2017年6月30日金曜日

みんなちがって みんないい ?

 「みんなちがって みんないい」というのは、金子みすず

さんの有名な詩の一節ですよね。

 ひとつひとつの命が、比較を越えたところにある、絶対の

存在だということで、私もそれに対して異論はありません。

まど・みちおさんの詩も、同じ様な思いが貫かれています。

 ですが、ほんとに「みんなちがって みんないい」のか?

 この言葉を初めて聞いた時から、ほんのわずかな違和感が

どうしてもぬぐえずに来ました。今日は、それを考えてみよ

うと思います。


 私が引っかかってしまうのは、「みんないい」という部分

です。

 “存在” として「みんなちがって みんないい」は、OKな

んです。しかし、人間として「みんな」に対した時に、果た

して「みんないい」という思いに落ち着けるのか?


 人間の中には、冷酷な者や狡猾な者や、邪悪としか呼べな

い様な者が実際にいます。そのような者に、自分の尊厳を損

なわれる立場に陥ってしまった時、「みんないい」という自

分を持ち続けられるのか?

 人間以外でも、怖い病気を運ぶ生き物や、危険な生き物に

対して、「みんないい」と肯定できるのか?

 そこのところの消息を明らかにしなければ、「みんなちが

って みんないい」と、私は言う事ができない。


 蚊が飛んできたら、「ぱちん!」と叩き潰してしまいま

す。
 
 育てている野菜を食い荒らす虫を見つけたら、つまみ獲っ

て殺してしまいます。

 さらに極端な話、もしも、私が誰かに殺されそうになった

としたら?

 もしも、私の家族が誰かに殺されそうになったとしたら?

 「みんないい」などと思っている場合じゃない。

 自分や家族を守る為に、相手を殺すしか手段がないのな

ら、私は殺すでしょう。


 私は〈暴力〉を否定します。

 自分が〈暴力〉を振るうこと、自分に〈暴力〉が振るわれ

ることを否定します。

 それが、「肉体的な」暴力でも、「精神的な」暴力であっ

ても同じです。〈暴力〉は阻止します。その為の方法が、相

手を殺すしか残っていないのなら、相手を殺します。それ

は、〈暴力〉を阻止する手段であって、〈暴力〉では無いと

思うからです・・。本当にそれしか残っていないのであれ

ば・・・。


 その時、私が否定するのは〈暴力〉です。

 私を殺そうとする「相手」ではありません。〈暴力〉という

「行為」です。

 〈暴力〉という「行為」を、阻止しょうとした結果、相手

が死ぬことになるというだけです。相手を否定したわけでは

ありません。相手に〈暴力〉を振るうわけではありません。

 詭弁でしょうか?
 

 しかし、この様に考えれば、例え自分の尊厳が損なわれよ

うとする時にも、「みんないい」が可能です。

 否定されるのは、「行為」か「その行為を生む思考」であ

って、その「存在自体」ではないからです。
 

 「罪を憎んで、人を憎まず」と言いますね。

 「罪を犯させないために、罪を償わせるために、相手を殺

すしかない」。でも、相手の「存在自体」は憎まない。否定

ない。それは、可能だと思います。(私が実際にそう出来

かどうかは、別にして・・)


 「罪を憎んで、人を憎まず」というのは、「なんでもかん

でも人を許せ。無罪放免にしろ」ということでは無いですよ

ね。「罪」は「罪」ですから。(単純に「法律上の罪」とい

う事ではないですよ)

 「罪を償わせる」為には、その「罪」を犯した「存在自

体」に働きかけざるを得ません。

 その「存在自体」は許せても、そうするしかありません。

その為、見かけ上は「人を罰する」「人の行為を制限する」

ことになります。でも、その「存在自体」は許します。

 『みんないい』です。


 なぜ、罪を犯しても「存在自体」は許すのか?「いい」の

か?

 《 誰も、罪を犯すつもりで

           生まれて来るわけじゃない 》

と思うからです。


 「よーし!今度生まれたら、空き巣に入って、金や宝石を

盗みまくるぞー!」とか、「生まれたら、テロリストか連続

殺人犯になって、何十人も殺すぞ!」とか思って生まれて来

る人はいません。いると思いますか? そんな運命を望む人

間がいると思いますか? いるはずありませんよ。 


 生まれて来てみたら、自分の持って生まれた資質と、自分

を取り巻く状況によって、止むに止まれず罪を犯してしまう

のです。罪を犯したら、償うしか仕方がありませんが、「存

在自体」に罪は無いのです。罪を犯さない様にすることは出

来ないのです。


 親鸞聖人が、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人を

や」と説いたのは、「“罪を犯す定めに生まれた人間の(魂

の)苦しみ” を阿弥陀仏が知らぬわけがない。だから、悪人

こそ救うのだ」と確信していたからでしょう。

 「みんなちがって、みんないい」

 親鸞聖人もそう言うでしょう。


 金子みすずさんのピュアな言葉や、まど・みちおさんのあ

たたかいマナザシから始まった話が、とんでもなく重たい話

になってしまいました。でもこれで、私も「みんなちがって

みんないい」と言う事が出来ます。でも、厳密には少し表現

を変えたいのです。

 「みんなちがって みんな・そのものはいい」

 これじゃぁ、詩にはなりませんけどね。


 《 人も、どんな生き物も、木も、草も、石ころも、

   雨粒も、なにもかも、みんなそれぞれ、そこに、

   そのままに、ある。

   ただ、それらの〈動き〉だけが、人をして

   苦悩させ、歓喜させ、狂気させ、嫌悪させ・・・

   絶望させる・・・。

   それは、人が離れるべきものであると同時に、

   静かに抱き締められることを待っているのだろう 》


 苦も、楽も、怒りも、喜びも、悲しみも、恐れも、「自

分」という “あるがまま” の中に、抱き止めて、溶かし去っ

てしまえたら・・・・。

 (最後は、けっこう “詩” になっちゃいましたね)




2017年6月28日水曜日

まど・みちおさん と げんばく



 
「ときどき、山を歩きます」という話を前回書きました


が、以前はテントやシュラフを担いで、キャンプにもよく出

かけました。

 荷物を全部自分で担ぐ、という事をやっていると、ムダな

物は持って行く気にはなれません。「ムダな物は、ムダにエ

ネルギーを消費するだけだ」ということが、文字通り骨身に

滲みるからです。ですから、「出来るだけ軽く、かつ快適

に、けれど最低限の楽しみは残して」という考え方に、自然

と成ります。今どきの言い方をすれば、「断捨離」ですね。


 「自分の力だけで、自分に必要な物を運んで行く」

 例え2~3日分の物でも、衣・食・住を自分で担ぐのです

から、そういう行為は、「等身大の自分」というものに気付

かせてくれます。

 自分に出来ることは、どの程度か?

 自分に本当に必要な物は何か?


 そういう経験を何度も繰り返していると、「一日を気分良

く暮らす為に、大した物は必要じゃない」ということが分か

ってきます。ほんとに良い経験でした。


 何も「“禁欲主義” に身を投じる」とか、「清貧」とかい

ったことではなくて、「本来的に、大した物は要らないん

だ」ということが分かるんですね。(それで仙人の様に暮ら

せるわけではないんですけどね)

 そうした事を続けているうちに、「物を持つことは

〈悪〉」みたいな考えになっていたんですけど、ある時、詩

人の まど・みちお さんのことを知って、「いわずにおれな

い」(集英社 be文庫)という本を買ったんです。その中の

「ものたちと」という詩の中に、こういう言葉がありまし

た。



 たとえすべてのひとから みはなされた

 ひとがいても そのひとに

 
 こころやさしい ぬのきれが一まい

 よりそっていないとは しんじにくい





 これを読んだ瞬間、私はしばらく固まってしまいました。

 「ほんとだよ・・、そうだよ・・・」と思って。
 

 人間の “心” や “身体” の事ばかり考える方に偏って、

「“物” は必要悪」といった 具合に捉えていたのですが、自

分の浅はかさを識らされたのでした。


 “物” が無ければ人は生きて行けない。「石器時代」でさ

え、“石器” を使っていたわけですから・・・。

 “物” 無しで、人が幸福を得ることができるか?

 ムリでしょうね。


 縄文人が、「火焔型土器」や「土偶」を作った時、そこに

は人間だけが得ることの出来る、“創造の喜び” があったで

しょう。そうでなければ、あんな余計な装飾を施しません。

 《過剰は悪》と書いたりしていますが、「火焔型土器」の

過剰は決して〈悪〉ではない。“人間であることの喜び”でし

ょう。


 人は、自分がクリエイティブであることに、喜びを感じる

と思います。何かを作り出せることに喜びを感じます。

 それは、芸術作品や音楽や文学などだけではなく、DIYや

日常の料理や、物作りの仕事でも感じられます。さらに、ク

リエイティブとは無縁に思われる、掃除などでも感じられま

す。

 「“掃除” がクリエイティブ?」

 そう思われるかも知れませんね。

 でも、“掃除” もクリエイティブです。なぜなら、私は

 《 クリエイティブとは、

   美しい状態を作り出せることである 》

 と定義しているからです。


 どんなに凄い物を作り出したとしても、それが「美しい状

態」を作り出せなければ、クリエイティブではありません。

 何を以て ”美しい” とするかは決められませんが、「原

爆」を “美しい” とする人は居ないでしょう。もし居れ

ば、“狂人” とされても仕方がないですね。「原爆」は醜

悪で、クリエイティブの対極にある物です。(しかし、私

は原爆の「キノコ雲」や巨大な「火球」の映像には、美しさ

を感じてしまいます。そこに、自然法則が強烈に発現してい

るからです)



 何故「原爆」は ”醜悪” で “クリエイティブの対極” なん

でしょうか?

 「とてつもない恐怖」であるから、ということは間違いな

いですが、もうひとつには人間の「等身大の感覚」から遥か

にかけ離れているからです。「見えない」「感じられない」

領域にある物だからです。

 “物” は生身の人間にとっては、“過剰” ですが、それが

「等身大」(個人が自分の力で作り出せるレベル)の範囲で

れば、人間と共にあっても良い物なのでしょう。

 それを越えれば越えるほど、“物” は人から離れ、離れる

ほどに “不可解”な “不気味”な、 時として “醜悪“な、そし

て最後には “恐ろしい”物になる。

 「原爆」を〈悪〉としても、まず批判を受けないでしょう

が(「まず」ですが)、「スーパーコンピューター」はどう

でしょう? テクノロジーの最先端ですが〈悪〉でしょう

か? 異論がでるでしょうね。でも、普通のひとにとっては

(もしかすると専門家にとっても・・)、やはり “不可解” 

で “得体の知れない” 物です。人間が制御し切れるのか?


 人間の歴史の結果として、今の高度なテクノロジーと、そ

れによってもたらされた様々な “物”。それを今さら否定し

ても仕方がない、でも、“人が「等身大」で生み出す喜び ”

が「クリエイティビティ」の基礎になければ、その先には大

きな不幸が待っている様に思うのです。



 たとえばすべてのひとから みはなされた


 ひとがいて そのひとに

 
 こころやさしい すーぱーこんぴゅーたーが いちだい

 よりそっているとは しんじにくい 
( かな?)








2017年6月26日月曜日

勘ぐりは下衆

 時々、山を歩きます。今は月に1~2度しか行けません

が、昔は憑りつかれた様に、年に100回以上も行っていまし

た。


 私のスタイルは、「山登り」ではなく、「山歩き」という

感じで、「高く・遠く・速く」ということは考えず、「のん

びりと、植物や虫や鳥や地形なんかを見ながら、気分の良い

所まで行って、簡単な昼食をとり、昼寝をしてから、美味し

い紅茶を飲んで帰って来る」というものです。山菜や食べら

れる実があれば、採って帰ったりもします。

 「何か目的を達成しよう」というものではなく、ただ気持

ちの良い事を求めての山歩きです。


 「山」なんかに興味の無い人からすると、「山歩き」なん

て疲れるだけの、無意味なものと思えるでしょうね。実際、

そんな風に言う人にも、何人も出会いました。「一度、誘わ

れて行った事があるけど、しんどいばかりで、何も面白くな

かった。二度と行かない!」という人も結構います。連れて

行ってくれた人が、「山屋さん」だったりすると、そんな目

に会いやすいですね。山に登ることを “チャレンジ” としか

考えていない人で、日本には沢山います。日本人の嫌なとこ

ろで、「気楽に楽しむ」「のんびりする」ということを知ら

ないんですね。アタマの固い目的志向で、そこら中にいま

す。

 昔、山の中腹の見晴らしの良い場所で、横になって空を眺

めていたら、通りかかったオッサンが声を掛けて来たので、

「これから昼寝します」と答えると、「何言うてんねん!も

っと歩かな!出世できひんで!」と言われました。

 たくさん歩くと、出世できるそうです。出世したい人は、

どうぞお試しを。



 それはともかく、なぜ山に行くと気持ちがイイのか?

 「空気が良い」「景色が良い」などと言われますが、私の

結論は「山(自然)にはウソが無い」ということです。

 「ウソが無い」というよりは、「隠し事が無い」というべ

きでしょうか。


 自然の中には隠し事もウソもありません。

 昆虫が葉っぱや木の皮に擬態していたりしますが、別にウ

ソをついているわけではなくて、こちらに見つける目がない

だけです。子育て中の生き物が子供を物陰に隠したり、リス

やカケスがドングリを隠したりすることはありますが、それ

以外は隠し事と言えるものはまず有りません。自然は “ある

がまま” に、すべてをオープンにしています。自然に対して

は、観察し、理解し、洞察力を働かせるといった事も必要と

されますが、“勘ぐる” 必要は一切ありません。

 ウソは無いし、隠し事も無い。見えるまま、聞こえるま

ま、嗅ぐまま、触れるまま・・、すべてが額面通り、そのま

ま受け取れます。

 毒キノコや毒草、危険な場所や生物。そういったものも存

在するわけですが、それらは隠されているのではなく、こち

らが知っておかなければならないだけです。知ってしまえ

ば、もう隠されることはありません。“自分が知らない何か”

は無限に有り、永久に無くなることはありませんが、“自分

が知ることを拒まれている何か” というものはありません。

そこが、気持ちイイのです。
 

 翻って、人の世界はウソや隠し事で溢れかえっています。

 憶測・推測・妄想・偏見・偽善・欺瞞・見栄・詐欺・保

身・妬み・恨み・威嚇・差別・強欲・ケチ・怖れ・などなど

から、真実とは言えないことを、個人も組織も日夜撒き散ら

しています。

 そんな世界にどっぷりと嵌まり込んで、自分も加担して生

きていると、わたしたちの心とからだは疲れ切ってしまい、

ウソやうわべの残した滓(おり)のような物が、自分の中に

溜まってしまう。それをそのままにしておくと、やがて心と

からだが蝕まれてしまう。比喩ではなく、実際にそうだと思

っています。

 自然の中に身を置くと、そんな作り事と小芝居の馬鹿らし

さから解放されて、ほんとに清々します。



 私は人と話をしていて、「人間ばっかり相手にしてい

ると、頭がおかしくなる」という話を時々します。

 人間を相手にしていると、「相手が何を考えているか?」

ということを常に意識していなければなりません。(自分が

どう思われているかという事も含めて)

 そのこと自体は別に大した事ではありませんが、相手との

間に少しでもネガティブな要素が入ると、それはすぐに “勘

ぐり” というものになります。

 「下衆(ゲス)の勘ぐり」という言葉がありますね。これ

は「下衆は、勘ぐりをする」という意味ですが、「下衆が勘

ぐると、ロクな事考えない」といった捉え方もれていると

思います。「勘ぐる」こと自体には、まだ良し悪しがあると

いう感じで。

 でも、“勘ぐり” はすべて愚劣です。 
 
 ですから、私の場合はもっとダイレクトに、

 《 勘ぐりは下衆 》

 と言います。

 私の実感としては、そうです。

 勘ぐった瞬間、人は〈下衆〉になるのです。


 ですから、人と関わり、日々を送っていると、私は事ある

ごとに「自分は下衆だ!」と思い知らされ、自己嫌悪を蓄え

行くことになるのです。参ります。

 「そんなの、考え過ぎ!」と思われるかも知れませんね。

でも普通の神経の人なら、自分で気付いていないだけで、同

じ思いを溜め込んでいると思いますよ。


 人には、“英雄願望” というものがほとんどデフォルトと

して存在します。自分で自分を「価値ある人間」「良い人

間」と見做したい、という思いです。

 そのため、自分を「下衆」と感じさせる思考は、無意識の

うちに自己嫌悪を生み出しています。 

 人の感じるストレスの中で、この自己嫌悪が占める割合は

かなり大きいと思います。5割ぐらいは、これじゃないかと

思います。それに加えて、「勘ぐり」のキッカケとなる “不

安” のストレスもセットになっていますから、「勘ぐり」が

人に与えるダメージは相当なものになっているはずです。


 私は、こういった事をある程度意識の上に置いていますか

ら、「勘ぐりは下衆!」と自分に言い聞かせることで、その

ダメージを回避しようと心掛けています。それでも、やっぱ

り自己嫌悪は溜まってくるので、自然に目を向けて心とから

だのバランスを取らなければなりません。


 「人間ばっかり相手にしていると、頭がおかしくなる」の

ですが、それは生身の人間ばかりではありません。

 “人間の作った仕組み”を通して、間接的に人間を相手にし

ていても少しおかしくなります。五感の使い方が偏るせいで

しょうね。


 ただね、人間相手でも、自然を常に意識して、「自分も自

然の一部に過ぎない」という認識を持っている人が相手であ

れば、あまりストレスを感じずに居られます。そういった人

「人間なんてものは所詮ね、・・・。」という謙虚さや、

ユーモアを持ち合わせているからです。



 ちなみに、『ゲス不倫』が話題になっていた時、その当事

者たちの事を「あれや、これや」と勘ぐっていた人たち

は、“同じ穴のムジナ” 。“ゲス” だったのです。

 「下」の「衆」。つまり、「下らない、その他大勢」だっ

たということですね。


(「かんぐる」って打ち込みながら、「『Google』に似て

 るなぁ」とか思っていました。いろいろ勘ぐるには、

 「Google」はもってこいのツールですね。下衆がパワー

 アップします。 おぉ~怖っ!)








2017年6月24日土曜日

やる気スイッチ OFF



 私がこれまで書いてきたことといったら、「世界は惰性で


動いてる」とか「人並みの人には、人並みの努力しか出来な

い」とか「自由意志は無い」とか、個人を否定する様なこと

ばっかりで、こんなブログを読んでいるとやる気が無くなる

かも知れません。

 なんで、こんな事ばっかり書いているかというと、「やる

気をなくさせよう」と思っているからです。


 “やる気” ってなんですか?

 何を「やる」んですか?

 “やる気” というものを肯定し過ぎていませんか?

 テロリストや犯罪者に、やる気を持たれたら困りますよ

ね。
 

 「おい。テロリストや犯罪者なんて異常なものを引き合い

に出すのは、おかしいだろう!」

 そう思われるでしょうね。


 その通りなんです。異常な事に “やる気” を持つ場合が問題

なんですが、テロリストや犯罪者が「異常」と見なされるの

は、彼らが短期間の内にその異常性を表わすから(異常性が

濃く表れるから)なんです。もしIS(イスラム国)が同じ思

想を50年かけて、武力ではなく政治的に広めたとしたら、

異常さは表立たなくても、結果はイスラム原理主義の差別的

で不合理な社会です。日本が太平洋戦争をした時も、長い年

月をかけて軍国主義と強固なナショナリズムが浸透したため

に、ほとんどの人間に異常さが分からなかった。「戦争を始

める」ところまでは、抜き差しならない時代状況があったの

だと思いますが、「学徒動員」や「特攻隊」、「竹槍訓練」

に至っては、“異常” を「異常」と見ることが出来なかったと

しか言えません。

 当時の日本で “異常” を成立させていたのは、日本人のほぼ

全員です。ひとつひとつの「小さな異常」が集約されて「大

きな力を持つ異常」になっていたのですね。

 《 “異常” は、日常の中に擬態している 》のです。


 私が「やる気をなくさせよう」とするのは、よほど気を付

けていないと、わたしたちは “異常” にエネルギーを注ぎ込

んでしまうからです。

 “やる気” を出す前に、わたしたちの思考が何処を向いてい

るかをよくよく吟味しなければなりません。まず問題なの

は、わたしたちの方向性です。「何をやるか」です。


 経済活動に “やる気” を出し続けた結果が、環境破壊です。

 CO₂の問題にしても、化学物質による汚染にしても、森林

破壊にしても、それらは経済活動による収奪と、ゴミ問題で

す。

 また、過労死、鬱病、格差の拡大なども、経済に “やる

気” を出し続けた結果です。

 個人的な事柄では、「やり過ぎ」がさまざまな問題を作り

出すのは、例を挙げる必要もないでしょう。

 「わたしたちは、どちらを向いて進んでいるのか?」

 それを注意深く見定めていないと、取り返しのつかない事

を引きおこします。

 子供の将来を案じて、レベルの高い学校に入れようとす

る。その時に、子供の能力や適性、20~40年先の社会状況

を考えて方向付けをしているのか?(そんなこと誰にも出来

ないと思いますが)

 「どっち向いてんの?」

 そんな「自問自答」が常に必要です。



 そして、“やる気” そのものについてですが、《 “過剰” こ

そが悪 》と書いた通り、“やる気” があるほどに、人は “過

剰” になって行きます。正常なことでも、度を越せば “異

常” です。

 ちょっとみんな “やる気” を減らすべきです。

 “やる気” というものを、無条件に崇め過ぎです。

 人間がしあわせに生きるだけのことに、それほど “やる気”

は要らないはずなんですけど。むしろ、現代は “やる気” 

人を不幸にしている割合が大きいと思いますけどね。


 「人は未来を見通せない」という事。

 「良い事さえ、度を越すと異常になる」という事。

 この二つは事実です。

 ですから “やる気” の使用には注意が必要です。



 と、ここまで書いといて何なんですが、以前女性の芸能人

か作家の人が、子育てについて、こんなことを言っていたん

です。

 「子供なんてものは、若くて何も分からないうちに、訳も

分からずに、産んで育てちゃうものよ」って。


 これを聞いた時に、凄く納得しちゃったんですよね。

 「子供を産む」ってことは、一人の人間をこの世に送り出

すって事です。これは、とてつもなく責任の重い、「恐ろし

い」とも思える行為です。自分が生きていて、「どう生きた

ら良いのかハッキリ分からない」、「しあわせだと、自信を

持って言えない」、「イイ世の中だと手放しでは言えない」

といった状況で、新しい人間をこの世に生み出すのです。よ

く考えてたら、恐ろしくって子供なんか産めません。なので

「仰る通り」と思いましたね。(とはいうものの、「よく考

えて子供を作れ」というのもホントだと思います。「何も分

から  」というのも、どちらも正しいと思います。矛盾

してますけどね)

 それと、「やる気をだすな」、「どちらに行こうとしてい

るのか考えろ」とか言いましたが、そんなこと言ったって宿

業みたいな事がありますからね。無理ですよね。
 

「じゃあお前は、グダグダと今まで何を言って来たんだ!」

 というお叱りを受けそうですが、「“やる気” を怪しむ」と

いう考えを持っ方がよいと思うんです。

 「“やる気” =善」みたいな世の中の空気が胡散臭い。 

 「生きることを、そんなに大層に煽って、余計なエネルギ

ーを使わせようとするんじゃないよ」と思うんです。

 そんな、大袈裟なことなんですか? 生きるって?

 「大事(だいじ)にし過ぎる」から、「大事(おおごと)

になっちゃう」んじゃないんですか?


 人類が誕生してから、百数十億人ぐらいがこの地上を歩い

たでしょうが、4~5000年前までは「生きて、死ぬ」こと

がもっと淡々として在ったんじゃないかと・・。

 特に現代は、「生きて、死ぬ」ことに余計な意味付けをし

過ぎて、必要のない苦悩を抱え込んでいると思うんですよ。

 もっと力を抜いて、「特別でもない人生を『生きて、死

ぬ』」方が、人は幸せなんじゃないかと・・・。


 ですから、私はこれからも「やる気をなくす様な」ブログ

を書く様に頑張ります!   ←(こういう “やる気” は許される

であろう)



2017年6月20日火曜日

自分というストーリー

 人は皆、それぞれに〈自分〉です。

 自分として生まれてきます。当たり前すぎて、いちいちそ

んなこと考えたりしません。考えませんが、それに関わるよ

うなことは誰でも考えます。

 「自分は、何者か?」ということです。

 「『何者か?』って、自分じゃないか」

 そんな、声が何処かから聞こえたりします。

 でも、そんなことで簡単に納得する人はいません。

 「自分は、何者か?」という問いに、納得のいく答

えは出て来ません。何故でしょう?

 それは、その答えが「自分は、何者でもない」ということ

だからです。ですから、納得できません。



 「何者か?」と問うているのに、答えが「何者でもない」

では、答えたことになりません。ですが、「自分は何者

か?」という問を発する人が、本当に求めている答えは、実

のところ「自分は何者でもない」という答えです。

 なぜなら、もともと自分でその答えが返って来るのを知っ

ていて「自分は、何者か?」と問うているからです。

 知っているのに、何故問うのでしょう?

 答えが納得できないからですね。

 「“答えた事にならない答え”しか出てこないのは、おかし

い」と思うからです。でも、その“納得できない答え”が正解

なので、何度問うてみても、モヤモヤが消えません。

 そりゃそうですね、〈正解〉というものは、“納得できる

答え”のことですから、全く矛盾しています。

 何故、正解なのに納得できないか?

 答えが“言葉”の守備範囲の外だからです。


 人間は「言葉にならない回答」を「回答」と見做せないと

いう、困った性分を持っています。

 欧米人などは、「言葉に出来ないものは無い」ぐらいに思

っている様です。なにせ『はじめに言葉ありき』ですから。

 それに較べると、日本人は「以心伝心」・「空気を読む」

国の人ですから、「言葉にならないことは色々ある」と誰し

も思っています。ですが、日本人であっても答えを求める時

には、“言葉”としての答えを望みます。(「二十万円貸して

くれ」と言ったら、黙って二十万円差し出された。といった

場合もありますが)

 何故、“言葉”としての答えを求めるのか?

 《 人には“ストーリー”が必要であり、言葉に出来ないこ

とは“ストーリー”に組み込めない 》からです。


 人は誰でも、自分のストーリーを持っています。

 他人にもストーリーを設定します。「A さんはこういう

人、B さんはこういう人、C さんは・・・」といった具合

に。

 世の中にもストーリーを付けます。「日本はこんな国。ア

メリカはこんな国・・。自民党は・・、民進党は・・。イス

ラム教徒は・・、戦国時代は・・、白亜紀は・・、60‘のア

メリカのミュージックシーンは・・、AKBは・・・・・」

きりがありません。


 世の中のキャラクターの一人(出演者=本人からすれば主

役)である自分にとって、世の中のストーリーがあやふやで

は、自分をどう演じればいいのか分かりません

 配役・設定・舞台装置・小道具がどんなものかを知らなく

ては、演じられません。ですが、恐ろしいことに台本は無い

のです。しかも、舞台の初めからそこに立っていたわけでは

ありません。“気が付いたら”舞台の上に居たのです。

 仕方なく、わたしたちは周りを見廻して、ストーリーを推

測し(ストーリーをでっち上げて!)、おっかなびっくりア

ドリブの演技を続けて行きます。

 まわりと協力し合い、それなりに舞台を進行させてはいま

すが、時に、ふと我に返ります。

 「そもそも、自分は何故この舞台に居るのだ? 自分の役

柄は何だ?」と。

 ところが、答えは「何者でもない」。

 ・・・独りで黙り込むしかありません。

 心許なさに耐えられず、「宗教」や「イデオロギー」や

「占い」などの“脚本”に頼り始める人も大勢いますね。

「こう演じなさい」と確固たる指示を与えてくれますから。

(まわりは、たまったもんじゃないですね。勝手に台本を持

ち込んで、まわりのストーリーと無関係な芝居を始めて、更

には、まわりにも自分の台本に従うように強要してきますも

のね)


 ことほど左様に、わたしたちは“ストーリー”を必要とし、

その中に落ち着く為には、「自分」というものを“言葉”で位

置づけたいのです。しかし、必ず挫折します。

 「自分は何者か?」と問うても、その答えは“言葉”になり

ません。答えは“言葉”の外にあります。“言葉”になりません

から、「自分」をストーリーの中に位置づける役には立ちま

せん。

「この心許なさ、寄る辺の無さをどうしたらいいのだ・・」

 その深い焦燥から逃れる為、また違うストーリーを求める

ということが繰り返されます。それは、恋愛だったり結婚だ

ったり、ビジネスやスポーツや趣味だつたり、家族・友人だ

ったりと、ありとあらゆるものに・・・。

 (「六道に輪廻する」とは、そういうことでしょう)


 どうすればいいのでしょう?

 「自分は何者か?」

 “納得できる答え”は無いのでしょうか?
 

 答えが“言葉”の中に無いのなら、“言葉”の外を探すしかあ

りません。

 「“言葉”の外の自分」に訊いてみるしかないでしょう。

  “言葉”の外に「自分」が在るのは確かです。

 「“言葉”にならない自分」が在ります。


 その「自分」に訊いてみる。ただし、「“言葉”の外」です

から、“言葉”で訊くことは出来ません。むしろ“言葉”は邪魔

になります。では、どうやって?


 “言葉”から離れることですね。

 よく「無になる」とか言いますけど、そんなの無理です。

“言葉”は止まることなく湧いてきます。(言葉と共に映像や

さまざまな感覚も湧いてきます)「無」になんかなれません

から、“言葉”が湧いて来ても「言葉は言葉にすぎない」と知

っておくことです。“言葉”に力を持たせないようにすること

です。

 すると、どうなるか?

 答えは聞こえて来たりしません。

 答えは〈実際〉として、そこに在ります。

 言葉の外に在ります。

 “言葉”が力を削がれると、〈実際〉が見えて来ます。

 そこに〈自分〉が在ります。〈自分〉を一瞥することが出

来ます。〈自分〉の全貌は見えないとしても・・・。

 そして、“ストーリー”の外にも「自分」が在ることに気付

きます。むしろ、それが「本来の自分」だと。


 「自分は何者か?」

 「自分は自分です」


 ただし、言葉に出来ない「自分」です。


 “言葉”(アタマ)に権限を与え過ぎないことです。

 “ストーリー”は、「余興」だと考えるべきです。

 人生は“オマケ”です。 
 

 さて、あなたは何者でしょうか?



 以前、TVで舞踏家の 麿 赤児 という方が「言葉は病気」

だと仰っていました。ホントにその通りだと思います。

 《 “言葉”は、人間の持病 》ですね。

 上手く付き合うしかありません。

 入れ込まない様に、たしなむ程度に。

 “言葉”に〈自分〉を消されない様に。

 どうぞ“御自愛”下さい。






 

2017年6月18日日曜日

人生の意味 ?

 昨日、〈意味〉について書きましたが、わたしたちはよく

「意味が無い」とか言いますよね。「おまえの言ってること

は意味が無い」とか、「そのやり方じゃ、意味が無い」と

か。

 この場合の「意味が無い」は、「価値が無い」とか「役に

立たない」とかいう意味ですね。

 このような表現をするということは、「価値が有る」こと

「役に立つ」ことを「意味が有る」と考えるのが、一般的だ

ということです。

 「人生の意味」と言う時、わたしたちは自分が「役に立

つ」ことで、人生に「価値」を持たせたいと思っているわけ

です。何故、人生に「価値」を持たせたいんでしょうか?



 「そりゃそうでしょ。誰だって自分の人生が価値の無いも

のだなんて(自分が役立たずだなんて)思いたくないでし

ょ」


 そう思う人が大多数でしょうが、「人生に価値が無かった


ら」いけないんでしょうか?

 価値があったとして、それが何なんでしょう?

 価値が無かったら、何か困るのでしょうか?

 そもそも「人生の価値」・「人生の意味」とは何でしょ

う?

 「自分の人生にどんな価値があつたか?」  評価という

のは、過去に対してなされるものです  というのは、死ん

だ時に決定するものですよね。学校の成績の様に、区切り区

切りで評価することもできるでしょうが、それはやっぱり途

中経過でしかないですよね。「六十歳まで真面目に働いてい

た人が、定年離婚されたのをきっかけに、ギャンブル依存症

になって、多額の借金を作って自己破産」なんてケースもあ

りますからね。こんな場合、「二学期までは、オール5だつ

たけど、三学期に成績がガタ落ちして、卒業出来ず」って感

じですね。やはり、「人生の価値」は死んだ時に決めましょ

う。


 というわけで、「価値」を決めるんですが、その為に

は、“評価基準”が必要なわけです。

 いったい、何を以て人生を評価するんでしょうか?

 どんな事を成し遂げたら、評価に値するんでしょうか?

 ・・・今、話の流れで“どんな事を成し遂げたら”と書いて

しまいましたが、「人生の価値(意味)」とは、“何かを成

し遂げること”というイメージが、私の中にも刷り込まれて

いるようです。私の様なへそ曲がりでも、その様に考えてし

まうということは、普通の人(私は普通じゃない!?)の考

えは推して知るべしですね。

 「人生は、何を成し遂げたかで価値が決まる」

 多くの人が、そう思っているんじゃないでしょうか。

 でも、本当にそうでしょうか?

 「何を成し遂げたか」で価値が決まるんでしょうか?

 そもそも、価値が決められるのでしょうか? 



 とりあえず、「何を成し遂げたか」で「人生の価値」が決


まるとしましょう。では、「何?」が、評価に値するのでし

ょう?

 “社会的成功”でしょうか? 「名声を得る」・「財を成

す」・・・。他に思い浮かびませんが、“社会的成功”という

のは、「財を成す」以外のことは、すべて大なり小なり「名

声を得る」ということで括ってしまえるようです。

 では“社会的成功”の他には何が有るでしょう。

 それは当然“個人的成功”ということになるはずです。

 つまり、「生活」・「遊び」で責任を果たしたり、良く楽

しんだり出来たということになるのでしょう。「良く生活

し」・「良く遊ぶ」と。

 それ以外は・・、思いつきません。おおまかに分けると、

「人生の価値」というのは、この位のカテゴリーしか無い様

です。

 “価値の種類”については確認できたので、それらが本当に

「人生の価値」たり得るのかを考えてみましょう。



 「財を成す」こと=人に羨ましがられます。羨ましがられ

るのが好きな人にとっては、価値のあることですね。 一方

で、「財を成す」為には搾取することが必要です(「少し

金に余裕がある」程度は別にしておきましょう)。それは、

搾取される側を損ない、非難されることですから、マイナス

の価値といえます

 「名声を得る」こと=人に褒められることです。褒められ

るのが好きな人にとっては、価値が有ることです。褒められ

れば、誰だって嬉しいので、誰にとっても価値のあることで

しょうね。一方で、「名声を得る」と必ず誰かに妬まれま

す。それは、“妬まれる側”・“妬む側” 双方の精神的健康に

害を成すものですから、マイナスの価値です。

 「良く生活する」こと=「良く~」ですから、良いんで

す。価値があります。また、「良く~」ですからマイナスの

価値はありません。

 「良く遊ぶ」こと=やはり「良く~」ですから、良いんで

す。マイナスの価値もありません。

 しかし、「良く生活する・良く遊ぶ」の「良く」とは、何

でしょう? 考えてみると「良く」という言葉には、“質”に

対して肯定的なだけではなく、「長い間」という“継続”を評

価する意味もあるので、「良く」=「安定して継続できる」

とするのが妥当だろうと思います。思いますので、そういう

事にしておきましょう。
 

 では、これらが「人生の価値たり得る」のでしょうか?

 “社会的成功”は、他人の評価がなければ成立しません。

「名声を得る」のは、当然他人からですから言うまでもない

ことです。「財を成す」のも、例え百億円の資産を築いたと

しても、誰も評価してくれなければ、虚しく感じることでし

ょう。どちらにしても、人が「凄いね!」と言ってくれて初

めて、満足が得られるはずです。ですから、他人に評価して

もらいたい人は、こちらの価値を求めるでしょう。

 一方、“個人的成功”は、当然「自己評価」になります。他

人は関係ない。関係があるとすれば、家族や友人  要する

に身内ですが、“身の内”ですから自己評価としておいてよい

でしょう。


 さて、“社会的成功”は「他人の評価」、“個人的成功”は

「自己評価」としたんですが、実は“社会的成功”も「他人の

評価を必要とする」だけで、結局「自己評価」です。「他人

の評価」が得られて初めて「自分で満足する」わけです。

 そして“個人的成功”は、「自分で評価して、自分で満足す

る」のです。どちらにしても、つまるところ〈自己満足〉で

す。

 当たり前といえば、こんな当たり前なこともない訳で、

「人生の価値」とは「人生に満足しているか?」ということ

であって、「自分が満足」ならそれで価値があるんですね。

(えらく持って廻って恐縮ですが、「人生の価値(意味)」

なんていう重たい話ですから、持って廻らずに〈一刀両断〉

にしてしまうと、かなり不愉快な思いにさせるでしょうから

ね)


 (当人から見た)「人生の価値(意味)」というのは、

「自己満足」です。

 「自己満足」ですから、「満足」できれば何でもいい。

 逆に、どんなに凄い事を成し遂げても、「満足」出来なけ

れば、「価値(意味)が無い」。


 例えば、ビル・ゲイツが街を歩いると、通りすがりの女性

が近付いて来て「この、守銭奴!」と罵ったとしましょう。

 彼はたぶん、一生その事を忘れることが出来ず、自分の

「人生の価値」を確信することが出来なくなるでしょ  

彼がサイコパスでなければ。(ビル・ゲイツが「守銭奴だ」

というわけではありませんよ。“自分が持ちすぎていること

に平気な人”だと思うだけです)

 例えば、アインシュタインが広島への原爆投下を知った

時、今まで自分が成し遂げて来た事が、すべて汚染された様

な気がしたことでしょう。

 例えば、何十年も誠実に働き、家族への気遣いも忘れなか

った夫が、高齢になったある日「貴方と結婚したのは、間違

いだった」と妻に言われたら? 自分の人生のほとんどが間

違いだったと感じるでしょう。


 何を言ってるかというと、わたしたちの「自己満足(自己

評価)」というものは、誰かのほんの一言で、何か一つの出

来事で、一瞬に壊れてしまいかねないものだということで

す。

 わたしたちが、常識的に「人生に於いて価値(意味)が有

る」と考えていることの多くは、とても頼りない、脆いもの

です。

 そうして見た時、人生に「価値(意味)」を求めること

が、〈価値(意味)〉の有ることなのか?


 《 人生に意味を求めることに、意味は無い 》


 私は、その様に思います。

 必要なのは、「価値(意味)」ではなく「満足」で

す。“肯定すること”です。

 世の中や、誰かの基準を引き合いに出して、「自分の人

生」を評価する必要はありません。もちろん、今、自分の人

生に満足出来ているのなら、それでいいんです。ただ、人と

人との間で認め合う様なこととは違うところに、“揺るぎな

い絶対の価値”があるのです。

 わたしたち一人一人は、この宇宙が始まってから終わるま

での間に、今のほんのひと時しか存在しないものです。

 本来、人間社会の基準で評価したり出来るようなものでは

無いのです。

 そりゃあ世の中には、“世の中の基準”というものがありま

すし、わたしたちはそれを無視して生きては行けません。

 でも、〈自分〉というものの〈意味〉を知ろうとする時、

“人間の約束事”でしかないもので、〈自分〉という空前絶後

の存在を量るのは、愚かな事だと思うのです。
 

 「自分」というものは、望まれたかどうかは知りません

が、「宇宙」が生んだものである事は間違いありません。

 「自分」を肯定していいんです。

 「宇宙」に肯定されたのです。

 それ以上の理由が要りますか?

 
 「価値がある」とか「無い」とか関係なく、「自分」が

〈自分〉を生きて行く。 

 世の中を上手く生きられなくても、負け組でも、それはそ

れ。

 たとえ極悪人であっても、それは社会の中での話で、社会

の評価に預ければいい。それはそれです。

 辛かったり、惨めだったり、わけがわからなかったり、も

しかしたら狂っていたりするかも知れません。早くに死んじ

ゃうかも知れません。でも、それはそれです。

 そういう、世の中の評価よりずっと前に、「自分がある」

のです。わたしたちお互いに。
 

 《 みんな、それぞれ「自分」がある

         それ以上の価値はないのです 》


 そして、

 「自分があること」

 そこに、わたしたちが欲しがるような「意味」は無いので

す。