2017年10月31日火曜日

「お肌の曲がり角」を曲がったら。


 三年程前に、駅ですごく肌の綺麗な女子高生を見かけたこ

とがあって、その時に “若さとは何か?” という事が急に分

かったんです。

 “若さ” とは、つまるところ「肌のハリ」なんだなと。

 若ければ、肌にハリがあるのは当たり前だと思われるでし

ょうが、実は “若さ” とは「肌のハリ」だけなんです。


 考えると分かっていただけると思うんですが、知識・経

験・様々な能力などは、年齢が高いほど上です。体力も、ア

スリートではなく一般の人の場合、ある程度身体を鍛えてい

る人なら、六十歳ぐらいまで若い子と遜色ないレベルに維持

できます。そう考えると、若い子が、若さ故に年長者より優

れている事は、「肌のハリ」だけなんです。

 だからアンチエイジングというと、「肌をどうやって若く

保つか?」ということになるわけです(さらに年齢が進む

と、「体力と足腰の健康」という事になりますが)。


 この話を、以前に職場で話したら、周りのパートの女性に

「今、ここに居る全員を敵に回しましたよ」といわれたんで

すが、そうじゃないんです。

 「肌のハリが無くなった」

 「シワが出来た」

 「シミが増えた」

 何故、そんな、若い子や自分の若い時と較べて、絶対に勝

ち目のない事で自分を評価しようとするのか?

 他の事ならば、たいてい若い子や自分の若い時より勝って

いるのだから、「若い子が私に勝てるのは、“肌のハリ” だ

けね」とうそぶいていればいいと思うんだけど。


 自分で勝手に「お肌が・・・」と自己評価を下げて、若い

時よりも圧倒的に勝ってる事を、自分でちゃんと評価してあ

げていない。

 「オバサン」という目で自分を見る若い子に対しては、

「アンタにあるのは “肌のハリ” だけでしょ」と胸を張っ

て、鼻で笑ってやればいい。


 ところが、「肌のハリ」という一点だけで、「負けてる」

「私は落ちぶれた・・・」みたいに自分を卑下する・・・。

 そんなことを三十代ぐらいから始めるもんだから、高齢に

なって色々な事が本当に衰えて来た時に、若い子に敬意を持

たれない「年寄り」になってしまうんじゃないかと思う。


 「肌の衰え」なんて、すべての人間に共通で(多少の個人

差はあるけれど)避けようのないことに拘るより、自分が今

まで、泣いたり笑ったりしながら身に付けて来た事の方に目

を向けて、自分を労わって、自分を認めてあげることの方が

優先すべきでしょう。( “両方” というのは傲慢です)


 「今、生きてる」ということは、いろいろな辛さや苦しさ

を “自分なりに” 乗り越えてきたという事です。

 その、乗り越える過程で、自分は成長したのです。

 若い時よりも、人間としての価値は増しているはずです。

 「良くやって来たなぁ・・・」

と、自分を慈しんで、自分を信じてあげるべきなんじゃない

のか? 

 「確かに “肌のハリ” は無くなった。けれども、もっと凄

い、もっと素晴らしい物を、私はいくつも手に入れた」

 そう思って間違いは無いはずなんです。


 「“肌のハリ”? そうね、有るうちに楽しみなさい。今だ

だから。でも、そんなもんに頼ってたら、そのうち泣きを

る事だけは、憶えておきなさいよ」

 そういう眼差しを、(思いやりの意味で)若い子に向けら

れる人はカッコイイし、魅力的だと思いますよ。

 そうは思いませんか?



 (ここまで書いて来て、こんな事を言うのも何ですが、ひ

とつお断りしておきます。「お肌ピチピチ」の若い子と「オ

バサン」が居たら、やはり「お肌ピチピチ」の方に私はまず

目が行きます。“オス” ですから・・・。ご了承下さい。

「まず・・」ですから♡)




2017年10月29日日曜日

行列の先に何がある?


 私は人が多いのが嫌いです。

 何処かへ出かける時も、なるだけ人の少ない日時を選んで

行くし、行きたいところでも、人気があって混んでいると聞

くと、余程の情熱を持てることでなければ取り止める。

 行列して何かを買ったり、食事をしたりするなど考えられ

ない。

 「あんなに流行っているんだから、大した事ないんだろ

う」

 と、考える。

 三十分、一時間も並んでいるぐらいなら、公園のベンチで

「ボーッ」としている方がましだ。



 実際に「すごく美味しい」などと言われて、行列の出来る

店の物を貰って食べたりしても、「なるほど!」と思った事

がない。「普通だね」と思う事ばかりだし、中には「普通以

下」もある。

 ヒトが「イイ!」と言うと、自分も「イイ」と思う人が多

いのだろう(ショッカーの戦闘員だろうか?)。私の経験

上、人口の半分は “味音痴” だと思っているし、同時に美的

センスも無い。要するに、さまざまな面において感覚が鈍

い。

 そう言うと、まるで「私は感覚が鋭い」と言っているみた

いだが、そう思っている。すくなくとも、“集まるのが好き

な人達” とは違うことは確かだろう。



 《 「大人気」なら、離れて見てる 》

 それが私の基本姿勢となっている。

 よしんば、それが本当に良いものであっても、「大人気」

に揉みくちゃにされ、「贔屓の引き倒し」に合ってダメにさ

れてしまうことが多いので、そんなバカさわぎの片棒を担ぐ

のは真っ平ごめんだ。



 買い物に行くと、店員が「これ、人気ですよ!」と商品を

薦めて来ることがよくあるが、「人気が有る」ことが、なぜ

私に対して薦める理由になるのか?「人気が有る」ことと、

その商品の価値は別だと思うのだが、「人気が有る」ことは

「価値」なのだろうか?

 ああやって薦める者が多いという事は、「人気が有る」と

言えば、買う人間が多いのだろう。気が知れない。

 中には「人気です!」と言って、服を薦めて来る奴が居る

けれど、「人気!」なら誰でも着ているのだ。街を歩いてい

て、あちこちで自分と同じ服を着ている人間に遭うなんて、

考えただけでおぞましい。

 ああいう薦め方が横行しているのだから、自分の感覚では

なく、他の人間が選んでいるかどうかを基準にする人間が、

かなりの数存在するのだろう。


 《 流行とは我慢の出来ない “醜さ” の一種だ

   だから、半年ごとに流行は変わる 》

と言ったのは、オスカー・ワイルドだけれど、なぜ “醜い” 

かというと、自分で判断しないで他人の意見に迎合する人間

たちが「流行」を作るので、「流行」は〈凡庸さ〉と〈無責

任〉で固められている。“加齢臭” や子供っぽい “小便臭さ”

が漂ってきそうだ。



 ワイルドが言うように、「流行」はすぐ変わる。

 「飽きて」次を求め、また「飽きて」次を求め、また「飽

きて」次を求め・・・・・・・。おもちゃが変わるだけで、

人間はそのまま。そうやって数千年が過ぎ去ったけど、人間

はそのまま・・・。人間自体が、“「世の中」のおもちゃ” 

になっているのかも知れない。

 わたしたちは、ハツカネズミが回し車の中を走り続ける姿

や、猫がピンポン玉を追い回す姿を見て笑っているけれど、

人間が次から次へとおもちゃを取り替えてゆく姿も、それと

変わりはしない。ハツカネズミが回し車を回すのを急に止

め、静かに座って、窓から見える青空を眺め始めたら面白い

んじゃないかと思う。


 自分自身が何を欲しているか?

 本当に欲しているのは何か?

 自分が欲しがっている物は、本当に欲しい物なのか?

 それを欲しがっているのは、本当に自分か?

 誰かの動きに釣られているだけではないのか?

 それが欲しいと思い込まされているだけではないのか?

 自分にとって本当に価値があることなのか?

 深刻に考える必要はないけれど、真剣には考えてみなけれ

ばならない事だろう。


 

2017年10月27日金曜日

「理想」という狂気


 《 今の世の中を一言で言うと「小賢しい」に尽きる 》



 誰もが、わけの分かったような顔をしてモノを言う。

 誰もが、それが正しいような振りをする。

 誰もが、じぶんを棚に上げて他人を裁く。

 一体誰が「正しいこと」を知っているというのだろう。

 一体誰が「良いこと」を知っているというのだろう。



 すべての事を理性的に判断し、すべての事を合理的にコン

トロールし、すべての事を理想への手段にする。

 アタマで考えたことが「正しい」。

 アタマで考えた事に従えば良い。

 そういう傾向が広く支配している現代。

 アタマで考えた「正しさ」「良さ」を担保するのは、当の

アタマでしかないし、世界は人間のアタマに合わせて出来て

るのではない。

 小さな違和感や小さな喜び、世の中に顧みられない所にあ

る美しさ、醜悪さ、そういった言葉に出来ない諸々の事を、

無い物として世界が進んで行く。アタマの理想を追い求め

て。アタマにとって都合の良い世界を目指して。



 このことは、社会のレベルでも、個人のレベルでも同じだ

し、物質に対してでも精神に対してでも同じ。置き去りにさ

れた物は、消え去ってしまう訳ではない。それは存在し続

け、いずれ関わらざるを得ない時がやって来る。置き去りに

した分だけ面倒にって。


 現代は「アタマの正義」だけが幅を利かす時代。

 (人間に語れるのは「アタマの正義」だけですが・・。

「自然の正義」と「身体の正義」は指し示すことと、感じる

ことが出来るだけ)

 無視され、置き去られたものが声なき悲鳴を上げる。

 それを切り捨てて、そのまま片が付けられると思うのは大

間違いだ。わたしたちの世界は閉じているのだから。


 閉ざされた部屋の中で毒蛇を殺す。

 それで、危険は去るだろう。しかし、その死骸はやがて腐

臭を放ち始める。問題が姿を変えるだけ。
 

 限られた世界で得た小さな力で、世界さえも動かせるよう

な錯覚を覚え、図に乗ってしまう人間。

 「アタマが悪いね」というしかない。


 理想を掲げることが、良いことの様に言うが、その「理

想」が何処から生まれて来たものか?

 例えば、「人の命は地球より重い」。

 その心情は分かる。人の命は大切だ。

 しかし、そうして人の命を大切にして来た結果、人口は爆

発的に増え続けて、世界中で生存競争が激化する。

 人の命を大切にした結果が、人と人との殺し合いの原因に

なるなんて、なんとも皮肉な話だ(直接的に殺さなくても、

金や食料を融通しない、水を他所へ回さないなどして間接的

に人を殺している)。けれども、やっぱり人の命は大切だ。

どうしたらいい?


 一体何をしてる?

 人間は幸福になったか?

 他の生き物は幸福になったか?

 何を得られたというのか? 
 

 やり直しが利くかどうかは知らない。

 けれど、考え直しはするべきではないか?

 「直す」と言っても、「考え」を捨てる事になるのだけれ

ど・・・。


 “分かった事にしてしまう” 

 その小賢しさが、大きな問題を生む。

 “分からない事” を、分からないまま、ずるずると、うじ

うじと、捨てずに引き摺って行く。

 その “重荷” の中にこそ、血の通った〈人間の生〉がある

のではないか? 世界の本質があるのではないか?


 「理」で「想う」ことは、「理」の範囲に止まる。

 その「理」が、宇宙や生命の「真理」なら良いが、それは

人間の「アタマ」が理解しうる範疇には無い。

 人の「理想」は、人の身の丈の範囲に止めておくべきだろ

う。図に乗ってはいけない。




2017年10月25日水曜日

小池百合子 自身を「排除」する。


 衆議院選挙が終わり、小池さんが「排除」という言葉を使

ったが為に、「希望の党」の “希望” は急激にしぼんでしま

い、御本人のイメージも大きくダウンしてしまった様です。

 ダメですねぇ。政治家は言葉がすべてなのに、なんだって

こう迂闊に物を言う人が多いのでしょう。

 「排除」なんて、最悪ですよ。


 「考え方の違う人間は、排除」ということですが、これは

その政治家を支持する国民も「排除」、ということになりま

すからね。

 おなじ土地、おなじ国に住む者同士なんだから、たとえ考

え方が違っても、折り合いを付けながら暮らして行かなくて

はならない。日本は独裁国家では無い。

 小池さんの「排除」発言が大きな反発を招いたのは、自分

が「排除」される側じゃなくても、多くの人がそこに「独裁

者」のイメージを見たからだろうと思います。

 「あぁ、政治だなぁ」と思ったりします。


 テレビでもネットでも、政治に対する発言を見ていると、

「なんでこうも、アタマが悪いんだろう」と思います。

 私は政治の事はよく分からないし(参議院や衆議院の議席

数とか任期さえはっきり知らない。覚える気が無い)、どん

な政策が日本や世界の将来の為に良いのかも分かりませ

  分かってる人も居ないと思います  が、「アタマが

い」のは分かります。


 どういう事かというと、人の考えは少しずつ違いますよ

ね。(いろいろな意味で)最右翼から最左翼まで、その違い

の順番にズラーっと並べると、中間的な考え方の人が最も多

い “正規分布” (ベルカーブ)になるはずです。そうなる

と、民主主義で多数決の日本では、中間層(”経済的な” で

はない)の考えから大きく外れたら政治をさせて貰えない。

「自民党」は、常にその中間層に合わせた政治をするので

す。というか、中間層に合わせられる  妥協できる  

間が「自民党」に入るのです。


 対して、「野党」というのは、心情的・思想的にどうして

も中間層に合わせられない人たちの集まりです。そして、

「野党」の中でも当然の様に分裂します。妥協したくない人

達ですから。ですから、少数派にならざるを得ません。

 日本の政治は、“右” と “左” に分かれているのではなく、

“中間” と “左右” に分かれているのです。

 ですから「自民党」が、中間から右と左にまで出来るだけ

手を広げる、「汎用政治」を続けている限り、政権交代は有

りません。よほど無能か、酷い汚職がばれるかしなけれ

ば・・・。

 「自民党が強い」というより、国民が極端を嫌うというこ

とでしょう。



 以前、「自民党」が政権を追われたのは、「長い間、自民

党ばっかりでチョット飽きたし、少したるんでるみたいだか

ら、一度他にやらせてみよう。そんなに極端なことはしない

だろうから」という、国民の気分だったんだろうと思いま

す。でも、震災と原発事故という極端な事が起ってしまった

時に、当時の政府が「頼んないなぁ」と思われてしまったの

で、また「自民党」に揺れ戻しが来た。そんなことでしょ

う。

 「自民党」によらず、どの政党が政権を握っても、「自民

党的」な “中間向け政治” をせざるを得ないので、政権政党

は名前が違っても中身は〈自民党〉です。


 「自民党」にイデオロギーはありません。その政治姿勢・

政策は、“常に大衆に合わせること” であり、その為には

「どの様なイデオロギーでも身に纏う」ということこそが、

「自民党」のイデオロギーなのでしょう。(恐ろしく日本的

ですね。神社に宮参りして、誕生日は「ハッピーバースデ

ィ」で、結婚式は教会で、葬式はお寺、の国です)


 そんな政治の国なのに、「自民を倒せ!」とか、「自民に

代わる政策を出せ」とか言ったってムリですよ。中間の多数

は、「自民党(的)」がいいんだから。「野党」の仕事は、

政権を握ってる者が怠けたり、ズルしたりしない様にちょこ

ちょこ小突くことしか無いんです。

 「政権を握ろう!」なんて思う必要は無い。

 仮に政権を握っても、極端な事はさせてもらえなくて、

〈自民党(的)〉になるだけなんだから。


 そういう、「当たり障りなく、出来るだけ広く」という政

治が求められる国で、「排除」だなんて言葉を使うなんて、

愚の骨頂です。


 《 「政治」は改革出来ても

           「国民」は改革出来ません 》


 なぜ、政治家なんかに成りたいのか? 気が知れません。

 「自分が国を変える」と思うのでしょうか? 

 「国を変える」というのは、「国民を変える」というのと

同義ですから、誇大妄想でなければ、ただの傲慢です。


 誰かがやらなければしょうがないのは分かりますが、そこ

に自分から進んで出て行く人が後を絶たないのは・・・、不

思議で笑ってしまいます。

 真面目に、真摯に努める人も居るでしょうから、そういう

人には敬意を払いますが。


 改めて、政治の事はよく分かりません。

 政治家も有権者も、「政治は必要悪でしかない」という事

を理解した上で、「ああだ、こうだ」言って欲しいですね

ぇ。

 政治で国を良く出来る可能性があるとしたら、教育に力を

入れる事によってのみでしょう。国民を「賢くする」教育で

はないですよ。国民を「落ち着かせる」教育によってです。

 「アタマ」を教育すると、“小賢しく” なるだけですから

ね。「こころ」を育むことを、教えるんです。


 昔、吾妻ひでお が「不条理日記」というマンガの中で、

こう書いてました。

 《面白い政治をすると、“おひねり” が貰える》

 サイコーですね。



 

「ナムアミダブツ」


 私は真宗の信者ではありませんが、時折「ナムアミダブ

ツ」と口にします。ちゃんとした信者さんからすれば、いい

加減で怒られるかも知れませんが、気分が沈んだ時や嬉しい

事が有った時などに、不意に口をついて出て来ます。

 特に “阿弥陀仏” を信仰しているわけでは無いですが、

「ナムアミダブツ」という言葉が口にしやすいんですね。日

本人だから、耳にも口にも憶えがあるんでしょう。



 私は 、“阿弥陀仏” というのは、この宇宙の〈存在全体そ

のもの〉と理解しています。ですから、〈存在全体そのも

の〉を想わせるものであれば、その名前が “阿弥陀仏” でな

くったっていい。「南無釈迦如来」でもいいし、「南無観音

菩薩」でもいい。「南無イエスキリスト」だって構わない

し、「南無お天道様」「南無コンクリートブロック」「南無

親指の爪」だっていい。大事なのは『南無』ということです

から、本質的には「ナム」とだけ口にして、後は口をつぐん

でしまってもいい。


 『南無』という言葉は、「自分の想い・都合はすべて捨て

て、何もかもお任せします」ということですから、それさえ

分かっていれば、それさえ感じていれば、“阿弥陀仏” でも

“キリスト” でも構わないはずです。(「アーメン」という

言葉も、「ナム」と同じことなんじゃないかなと思っていま

す。「namu」と「ahmen」と似てますよね、どちらも

「mu」とか「men」とか “自分の口を閉じる” 事をうなが

すのでしょう。「自分の勝手を言うな」と。・・よく知らん

けど)


 以前にも少し触れたことがありますが、浄土真宗のお坊さ

んで、藤原正遠という方が居られました。もう二十年程前に

NHKの「こころの時代」で話されているのを拝見したんで

すが、その時に正遠さんがこう言われました。


 《阿弥陀様は下に居られる。下に居て、抱いて下さる》


 この言葉を聞いた時に、目からウロコが落ちた様な気がし

ました。


 普通私たちが「救われたい」と思う時、〈救い〉は上から

来るようにイメージするでしょう。

 阿弥陀三尊が浄土から迎えに来るときは、西の空からやっ

て来るし、教会の中にはキリスト像やマリア像が、高い位置

に掲げられている。「フランダースの犬」のラストシーンで

は、天使が舞い降りてくる。

 でも正遠さんは、「救いは下にある」と言われた。

 そしてそれは、わたしたちが起き伏ししている、その足の

下、からだの下、1mmも離れていない距離でしょう。

 常に、抱き止める準備が出来ている。



 “自分” にしがみついている〈自分〉の手を離せば、今、

この瞬間に、“阿弥陀仏” の中に落ち、抱き止められる。

 「南無」と自分の口をつぐむ。

 「南無」と自分の思いを手放す。

 その度ごとに、“阿弥陀仏” に代表される〈存在全体その

もの〉に抱き止められる。

 宗教臭くない様な言い方をすれば、「自分を振り回してい

る〈エゴ〉から解放される」ということですね。

 《実相》  先入観の無い、世界と自分  を知るわけで

す。



 藤原正遠さんのお話を聴けたのは、大きな御縁でした。そ

れこそ〈仏縁〉というものでしょうが、そのおかげで、時折

でも「ナムアミダブツ」と口にする人間になりました。


 『ナムアミダブツ』というのを、「ただの呪文だ」「あん

なの仏教じゃない」「御利益目当てのまじないだ」という風

に批判する人もいますが、法然上人も親鸞聖人も、その様な

見方をされるのは百も承知だったんじゃないかと思います。

 「ほとんどの信者は『ナムアミダブツ』と唱えても、その

神髄に気付かぬまま終わるだろう」と、しかし、その中に本

当の仏法の姿に気付き、『平生業成』(生きている内に、救

われる事)を果たす者が必ず居るだろうと。

 仏縁を結ぶことが出来る方が良いし、仏縁を結べなければ

往生する事は出来ないのだから、仏縁を結び、往生を果たす

為に『ナムアミダブツ』は最適のツールだと考えたのでしょ

う。(その考えが起る事自体も、阿弥陀仏の働きという事に

なりますね)



 なんだって私は、仏教や老荘思想に興味を持ち、こんなブ

ログまで書いているのか?

 子供の頃から、世の中の「ロクでも無さ」に辟易とし、大

人になっても世の中の「大袈裟さ」や「もっともらしさ」に

鼻白む事ばかりで、とてもじゃないけどまともに付き合って

られないと感じて来ました。

 そんな「世の中の作り事」を上手にあしらう為には、仏教

や老荘思想が最適だったということでしょう。


 そして、このブログを書いているのも、“阿弥陀仏” の働

きによるのでしょう。

 このブログは出来損ないですが、ひとつの〈仏縁〉である

ことは間違いない。


 今、これを読んでくれているあなたが、仏教に関心がある

かどうかは知りませんが(ここまで読んで来られたのだか

ら、関心が無いわけじゃないでしょうね)、せっかくの機会

です。自分の都合を言いたくなるその口を、「ナムアミダブ

ツ」とつぐんで、その手を放し、すべて預けて、“阿弥陀仏”

 に抱かれてみて下さい。


 念のために書いておきますが、真宗の勧誘ではありません

よ。

2017年10月24日火曜日

百済観音を想う


 “仏像好き” なら誰でも知っていますが、法隆寺に “百済

観音” という仏像が有ります。

 有名な仏像はいろいろあって、私にもお気に入りの仏像が

いくつもあるのですが、その中で一番心惹かれるのが “百済

観音” ですね。
 

 法隆寺が発行している『百済観音』という本があって、明

治以降の “百済観音” に関する随筆・評論、俳句・歌、写真

をまとめたものなんですが、名だたる文筆家・写真家が、

“百済観音” にオマージュをささげるという体の本です。

 その本の写真を時折眺めては、その不思議な存在感に言葉

を失います。他のどんな時代のどんな仏師の作風とも違う、

唯一 “百済観音” だけの特異な造形。

 何が「特異」と言って、“百済観音” の存在感というの

は、「存在してない様に思える」という存在感なんです。


 実際に法隆寺で実物を観ると、まったく “力” というもの

を感じない。

 “百済観音” を語る時、よく言われるのが水瓶を持つ左手

の「軽やかさ」で、「水瓶の口に指先で触れているだけで、

今にも落としそうなほど力を感じさせない」ということなん

ですが、左手だけではなく、「すっ」と差し出された右手

も、その体躯も顔も、まるで “夢まぼろし” のように力無

く、見ている間に霧散して消えてしまいそうな気までしてく

る。展示室の出口で振り返ったら、消えてるんじゃないか

と。

 それほど現実感を感じさせない姿なのに、それ故に圧倒的

な存在感がある。本当に不思議です。よくもまぁ、こんなも

のが作れたもんだなぁと・・・。
 

 私は、特に “百済観音” の右手に目を奪われるのですが、

先の『百済観音』という本でも最初のページは、“右手” の

クローズアップです。

 掌を上に向け、まったく力を入れずに「すっ」と、やさし

く差し出された右手。


 その手が差し出しているのは、《宇宙のすべて》なんじゃ

ないかと思えてくる。

 それと同時に、私も含めた《宇宙のすべて》を預かろうと

している様にも思える。


 そんなこと、ただの妄想でしか無いのかも知れない。

 けれども、その右手を観ていると、自分の雑念が吸い取ら

れて心が穏やかになってゆくのを感じます。

 その手を、姿を観ていると、自動的に瞑想させられてしま

う様です。


 『何時、誰が造ったのか? 何処にあったのか? 何も分か

らない “謎に包まれた仏像” 』

 そんなエピソードを知らずとも、その特異な姿にはどんな

ストーリを当てはめることも出来ない。

 “力” を感じさせないだけではなく、“物語” も感じさせな

い。

 ただ、ひたすら〈存在〉だけがそこに在る。


 “百済観音” を観ていると、私の “アタマ” が「バツが悪そ

うに」席を外して行くのです。
 

 仏像を観て、「諭される」とか「戒められる」とか「見守

られてる」とか、人それぞれに様々な感想を持ちます。私

も、他の仏像を観る時に、そんな感じを持ったりしますが、

“百済観音” だけは違う。

 何か、ダイレクトに〈存在そのもの〉に向き合わせられる

ように思います。

                    
                                                                合掌。
 
 

2017年10月22日日曜日

アタマが悪い まとめ Ⅲ


 《 人は “喜び” には飽きるが 

          “安らぎ” には飽きない 》
                 「意識について Ⅰ」

 《 わたしたちが〈意識〉を持っているのは

     「存在する」という至福を感じる為だろう 》

 《 宇宙の始まりから終わりまで

           何もかもがしあわせだ 》
                 「意識について Ⅲ」

 《 わたしたちは「何かを成すことの価値」ばかりを

     刷り込まれ続け、

  「何も成さないでいる安らぎ」を

             あまりにも貶めている 》

 《 「運命」とは、「命に運ばれてしまうこと」では

    ありません。

   「運命」とは、「命に運んでもらうこと」です。

   「自分で自分を運んで行こう」なんて、

                  傲慢なんです。 》
                 「不治の病を生きる」

 《 世界は無意味です

   だったら、しあわせにしちゃえばいいんです 》
                「運命に翻弄される?」

 《 人は皆 “自分の星” に満足したり

   呪ったりしながら生きて行く様ですが

   “自分の星” は「笑っちゃう」のがイイようです 》
               「集中力は養えません!」

 《 どれほど遠く旅しようとも

         心が自分にとどまっていては

             家で寝ているのと同じだ 》 
    「ネットお遍路さん、どうぞ休んでいって下さい」

 《 「強くなれ」って言うのは

   “弱い者” に手を貸す〈智慧〉なり〈品性〉なりが

       無い者が、言うセリフじゃないのかなぁ 》

 《 本当の自信を持っている人は

              他者を批判しません 》
             「『強くなって』何をする?」

 《 自分のあるがままの力で

   自分のあるがままに生きてゆけばいいんでしょう

   自分に無いものは無いし

   得られないものは、得られない

            それが自分というものです 》

 《 「強さ」は娯楽でしかありません 》
               「弱いままでいきてゆく」

 《 「生きなければならない」ことはない 》

 《 生きているから 生きている 》
         「ボクらはみんないきている けど
            『生きなければならないの?』」

 《 「生き甲斐」によってしあわせになるのではない

      しあわせでいることが「生き甲斐」なのだ 》

 《 人間には何の義務も無いが

       もし、義務があるとすれば

         「しあわせを生きること」だろう 》
              「生き甲斐と、上西小百合」

 《 わたしが、わたしのマイホーム 》
                    「家へお帰り」

 《 「勝った者が、最後に笑う」のではなく

   「最後に笑っちゃえば、勝ち!」でしょ!

   というか、「勝ち」も「負け」も

            そう思うだけのことだから 》
              「やっぱり、アタマが悪い」

 《 わたしたちは “状況の奴隷” です

      自分を保持し続けることは出来ません 》

 《 個人の力は “出来事の要素の一つ” に過ぎません 》
              「あなたの望みは叶わない」

 《 人として持つべき夢は「夢を持たないことである」》
                「夢と希望は必要か?」

 《 教育とは、「育むことを教える」こと 山川宗玄 》

 《 世の中にとって大事なのは、世の中だけです 》
           「『教育』ではなく、『教⇔育』」

 《 通常、「込み入る」と「深刻」になり

      「深刻さ」からは「不幸」が発生する

   「幸福」でいたければ

         「込み入らない智慧」が求められる 》
「特別電源所在県科学技術振興事業補助事業評価報告書?」

 《 〈社会〉とは、個人のエゴが集まったもの

   〈自分〉とは、社会の要求が作り出した

               一人分のエゴのこと 》

            「素直なひねくれ者に生まれて」

 《 〈永遠〉とは「いつまでも続く」

           ということではありません

   〈永遠〉とは、この瞬間が

           全宇宙に拡がっていることです 》
             「永遠の生命をさしあげます」

 《 世の中が平和になったら

          人々に平和が訪れるのではない

   一人一人が平和になって

     はじめて、世の中に平和が訪れるのである 》
           「コーヒーは底から混ぜましょう」

 《 普通の側に身を置こうとする人は

   「自分のようなもの」を渡り歩く、迷子です 》
 「本当のマイノリティと、押し付けられる『いき辛さ』」

 《 何でも見せてみろ。何でも見てやろう。 》

            「生かされているというけれど」

 《 都合がいい時は、合理的

           不都合な時は、平気で不合理 》
            「合理的なバカにならない為に」

 《 完全な成功と、完全な敗北は

          人を同じところに連れて行く 》
              「チェットベイカーの絶望」

 《 理由を求めるから不幸せになる 》

 《 余計な理由は、クズかごへ! 》
              「理由・理由・理由・・・」

 《 誰にでも事情がある 》
                「誰にでも事情がある」

 《 思い通りになっても、思い通りになるだけです 》
            「ボブの絵画教室が好きだった」

 《 世界という「事情」の中で

         自分という「事情」が生きている 》

 《 「そういうことだよ。」と世界が言う

   「そういうことね。」とわたしが言う

          宇宙の中で、何かがほほ笑む 》
               「そういう事情なんです」

 《 “「他人に期待する」権利” は無い 》

 《 「期待」は「依存」に過ぎない 》
                 「期待に応えない!」

 《 足りないものは「満足」だけ 》
            「足りないものは『満足』だけ


 三回目の「まとめ」です。

 「特別電源所在県科学技術振興事業補助事業評価報告書」

という字面を見ると、やっぱり笑っちゃいますね。現代のバ

カらしさを象徴している様に思います。楽しいね!

 それにしても、《 足りないものは「満足」だけ 》は気

に入ってます。出来過ぎですね。

 わたしたちには、「今あるもの」以外は無いですからね。

しあわせでないとしたら、「満足」しないからとしか言いよ

うがありません。簡単と言えば、これほど簡単なこともない

わけですが・・・。この言葉に「満足」してもらえるでしょ

うか?

 私自身は、「満足したい」と思ってはいますが。



 
 

2017年10月21日土曜日

「殺す」とは? 捕鯨と精進料理。


 生き物は、日々他の生き物を殺しながら生きている。

 他の生き物を食べることで生きているという事に加え、活

動の過程で他の生き物を死なせることもある。

 歩いているだけで、アリを踏み殺すかも知れないし、草を

踏みつけて枯らしてしまうこともあるだろう。

 人間であればなおさらの事、地面を掘り返せば、地中の虫

が死ぬし、焚火に薪をくべればその中の虫が死ぬ。蚊取り線

香を焚いて蚊を殺し、家を建てる為に木を切り倒す。海を埋

め立ててそこに居る生き物を殺し、住処を奪う。


 そういう事を思うと、宗教的な理由でベジタリアンであっ

たり、精進料理を食べたり、というのは自己欺瞞だし自己満

足でしかないと思う。大豆だってネギだって生きているのだ

し、ご飯を炊く時に使う薪の中にだって、生き物は居る。

 動物質の物を食べないからといって、「命を取りません」

なんて言えないんです。

 血を見ることのインパクトの大きさから逃れ、自分が生き

ることは、他の生命の死の上に成り立っているという罪悪感

を、出来るだけ持たない為の「免罪符」としての、精進料理

やベジタリアンなのでしょう。

 「積極的に生き物を殺して食え」というのではないけれ

ど、精進料理を食べていることで、“殺すこと” から免れて

いると思うなら、そんなことは欺瞞です。

 わたしたちは、他の命を殺めずに生きて行けない。
 

 こういう事を考えていると、「食べる為に殺すのはいい

が、そうでないのはいけない」という発想がでてくるのです

が、「家具を作る為に木を伐るのはどうか?」ということも

ある。人にそう言うと「ムダにするのではないから良い」と

いう返事が返って来ることになる。

 確かにそうだろうし、それでいいと思う。けれど、だから

といって「わたしは(ムダに)殺していない」と話を終え

て、「メデタシメデタシ」という訳でもないだろう。


 捕鯨問題では相も変わらず、反捕鯨原理主義者がヒューマ

ニズムをクジラに適用して、一方的な言い分を喚き立てる。

ヨーロッパでは、ガチョウを脂肪肝にしたててフォアグラを

食うし、日本の「鯛の活け造り」はやはり残酷ではないか?

 食べることに、どこまで娯楽の要素を持ち込んでいいのか

は判然としない。人にとって、ある程度までは仕方のないこ

とだろう。しかし、どこかで線引きをすることが望ましい。

そうでなければ「娯楽」に引き回されて、大事なことを見失

うように思う。



 反捕鯨論者のやり玉に上げられる和歌山県の太地町には、

「くじら供養碑」があつて、毎年〈供養祭〉が行われる。

 日本ケンタッキーフライドチキンは、毎年〈チキン感謝

祭〉という、鶏に対する感謝と供養の行事を行っているが、

本国アメリカの関係者が初めて招かれたときには、「鶏の霊

を供養し、感謝する」という日本人の考えなど想像もつかな

くて、非常に驚いたという。


 殺さずには生きられない。

 けれど、殺すことが当然だとも思えない。

 どうしようもないので、供養する。

 供養して、祀り上げ(くじら様・鶏様)、自分を下の立場

に置くことで、お互いの存在のバランスを取ろうとする。


 書き出しから「殺す」という言葉を使って来たけれど、

「殺す」ことと「命を取る」ことは、イコールではない。

 それは、誰でも感じることだろうけれど、じゃぁその違い

は何だ?

 わたしたちは、生きている限り他の命を取ってしまう。

 そうして各々が自分の命を繋いでゆく。

 どの様な場合に、その行為が「殺す」とよばれるのだろう

か?
 

 私は、「殺す」とは “命を冒涜すること” だと思います。
 

 「じゃぁ、“冒涜” とは何だ?」と言われると、困ってし

まうのですが、“冒涜” とは、「存在を軽んじること・存在

の価値に想いを致さないこと」なんだろうと思います。

 もちろん、ここで言う「存在の価値」とは、「鶏は栄養が

あって、美味しい」といことではありません。「鶏は、鶏と

して、鶏であるべく存在していた」ということですね。

 「自分が他のものを利用して、独立して生きている」とい

う様な思いではなくて、「さまざまの命の関わり合いの中

で、自分というものが在る」という認識が無ければ、その生

き方は “他の命を冒涜するだろう” と。


 私の世代は、クジラをよく食べたので「クジラを食うな」

といわれると、私は反射的に対抗心を持ってしまいますが、

太地町のクジラ漁はともかく、遠洋での捕鯨は、日本の食品

ロスの規模を考えると止めておいた方がいいだろうとおもい

ますね。(“クジラの串かつ” って、最高に美味しいんだけ

どね)

 けども、反捕鯨論者の「クジラのような賢い生き物を殺す

なんて!」という言い草には、いつも腹が立ちます。

 「じゃぁ、お前らは “バカは殺していい” と思ってんだ

な?」と思うんです。

 「牛も豚も鶏も七面鳥もサーモンもピーマンもトマトもト

ウモロコシも、“バカ” で、ただの “モノ” に過ぎないと思っ

てるんだな?」と。

 自分が「人間の友達」と見做したものには、勝手な敬意を

持ち、それ以外は「利用するモノ」としか見ていない。


 日本人は、ものの命を大事にして来た。

 生き物どころか、針や筆まで供養する。

 クジラをダシにして、“自分のヒューマニティ” を主張し

たいだけの人間と、どっちが命を冒涜してるか?


 生きている限り、他の命を奪わざるを得ない。

 その事実を正面から受け止めながら、奪った命に頭を下げ

ながら生きて行く。

 それは、精神的に命を繋いで行くことだろう。
 


 お寺で、精進料理を食べるのは「不殺生戒」があるからだ

けど、それは「肉を食うな」というような薄っぺらなことで

はなくて、「命を娯楽に用いるな」「命を冒涜するな」とい

うことでしょう。

 肉を食べなくったって、ネギを粗末に扱えば、それは「破

戒」となる。

 「自分は、他の命を殺めないから、穢れないんだ」なんて

思うのなら、それは自己保身の為に植物を利用しているので

あって、米や野菜を冒涜している事になるだろう。


 命を冒涜しない。

 他の命も、自分の命も、何かの欲望の為に利用するべきで

はない。

 自身の幸福の為にも。








それはアナタですか?


 “お宝” って持ってますか?

 私は、その手の物にはぜんぜん縁が有りません。

 私の持っている物の中で一番高い物は、〈オベーション〉

というメーカーのギターです。十年ぐらい前に28万円で買

いました。

 私は車を持たないので、趣味の物が一番高いという事にな

るのですけど、このギターにしたって世界的に有名なメーカ

ーの物の中では、最も安い部類です。ですから、私の持ち物

には高価な物はありません。別に、禁欲しているのではなく

て、単純に、あまりお金に余裕が無いだけの事です。



 私は、ギターを四本持っていますが、その中で一番大事な

物は、実はこのギターではなくて、高校時代に手に入れた

〈 S・ヤイリ〉という日本のメーカーのギターで、当時の定

価で八万円の物です。(もしかすると、プレミアが付いて高

く売れるのかも知れません)

 少し塗装に痛みが来たりしてはいますが、結構いい音で鳴

ってくれるし、長年使って来て愛着があるので、こちらのギ

ターの方が大事です。

 大事ですが、このギターが無くなったら困るかというと、

まぁ、それならそれで仕方がない。残念でしょうが、それほ

ど苦にはならないでしょうね。



 自分の持ち物の中で、無くなったら困る物というのは、冷

蔵庫とか洗濯機とかぐらいで、他の物は「まぁ、無いなら無

いでいいか・・」程度ですね。生活必需品じゃない。結局、

オマケですから、無くっても死にやぁしない。

 そういう “物欲” みたいなものは、少ないようです。(で

も、こうしてブログをやってるから、今、PCが無くなると

ちょっと困るなぁ)


 生活必需品以外の物を、ひとまとめに「娯楽用品」と呼ん

じゃいますが(勉強に必要なものさえ含めて)、極端な話、

私の場合は道端の草や、雲やスズメを眺めたって楽しめます

から、「娯楽用品」はそれ程要らないんですね。

 今までに蓄えてきた、知識と観察力が財産になっていて、

私からすれば、人も含めた〈自然〉が、美術館であり、テー

マパークであり、ドラマであり、イベントなんです。



 雷が鳴って、稲妻がピカピカ光り出したりすると、花火大

会が始まったようなものです。ワクワクします。

 街中のガードレールの支柱の根元に、スミレが咲いてたり

すると、その可憐さと、しぶとさに目を奪われます。

 都会の真ん中でも、頭の上ではカラスとトビが空中戦を繰

り広げ、植え込みの陰をツグミが走り抜けたりしています。

 自然に目を向ければ、飽きる事などありません。



 とはいえ、人の作った物でも、「凄い!」と思う物はあり

ます。

 京都の「三年坂美術館」に行くと、明治時代の工芸品が展

示してあって、その精緻な作りと美しさに驚きます。作り手

の執念にも似た思いが伝わって来ます。  

 そういった、人間の限界に近づく様な取り組みを見ると、

人間の可能性に対する “畏怖” のようなものを感じて、感激

はしますね。でも、もしも私が「京薩摩」の茶碗を持ってい

て、うっかり落として割ってしまったとしても、落胆はする

でしょうが「壊れたものは仕方ないな」と、それで済ますで

しょうね。生活必需品じゃ無い。



 何も私は、「娯楽はいらない」とか、「遊ぶな」とか言い

たいわけではありません。

 古代の人が、洞窟の壁に絵を書いた様に、人間には「娯

楽・遊び」が必要です。ですが、現代はそれらがあまりにも

肥大し過ぎている。ここまで、娯楽・遊びにエネルギーを注

ぎ込むなんて、異常だと言い切って良いと思っています。病

気です。

 「何かの代償行為なんだろうなぁ。遊ぶより、カウンセリ

ングにでも行った方がいいんじゃない?」

 って、思います。



 「あれがしたい」「これがしたい」と欲求を募らせても際

限が無いし、それが出来ても、嬉しいのはほんのひと時だけ

です。

 周りにばかり目を配って、「何か良い物は無いか?」と四

六時中 “欲目” でものを見てる。そうやってものを見る時

は、自分の見ようとしている狭い範囲のものしか目に入りま

せんから、世界は狭くなります。その対象が “人為” のもの

であれば、なおさらです。



 その上に今の日本人は特に、“人から教えられた楽しみ” 

や、“用意された遊び” じゃないと「遊べない」、という人

が多い様に思う。ディズニーランドやUSJがあんなに流行

るし、小さな町や村の、「こんなに、しょぼいのに?」とい

うイベントでも成立してしまう。ああいうのを見ていると、

「自分が、ホントは何を喜ぶのか、知らないんじゃない

の?」と疑ってしまいます  というか、そうなんでしょ

う。

 “自分に親しむ” ということが無いのでしょうね。



 でもまぁ、十代・二十代の若い人はエネルギーを持て余し

ていて、とにかく刺激が欲しいし動きたいのが普通ですか

ら、ちょっとやり過ぎで、無神経でも仕方ないですね。それ

に、人が自分の好みを本当に分かって来るのは、27~29歳

ぐらいですからね。

 しかし30代になったら、〈自分〉というものに親しむ時

間を持つようにした方がいいでしょうね。

 学校を出て、訳も分からないまま社会人になって、準備万

端で待ち構えている世の中で、型通りの働き方や遊び方を身

に付けさせられて、自分を振り返る暇もなく(暇を作ら

ず)、十年程が過ぎる。

 そのあたりで一度立ち止まって、自分を顧みてみないと、

〈自分〉じゃない “自分” ばかりが、大きくなってしまいか

ねない。


 年がいって、「子供がいつまでも結婚しないので悩んで

る」とか、「定年になって、何をしていいか分からない」と

か。高齢になって「寂しい」とか、「若い奴が気に喰わな

い」とか言う人は、自分を顧みるという作業を全然してこな

かったんでしょうね。だから、〈自分〉じゃない “自分” ば

かりが栄養を吸収してしまって、〈自分〉はやせ細ってしま

っているんでしょう。他人の口車に乗って、〈自分〉が本来

居る場所じゃない所で遊び過ぎたのです(働くことも含め

て)。


 「インスタ映え」なんて言って、遊びに行った先で “どう

でもいい写真” を撮ってネットに上げる。

 女子高生ぐらいならそれでいいけど、三十ぐらいになって

ああいうのをやってるのを見ると、「そんなに凡庸で、この

先大丈夫なの?」と、心配してしまいます。(余計なお世話

ですが)

 「“カフェの・カワイイ・スィーツ” を撮ってる合間に、

自分の姿だけを自撮りして、じっくりと舐める様に眺めてみ

たら?」と提案したいところです。

 「それは、アナタですか?」って。
 

 三十歳の人間に、老後の話をするのもバカだけど、「老後

の心配」って、ほんとはそういう事の方が大事なんじゃない

かな? 

 “〈自分〉を見失わない” ということが。


 世の中がバラ撒いてる事って、結局はどこかの誰かの作り

物で、底の浅~い物でしかない。だから、流行り廃りがあっ

て、4~5年したら「ダっサーイ!」て言われてしまう。

 そんな浅いものばかりを追い回していたら、どうなる

か・・・・。


 青春は戻らないよ。(歯が浮くなぁ~)



 ( 書き始める前に予定していた話とは、全然違う話に
  
   なってしまったのでした。
  
   何やら、しょぼい自慢も入っていて、いやらしいけ

   ど、まあこれはこれでイイか )