2017年6月26日月曜日

勘ぐりは下衆

 時々、山を歩きます。今は月に1~2度しか行けません

が、昔は憑りつかれた様に、年に100回以上も行っていまし

た。


 私のスタイルは、「山登り」ではなく、「山歩き」という

感じで、「高く・遠く・速く」ということは考えず、「のん

びりと、植物や虫や鳥や地形なんかを見ながら、気分の良い

所まで行って、簡単な昼食をとり、昼寝をしてから、美味し

い紅茶を飲んで帰って来る」というものです。山菜や食べら

れる実があれば、採って帰ったりもします。

 「何か目的を達成しよう」というものではなく、ただ気持

ちの良い事を求めての山歩きです。


 「山」なんかに興味の無い人からすると、「山歩き」なん

て疲れるだけの、無意味なものと思えるでしょうね。実際、

そんな風に言う人にも、何人も出会いました。「一度、誘わ

れて行った事があるけど、しんどいばかりで、何も面白くな

かった。二度と行かない!」という人も結構います。連れて

行ってくれた人が、「山屋さん」だったりすると、そんな目

に会いやすいですね。山に登ることを “チャレンジ” としか

考えていない人で、日本には沢山います。日本人の嫌なとこ

ろで、「気楽に楽しむ」「のんびりする」ということを知ら

ないんですね。アタマの固い目的志向で、そこら中にいま

す。

 昔、山の中腹の見晴らしの良い場所で、横になって空を眺

めていたら、通りかかったオッサンが声を掛けて来たので、

「これから昼寝します」と答えると、「何言うてんねん!も

っと歩かな!出世できひんで!」と言われました。

 たくさん歩くと、出世できるそうです。出世したい人は、

どうぞお試しを。



 それはともかく、なぜ山に行くと気持ちがイイのか?

 「空気が良い」「景色が良い」などと言われますが、私の

結論は「山(自然)にはウソが無い」ということです。

 「ウソが無い」というよりは、「隠し事が無い」というべ

きでしょうか。


 自然の中には隠し事もウソもありません。

 昆虫が葉っぱや木の皮に擬態していたりしますが、別にウ

ソをついているわけではなくて、こちらに見つける目がない

だけです。子育て中の生き物が子供を物陰に隠したり、リス

やカケスがドングリを隠したりすることはありますが、それ

以外は隠し事と言えるものはまず有りません。自然は “ある

がまま” に、すべてをオープンにしています。自然に対して

は、観察し、理解し、洞察力を働かせるといった事も必要と

されますが、“勘ぐる” 必要は一切ありません。

 ウソは無いし、隠し事も無い。見えるまま、聞こえるま

ま、嗅ぐまま、触れるまま・・、すべてが額面通り、そのま

ま受け取れます。

 毒キノコや毒草、危険な場所や生物。そういったものも存

在するわけですが、それらは隠されているのではなく、こち

らが知っておかなければならないだけです。知ってしまえ

ば、もう隠されることはありません。“自分が知らない何か”

は無限に有り、永久に無くなることはありませんが、“自分

が知ることを拒まれている何か” というものはありません。

そこが、気持ちイイのです。
 

 翻って、人の世界はウソや隠し事で溢れかえっています。

 憶測・推測・妄想・偏見・偽善・欺瞞・見栄・詐欺・保

身・妬み・恨み・威嚇・差別・強欲・ケチ・怖れ・などなど

から、真実とは言えないことを、個人も組織も日夜撒き散ら

しています。

 そんな世界にどっぷりと嵌まり込んで、自分も加担して生

きていると、わたしたちの心とからだは疲れ切ってしまい、

ウソやうわべの残した滓(おり)のような物が、自分の中に

溜まってしまう。それをそのままにしておくと、やがて心と

からだが蝕まれてしまう。比喩ではなく、実際にそうだと思

っています。

 自然の中に身を置くと、そんな作り事と小芝居の馬鹿らし

さから解放されて、ほんとに清々します。



 私は人と話をしていて、「人間ばっかり相手にしてい

ると、頭がおかしくなる」という話を時々します。

 人間を相手にしていると、「相手が何を考えているか?」

ということを常に意識していなければなりません。(自分が

どう思われているかという事も含めて)

 そのこと自体は別に大した事ではありませんが、相手との

間に少しでもネガティブな要素が入ると、それはすぐに “勘

ぐり” というものになります。

 「下衆(ゲス)の勘ぐり」という言葉がありますね。これ

は「下衆は、勘ぐりをする」という意味ですが、「下衆が勘

ぐると、ロクな事考えない」といった捉え方もれていると

思います。「勘ぐる」こと自体には、まだ良し悪しがあると

いう感じで。

 でも、“勘ぐり” はすべて愚劣です。 
 
 ですから、私の場合はもっとダイレクトに、

 《 勘ぐりは下衆 》

 と言います。

 私の実感としては、そうです。

 勘ぐった瞬間、人は〈下衆〉になるのです。


 ですから、人と関わり、日々を送っていると、私は事ある

ごとに「自分は下衆だ!」と思い知らされ、自己嫌悪を蓄え

行くことになるのです。参ります。

 「そんなの、考え過ぎ!」と思われるかも知れませんね。

でも普通の神経の人なら、自分で気付いていないだけで、同

じ思いを溜め込んでいると思いますよ。


 人には、“英雄願望” というものがほとんどデフォルトと

して存在します。自分で自分を「価値ある人間」「良い人

間」と見做したい、という思いです。

 そのため、自分を「下衆」と感じさせる思考は、無意識の

うちに自己嫌悪を生み出しています。 

 人の感じるストレスの中で、この自己嫌悪が占める割合は

かなり大きいと思います。5割ぐらいは、これじゃないかと

思います。それに加えて、「勘ぐり」のキッカケとなる “不

安” のストレスもセットになっていますから、「勘ぐり」が

人に与えるダメージは相当なものになっているはずです。


 私は、こういった事をある程度意識の上に置いていますか

ら、「勘ぐりは下衆!」と自分に言い聞かせることで、その

ダメージを回避しようと心掛けています。それでも、やっぱ

り自己嫌悪は溜まってくるので、自然に目を向けて心とから

だのバランスを取らなければなりません。


 「人間ばっかり相手にしていると、頭がおかしくなる」の

ですが、それは生身の人間ばかりではありません。

 “人間の作った仕組み”を通して、間接的に人間を相手にし

ていても少しおかしくなります。五感の使い方が偏るせいで

しょうね。


 ただね、人間相手でも、自然を常に意識して、「自分も自

然の一部に過ぎない」という認識を持っている人が相手であ

れば、あまりストレスを感じずに居られます。そういった人

「人間なんてものは所詮ね、・・・。」という謙虚さや、

ユーモアを持ち合わせているからです。



 ちなみに、『ゲス不倫』が話題になっていた時、その当事

者たちの事を「あれや、これや」と勘ぐっていた人たち

は、“同じ穴のムジナ” 。“ゲス” だったのです。

 「下」の「衆」。つまり、「下らない、その他大勢」だっ

たということですね。


(「かんぐる」って打ち込みながら、「『Google』に似て

 るなぁ」とか思っていました。いろいろ勘ぐるには、

 「Google」はもってこいのツールですね。下衆がパワー

 アップします。 おぉ~怖っ!)








0 件のコメント:

コメントを投稿