2017年10月27日金曜日

「理想」という狂気


 《 今の世の中を一言で言うと「小賢しい」に尽きる 》



 誰もが、わけの分かったような顔をしてモノを言う。

 誰もが、それが正しいような振りをする。

 誰もが、じぶんを棚に上げて他人を裁く。

 一体誰が「正しいこと」を知っているというのだろう。

 一体誰が「良いこと」を知っているというのだろう。



 すべての事を理性的に判断し、すべての事を合理的にコン

トロールし、すべての事を理想への手段にする。

 アタマで考えたことが「正しい」。

 アタマで考えた事に従えば良い。

 そういう傾向が広く支配している現代。

 アタマで考えた「正しさ」「良さ」を担保するのは、当の

アタマでしかないし、世界は人間のアタマに合わせて出来て

るのではない。

 小さな違和感や小さな喜び、世の中に顧みられない所にあ

る美しさ、醜悪さ、そういった言葉に出来ない諸々の事を、

無い物として世界が進んで行く。アタマの理想を追い求め

て。アタマにとって都合の良い世界を目指して。



 このことは、社会のレベルでも、個人のレベルでも同じだ

し、物質に対してでも精神に対してでも同じ。置き去りにさ

れた物は、消え去ってしまう訳ではない。それは存在し続

け、いずれ関わらざるを得ない時がやって来る。置き去りに

した分だけ面倒にって。


 現代は「アタマの正義」だけが幅を利かす時代。

 (人間に語れるのは「アタマの正義」だけですが・・。

「自然の正義」と「身体の正義」は指し示すことと、感じる

ことが出来るだけ)

 無視され、置き去られたものが声なき悲鳴を上げる。

 それを切り捨てて、そのまま片が付けられると思うのは大

間違いだ。わたしたちの世界は閉じているのだから。


 閉ざされた部屋の中で毒蛇を殺す。

 それで、危険は去るだろう。しかし、その死骸はやがて腐

臭を放ち始める。問題が姿を変えるだけ。
 

 限られた世界で得た小さな力で、世界さえも動かせるよう

な錯覚を覚え、図に乗ってしまう人間。

 「アタマが悪いね」というしかない。


 理想を掲げることが、良いことの様に言うが、その「理

想」が何処から生まれて来たものか?

 例えば、「人の命は地球より重い」。

 その心情は分かる。人の命は大切だ。

 しかし、そうして人の命を大切にして来た結果、人口は爆

発的に増え続けて、世界中で生存競争が激化する。

 人の命を大切にした結果が、人と人との殺し合いの原因に

なるなんて、なんとも皮肉な話だ(直接的に殺さなくても、

金や食料を融通しない、水を他所へ回さないなどして間接的

に人を殺している)。けれども、やっぱり人の命は大切だ。

どうしたらいい?


 一体何をしてる?

 人間は幸福になったか?

 他の生き物は幸福になったか?

 何を得られたというのか? 
 

 やり直しが利くかどうかは知らない。

 けれど、考え直しはするべきではないか?

 「直す」と言っても、「考え」を捨てる事になるのだけれ

ど・・・。


 “分かった事にしてしまう” 

 その小賢しさが、大きな問題を生む。

 “分からない事” を、分からないまま、ずるずると、うじ

うじと、捨てずに引き摺って行く。

 その “重荷” の中にこそ、血の通った〈人間の生〉がある

のではないか? 世界の本質があるのではないか?


 「理」で「想う」ことは、「理」の範囲に止まる。

 その「理」が、宇宙や生命の「真理」なら良いが、それは

人間の「アタマ」が理解しうる範疇には無い。

 人の「理想」は、人の身の丈の範囲に止めておくべきだろ

う。図に乗ってはいけない。




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