2017年10月20日金曜日

雑草の立場


 今日、公園で足元の草を見ていて思ったんですが、「雑草

魂」とか言う人が時々いますね。

 「踏まれても、切られても、負けずにまた伸びて来る雑草

の強さに学ぶ」なんて。


 確かに、雑草は「踏まれても、切られても」また伸びて来

ますが、引き抜かれたり、根ごとひっくり返されたりしたら

枯れてしまいます。「踏まれても、切られてもまた伸びて来

る」のは、特別に強いからではなくて、その場所の環境に合

っているからです。仮に、優しく植えられて大切に面倒を見

て貰えても、環境が合っていなければ枯れてしまいます。


 「また、ひねくれたことを言い出したね」

 と、思われるでしょうが、私は植物が好きなものですか

ら、「雑草」という言葉を安易に使われるのが気に入らない

いんです。


 あなたの家のまわりで、アスファルトの隙間や街路樹の根

元や公園の芝生の中に生えている草にも、名前が付けられて

います。

 エノコログサ・ヒメムカシヨモギ・アメリカフウロ・ヒメ

ウズ・コニシキソウ・イヌタデ・ツタバウンラン・マツバウ

ンラン・ブタナ・フラサバソウ・トゲジシャ・・・・・・。

 何百種類もあるのですが、ほとんどの人は興味も無く、目

も呉れません。そんな物に興味を持つ事など、想像も出来な

いのでしょう。


 昭和天皇は「雑草という草はありません」と仰ったそうで

すが、自然科学者らしい言葉ですね。生命に優劣や用・不用

の区別を付けない。雑草という草はありません。

 「雑草」という考えは、食用や観賞用の植物に価値を置い

た時に、自動的に発生します。つまり、「役立たず」という

ことです。


 で、「雑草魂」という言葉ですが、「役に立たない様だけ

ど、くじけずに何度も何度も立ち上がって来る強さを持て

ば、大きな花を咲かす事が出来る。実を付ける事が出来る」

ということなんでしょうが、こういうことを言う人がイメー

ジしている「雑草」は、大抵小さな花しか咲かせませんし、

実を付けてもまず役に立ちません。


 揚げ足取りみたいですが、まるで「雑草がバラの花を咲か

せる」様な、「雑草がメロンを実らせる」みたいな、そんな

意味付けが不快なんです。

 バラが咲いたのなら元々バラだったんだし、メロンが実っ

たのなら元々メロンだったんでしょ? こういう人は、エノ

コログサ  ネコジャラシって言われるやつです  が、エ

ノコログサの花を咲かせて、エノコログサの実を付けても、

「なんだ?」と思うだけの様な気がするし、それこそ見向き

もしないでしょう。


 人の世の中も、エノコログサの様に、アメリカフウロの

様に、生まれてから死ぬまで全然目立たない沢山の人によっ

て、形作られている。

 「それでも花なの?」と思われてしまう様な花を、一途に

咲かせている人もいる。誰もが、自分の命を精一杯生きてい

る。どんな花を咲かせるか? どんな実を付けるか? そんな

事では無い。


 「雑草魂」という言葉に、こんないちゃもんを付けるのは

ちょっとやり過ぎかも知れない。けれど、「雑草」を引っこ

抜く様な力や考えが、人の世の中にはある。一人の人間を

「用・不用」で判断する目がある。「役に立つか、役に立た

ないか」で、一つの人格まで否定しようとする働きがある。

 「雑草魂」という言葉には、使う人の思いとは裏腹に、そ

んな “悪気の無い、無意識の差別” が潜んでいる気がする。


 エノコログサがエノコログサの花を咲かす。

 それで当然。それで完全。

 バラがバラの花を咲かす。

 それで当然。それが完全。

 どこかの誰かが、「キレイ」と言おうが「地味だねぇ」と

言おうが、エノコログサにもバラにも関係ない。

 エノコログサはエノコログサの命。

 バラはバラの命。


 キレイな花は「キレイ」。そう感じるのは自然だし、花壇

や畑に、不要な草が生えて来るのも困る。人の暮らしの中に

そういう思いがあるのも、間違いじゃない。でも、それは絶

対の事では無い。物事の一面だという気付きが、どんな時に

もあって欲しい。


 「雑草」は、強いから何度でも伸びて来るのではない。

 そこが、自分の生きられる場所だから、ただただ生き続け

ているだけだ。

 「雑草だから」と何も考えずに引っこ抜く・・。その機械

的反応は、人に対しても向けられるものだと思う。


 「雑草」は、自分を与えられて、自分の分を生き、自分の

すべきことをする。とにかく、生きてゆく。

 その過程で、人が見てもすぐには気付かない様な、何かの

務めをきっと果たしている筈だ。


 バラは美しい。

 エノコログサだって美しい。

 とらわれた見方をしなければ、それぞれが、ただひたすら

生きている姿に出会える。








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