2023年9月16日土曜日

極悪人という仏



 京アニの放火事件の裁判が始まって、あれこれとニュース

が流れる。

 「被告は虐待されて育った」というような内容が報道され

ると、すぐさま「そんなこと関係ない!」と、SNS に怒りの

コメントが書き込まれて、それがまたニュースになる。そう

いうことにしておけば気が済むのだろうが、あいも変わらず

「浅いなぁ」などと思わされる。

 虐待されて育てばその人間の人格形成に大きな影響を与え

ないわけがない。「○○ちゃん」と呼ばれるか「○○くん」

と呼ばれるかの違いだけでも、その人に結構影響を与えるだ

う。もちろん〈虐待される=悪人化〉という意味ではな

い。


 犯した罪の重さとはまた別の話として、そういうことを認

めた上で人というものの在り方を理解しなければ、上っ面の

つじつま合わせと、自分の都合のいいように他人を枠にはめ

る独善がまかり通ることになる。それは世の中を良くはしな

い。


 この世には極悪人がいる。時代や国を越えてまで忌み嫌わ

れ、断罪され続ける人間もいる。これまでの歴史を見るかぎ

り、そういう人間はいなくならない。小悪人などは、あらゆ

るところにいる。それが全体としての人間というものらし

い。


 そういう人間はいない方がいいに決まっているけど、いな

くならない。当然、なんの因果かそういう役回りになる人間

は後を絶たない。そんな役回りはイヤだと思っていても、な

るときにはなる。一年後、私が人殺しになっているかもしれ

ない。さだめなら、誰もそれを逃れられない。天命と言って

もいいのだろう。


 世のため人のために人生を捧げる人間がいるのも、天命。

 私利私欲のために人生を費やす人間がいるのも、天命。

 悪魔のように冷酷な行いをする人間がいるのも、天命。

 すべては、天のさだめ。個々の人間は、そのさだめを生き

るほかない。

 そこに個人の意思や力が関与できる余地はない。どのよう

な意思や力を持つかもさだめなのだから。


 「山川草木悉皆成仏」という仏教の言葉がある。

 これは仏教の大前提であり、結論ともいえる言葉。

 「すべての物、すべての生きている物は仏である」という

ことで、ならば極悪人も仏だということになる。


 この世界は人の考える「善悪」を越えたものとして在る。

 人の思惑よりも先に、人の思惑で捉えきれないものとし

て、この世界は在る(当然のことなんだけど・・・)。

 そういうものとしての、この世界とこの世界のあらゆるも

のを「仏」と言う。


 悪人はイヤだ。極悪人はもっとイヤだ。消えて無くなれば

いい。私もそう思う。けれども、悪人はいなくならない。そ

して、もし自分が極悪人になるさだめだったとしたら・・。

 血も涙もなく、人がむごい死に方をしても笑っているよう

な人間になったとしたら・・・。

 そんな人間になることは、人として生まれてきた上で最も

悲惨で悲しいことだと私は思う。それ故、そのような人間の

魂こそ救済されるべきだ。だから親鸞は言う。「善人なおも

って往生す。いわんや悪人おや」。

 善人も悪人も救われる。仏に受け入れられていることで、

すでにそのままで仏になっている。救われている。


 「もしかしたら、自分があの極悪人になっていたのかもし

れない」

 「あの極悪人は、自分の代わりにあのようなさだめを生

てくれているのかもしれない」

 「自分の身替わりなのかもしれない」

 そう考えたとき、その劣悪なさだめを生きているその人

が、そのような役回りを、自分や他の人の代わりに生きてく

れている有難いものに見えて来はしないだろうか? 極悪人も

仏なのだ。


 もちろん、そういう想いと、現世の社会の「善悪」とは別

だ。この世では「悪人」は「悪人」だ。断罪されて当然だ。

それはそれでいい。

 けれど「極悪人も仏だ」と見なす意識は持っておく方がい

い。その意識は自分も救う。「極悪人」が許されるのなら、

すべてのものは許されるのだから、当然、その中には自分も

いる。


 「山川草木悉皆成仏」という意識は、そのように自分の救

いになる。

 同時に、自分がそう思うだけで、すべての人をも救う。

 それは、ほんの一瞬、ほんの 0.00000000001% のこと

かもしれないけれど、間違いなく、すべてのものを救う。
 



 

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