2017年10月3日火曜日

合理的なバカにならない為に


 人は合理的であろうと望むものですが、悲しいかなそれは

叶いません。(「合理的であろう」なんて、思いもしない人

もいますね)

 「ある文脈の中」や「一定の時間の中」でなら、合理的に

考え、合理的な行動を執ることもできるでしょうが、それは

長くは続きません。わたしたちの存在自体が不合理なんです

から。
 

 《 理屈と膏薬は何処にでも付く 》という言葉がありま

す。(若い人は「膏薬」が何か分からないでしょうから、説

明しておきますね。「膏薬」とは、「湿布薬」のことです。

私の親より上の世代の言葉で、昭和40年代ぐらいまで使

れていた言葉です)

 「理屈はどこにでも付けられる」ということを、からかっ

た言葉ですね。

 〈口角泡を飛ばして〉、自分の方が筋が通っているとか、

理屈が合っているとか言い立てる人間を、揶揄しているので

す。

 何故、「揶揄する」かというと、理屈を言い立てて自分の

正当性を主張する人間は “胡散臭い” からです。


 人が自分の正当性を言い立てる場合には、二つの理由が

えられます。

 一つには、「周りが納得していない」。

 もう一つは、「自分で、自分の正当性に確信が無い」。


 一つ目は、当然ですね。周りが納得しているのなら、ギャ

ーギャー言う必要なんて無い。

 二つ目は  心理学者に訊いたわけではありませんが  

自分に自信が無いと、人は力尽くで主導権を獲ろうとするの

で、声が大きく、饒舌になるからです。(私は、この考えに

確信があるので、これ以上説明しません)

 こういった人は理屈を言い立てていながら、理屈の正しさ

ではなく、他者の承認を得ることが目的なのです。

 「理屈」を認めて貰いたいのではなく、「自分」を認めて

貰いたいのですが、建前では「理屈」の正しさを主張してい

る。その “すり替え” が胡散臭いんですね。
 

  余談ですが、“胡散臭い” っていい言葉ですねぇ。私、

大好きです。この言葉の響き・フィーリングと、その意味す

るところの絶妙なフィット感!この言葉が無かったら、この

感じをどう表現するのか・・。“インチキ臭い” というのも

あるけど、少し違うし・・。でも、どちらも “臭い” ですか

ら、人の「ズル」は〈嗅ぎ分けるもの〉なんですね。  


 その “胡散臭い” 人間が、自説に都合の良い「理屈」を付

ける様に、「理屈」はどの様にでも、どこにでも付けられ

る。

 来る日も来る日も、世界中で人々が議論や口論をしていま

すが、皆、「理屈が通るから認める」のではなくて、「認め

たいから理屈を付ける」というのが実情のようです。


 「そんなことを言うのなら、その根拠を示せ」


 と、言われたら困ってしまいますけどね。“「認めたいか

ら理屈を付ける」説” を認めさせる「理屈」を付けるのも、

おかしな話ですから。

 根拠は無いけど、私はそう思います。その方が、皆がしょ

っちゅうケンカしている事に説明が付くからです。
 

 結構な肩書で、論理的に物を考えていそうな人たちが、激

しい口論をしていて、傍から見ると一方の言い分に明らかに

理があるのに、話が収まらない。そんな場面をよく見ます

が、ああいうのを見ると、「理屈」以前に「自分の好み」で

言っているとしか思えませんね。

 当人たちは頭の良い人で、他人の話は筋道立てて解説した

りするのに、自分が当事者になると理性を失う。

 人が合理的でいられるのは、その「理屈」が自分に害を及

ぼさない場合ですね。

 また、人が合理的であろうとするのは、その「理屈」が自

分に快楽を与えてくれそうな時ですね。


 《 都合がいい時は「合理的」

   不都合な時は、平気で「不合理」 》


 生きるのって、面倒だなぁ。


 人が、合理的に考え、合理性に基づいて生きられる存在で

あれば、世の中は平和になるようにも思うのですが、事はそ

う簡単でもないですね。


 人が、合理性だけに基づいて行動しようとしても、「生き

ていること」自体が合理性を越えた事ですから、「生きてい

ること」に考えが及ぶと、合理性は沈黙せざるを得ません。

 本質的に〈生〉は不合理です。

 それを、合理性だけで理解したり、コントロールしたりし

ようとするのは、そもそも無理なのです。


 わたしたちは、「合理性」の適用範囲を制限するべきで

す。「合理性」で語れない所にまで理屈を持ち込むので、話

がムチャクチャになってしまう。「非合理」のゾーンは「感

性」で受け止め、「情緒」に語らせるしかないでしょう。


 「感性」の世界である部分に、「理屈」を持ち込むとはた

迷惑な信念や宗教が生まれます。そこは、そもそも「合理

性」の適用出来ない所なので、“非合理な理屈” で信念や宗

教を合理化することが出来ます。原理主義の誕生です。

 外から見ればどれほど非合理でも、「合理」と「非合理」

の緩衝地帯で知らぬ顔をしていられます。手の打ちようがあ

りません。


 信念や宗教を持つ人は、「理屈」ではなく、「感性」が主

体であることをハッキリと自覚し、「合理的」に正当性を訴

えたりする事には、慎重であるべきでしょうし、「合理性」

の世界からは、信念や宗教を「理屈」で批判したりすべ

きではないでしょう。どちらも問題を起こすだけです。

 「非合理」の世界に重きを置く人も、「合理性」の世界に

重きを置く人も、お互いの在り方に理解を示すべきでしょう

ね。どちらも、確かに存在はしていますから。


 ですが、現代は「合理性」の側に片寄り過ぎていると思い

ます。信仰を理屈で支えたりするぐらいですからね。「アタ

マ」優先です。

 「生きている」という、わたしたちの根本が「非合理」な

のに、世の中の「非合理」を嗤う。それは、「生きている」

という事を嗤うことにならないか? 


 「合理性」とは、“世界の見方” でしかありません。

 「合理的に説明できる」と言って、それで何か役に立つ事

が出来たとしても、「非合理」の中の問題には無力です。


 「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きなければならないの

か?」


 そんな問いに「合理性」は答えられません。

 「合理性」は、社会の色々な問題に、一応の解決を与える

事が出来るけれど、一番肝心な事には手が届きません。足場

にはなるけれど。(なぜ「一応の解決」かと言うと、どんな

問題も、いずれは不合理な所へ入り込まざるを得ないからで

す)


 「非合理を大事にする」と言うと、なんだか怪しい事にな

りそうな気がしますが、わたしたちが一番大事にしているの

は、〈命〉という「非合理」なものでしょう?

 「幽霊」とか「超能力」とか、“存在する” とか “存在し

ない” とか言い合っている様なものはともかく、〈命〉が存

在しているのは確かなのだから、そういうものには「合理

性」では無い〈理解〉が必要でしょう。


 「合理性」から離れて、“感じること” を大切にしなけれ

ば、わたしたちは大事なものを失うでしょうね。





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