2017年10月21日土曜日

それはアナタですか?


 “お宝” って持ってますか?

 私は、その手の物にはぜんぜん縁が有りません。

 私の持っている物の中で一番高い物は、〈オベーション〉

というメーカーのギターです。十年ぐらい前に28万円で買

いました。

 私は車を持たないので、趣味の物が一番高いという事にな

るのですけど、このギターにしたって世界的に有名なメーカ

ーの物の中では、最も安い部類です。ですから、私の持ち物

には高価な物はありません。別に、禁欲しているのではなく

て、単純に、あまりお金に余裕が無いだけの事です。



 私は、ギターを四本持っていますが、その中で一番大事な

物は、実はこのギターではなくて、高校時代に手に入れた

〈 S・ヤイリ〉という日本のメーカーのギターで、当時の定

価で八万円の物です。(もしかすると、プレミアが付いて高

く売れるのかも知れません)

 少し塗装に痛みが来たりしてはいますが、結構いい音で鳴

ってくれるし、長年使って来て愛着があるので、こちらのギ

ターの方が大事です。

 大事ですが、このギターが無くなったら困るかというと、

まぁ、それならそれで仕方がない。残念でしょうが、それほ

ど苦にはならないでしょうね。



 自分の持ち物の中で、無くなったら困る物というのは、冷

蔵庫とか洗濯機とかぐらいで、他の物は「まぁ、無いなら無

いでいいか・・」程度ですね。生活必需品じゃない。結局、

オマケですから、無くっても死にやぁしない。

 そういう “物欲” みたいなものは、少ないようです。(で

も、こうしてブログをやってるから、今、PCが無くなると

ちょっと困るなぁ)


 生活必需品以外の物を、ひとまとめに「娯楽用品」と呼ん

じゃいますが(勉強に必要なものさえ含めて)、極端な話、

私の場合は道端の草や、雲やスズメを眺めたって楽しめます

から、「娯楽用品」はそれ程要らないんですね。

 今までに蓄えてきた、知識と観察力が財産になっていて、

私からすれば、人も含めた〈自然〉が、美術館であり、テー

マパークであり、ドラマであり、イベントなんです。



 雷が鳴って、稲妻がピカピカ光り出したりすると、花火大

会が始まったようなものです。ワクワクします。

 街中のガードレールの支柱の根元に、スミレが咲いてたり

すると、その可憐さと、しぶとさに目を奪われます。

 都会の真ん中でも、頭の上ではカラスとトビが空中戦を繰

り広げ、植え込みの陰をツグミが走り抜けたりしています。

 自然に目を向ければ、飽きる事などありません。



 とはいえ、人の作った物でも、「凄い!」と思う物はあり

ます。

 京都の「三年坂美術館」に行くと、明治時代の工芸品が展

示してあって、その精緻な作りと美しさに驚きます。作り手

の執念にも似た思いが伝わって来ます。  

 そういった、人間の限界に近づく様な取り組みを見ると、

人間の可能性に対する “畏怖” のようなものを感じて、感激

はしますね。でも、もしも私が「京薩摩」の茶碗を持ってい

て、うっかり落として割ってしまったとしても、落胆はする

でしょうが「壊れたものは仕方ないな」と、それで済ますで

しょうね。生活必需品じゃ無い。



 何も私は、「娯楽はいらない」とか、「遊ぶな」とか言い

たいわけではありません。

 古代の人が、洞窟の壁に絵を書いた様に、人間には「娯

楽・遊び」が必要です。ですが、現代はそれらがあまりにも

肥大し過ぎている。ここまで、娯楽・遊びにエネルギーを注

ぎ込むなんて、異常だと言い切って良いと思っています。病

気です。

 「何かの代償行為なんだろうなぁ。遊ぶより、カウンセリ

ングにでも行った方がいいんじゃない?」

 って、思います。



 「あれがしたい」「これがしたい」と欲求を募らせても際

限が無いし、それが出来ても、嬉しいのはほんのひと時だけ

です。

 周りにばかり目を配って、「何か良い物は無いか?」と四

六時中 “欲目” でものを見てる。そうやってものを見る時

は、自分の見ようとしている狭い範囲のものしか目に入りま

せんから、世界は狭くなります。その対象が “人為” のもの

であれば、なおさらです。



 その上に今の日本人は特に、“人から教えられた楽しみ” 

や、“用意された遊び” じゃないと「遊べない」、という人

が多い様に思う。ディズニーランドやUSJがあんなに流行

るし、小さな町や村の、「こんなに、しょぼいのに?」とい

うイベントでも成立してしまう。ああいうのを見ていると、

「自分が、ホントは何を喜ぶのか、知らないんじゃない

の?」と疑ってしまいます  というか、そうなんでしょ

う。

 “自分に親しむ” ということが無いのでしょうね。



 でもまぁ、十代・二十代の若い人はエネルギーを持て余し

ていて、とにかく刺激が欲しいし動きたいのが普通ですか

ら、ちょっとやり過ぎで、無神経でも仕方ないですね。それ

に、人が自分の好みを本当に分かって来るのは、27~29歳

ぐらいですからね。

 しかし30代になったら、〈自分〉というものに親しむ時

間を持つようにした方がいいでしょうね。

 学校を出て、訳も分からないまま社会人になって、準備万

端で待ち構えている世の中で、型通りの働き方や遊び方を身

に付けさせられて、自分を振り返る暇もなく(暇を作ら

ず)、十年程が過ぎる。

 そのあたりで一度立ち止まって、自分を顧みてみないと、

〈自分〉じゃない “自分” ばかりが、大きくなってしまいか

ねない。


 年がいって、「子供がいつまでも結婚しないので悩んで

る」とか、「定年になって、何をしていいか分からない」と

か。高齢になって「寂しい」とか、「若い奴が気に喰わな

い」とか言う人は、自分を顧みるという作業を全然してこな

かったんでしょうね。だから、〈自分〉じゃない “自分” ば

かりが栄養を吸収してしまって、〈自分〉はやせ細ってしま

っているんでしょう。他人の口車に乗って、〈自分〉が本来

居る場所じゃない所で遊び過ぎたのです(働くことも含め

て)。


 「インスタ映え」なんて言って、遊びに行った先で “どう

でもいい写真” を撮ってネットに上げる。

 女子高生ぐらいならそれでいいけど、三十ぐらいになって

ああいうのをやってるのを見ると、「そんなに凡庸で、この

先大丈夫なの?」と、心配してしまいます。(余計なお世話

ですが)

 「“カフェの・カワイイ・スィーツ” を撮ってる合間に、

自分の姿だけを自撮りして、じっくりと舐める様に眺めてみ

たら?」と提案したいところです。

 「それは、アナタですか?」って。
 

 三十歳の人間に、老後の話をするのもバカだけど、「老後

の心配」って、ほんとはそういう事の方が大事なんじゃない

かな? 

 “〈自分〉を見失わない” ということが。


 世の中がバラ撒いてる事って、結局はどこかの誰かの作り

物で、底の浅~い物でしかない。だから、流行り廃りがあっ

て、4~5年したら「ダっサーイ!」て言われてしまう。

 そんな浅いものばかりを追い回していたら、どうなる

か・・・・。


 青春は戻らないよ。(歯が浮くなぁ~)



 ( 書き始める前に予定していた話とは、全然違う話に
  
   なってしまったのでした。
  
   何やら、しょぼい自慢も入っていて、いやらしいけ

   ど、まあこれはこれでイイか )

 
 
 

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