけれど、

自分を卑下する必要はない。先送りしてしまうことが多くっ

たって、それで当然なんです。その事はいま必要じゃないん

だから。

 先送りしてしまう時は、自分が何を大事だと感じているか

が表に出てきている時。自分を振り返るひとつのチャンスで

す。面白がってみる方が気が利いてる。


 そういえば、ひろさちやさんが自著に書いてたね。「明日

できることを今日するな」って。

 「明日できるんだから今日しなくていい」というのは、す

ごく当然のことで、なにも問題はないはずなのに、こういう

ことを言うと「なまけ者」みたいに言われてしまうことが結

構あるというのが、いまの日本です。アタマのおかしい人が

沢山いますね。(まぁ、アタマは「おかしい」のが標準です

が・・・)

 「明日できるから今日はしなくていい」という判断は合理

的で真っ当です。だけど、それが気に入らなくて否定する人

がいる。いったい何の為に否定するのでしょう?

 合理的で真っ当なことを否定するのですから、その人は不

合理で不当なことがお好きなのでしょう。不合理で不当なこ

とが好きだなんて、狂ってますよね。


 そのような狂人は、その「事」を片付けることよりも、そ

れを早くやってしまうことが目的になっています。だって、

その「事」は明日でも片付けられるんですから、今日やって

しまう必然性はありません。目的がすり替わってしまってい

ます。

 そのような狂人がやりたいことは、明日をこちらに引っ張

って来ることです。


 明日を今日に取り込んで、明後日もできるだけ取り込ん

で、一週間後も、一か月後も、一年後も、できることなら自

分の未来すべてを今日に取り込んでしまいたいのでしょう。

それはどういうことか? なぜか?


 未来が怖いのです。

 だから、未来を「予定」というカゴに入れて、「今日」と

いう自分のコントロール範囲に持ってきて、「未来をコント

ロール出来てる!」という安心感を得ようとするのでしょ

う。

 でも、明日を今日に取り込んだら、目の前には「明後日」

が立ち現れてきますから、それにも立ち向かわねばならなく

なります。首尾よく「明後日」をものにできても、すぐに

「明々後日」が・・・。いつまでやるのでしょう? 果てしな

いですね。


 未来が怖い。

 たぶん、ほとんどすべての人は未来を怖れています。「そ

んなことない」と思うかもしれませんが、人は未来を怖れて

います。というより、怖ろしいものは「未来」にしかないで

しょう? もう起きてしまったことを誰が恐れるでしょうか? 

人が「怖れ」を投影できるのは「未来」にだけです。

 “過去の怖ろしい出来事に今も苦しめられる” ということは

ありますが、それは心理的なタイムマシーンで、過去の「怖

ろしいことを体験する時点」に戻って、疑似的に「(済んで

しまっている)未来」を受け取るようなことであって、本当

は「過去」の怖れはもう消えているというのが事実です。

 そして、怖れは「今」に存在できません。「今」は一瞬な

ので、ただ体験することができるだけで、「怖れ」を投影す

る時間もスペースもありませんから。


 ・・・話は戻って、「しなければならないこと」を「しな

ければならないのに・・・」と重荷に感じたりする理由を考

えてみると、「しなければならない」のは、それをしなかっ

たときになんらかのデメリットや問題が生じると思うからで

はないでしょうか?

 それをしなくても特に問題が起きないようなことを、「し

なければならない」なんて思うはずがないですよね。「しな

ければならないこと」の背後からは、無表情な目で「怖れ」

がこちらを見ているのです(それは大抵 “誰かからの非難” で

すが)。けれど、それはアタマの妄想です。悪癖です。ほん

とうは「怖れ」なんてないのです。「未来」に・・・。


 とはいえ、「しなければならないこと」をしなかったら実

際に困ることになるのも事実です。けれど、困るのは、実際

に困ることになるようなストーリーに、自分が入り込んでい

るからです。

 しなければならない仕事をしなかった為に上司が怒り狂っ

ても、意に介さず笑っていることは可能です。それは「お話

し」だからです。

 もちろん、上司はさらに怒るでしょうし、仕事を辞めなけ

ればならなくなったりすることでしょう。困難が待ち構えて

いるかもしれません。社会は、社会の「お話し」に従うよう

に個人に要請しますから、従わない者はご褒美にありつけま

せん  「ご褒美」といっても、金かお褒めの言葉のどちら

かですが。


 ・・・・・思ったよりも話が広がり過ぎて収拾がつかなく

なってきました・・・。長くなってしまうし・・・。

 続きはこの次でいいか・・・。



 

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