2017年6月6日火曜日

努力にまつわる幻想について




 内の奥さんの口癖は、
「わたしは、つまらん(人間

だ)・・・」。

 自分には、何の取り柄も無いという。

 私から見ればいろいろ取り柄があって、羨ましい部分もあ

るのだが、それを言っても、そんな事は取り柄にならないと

思っているらしい。
 

 人というのは、自分の得意なことや身に付いている事は、

なんの事なく出来てしまうので、それを「出来て当たり前」

「そんな事、普通のこと」と思ってしまう。

 その「(その人にとって)当たり前の事」が出来なくて、

んだり苦労したりする人がいるなんて、考えられないんで

ね。

 私にもそういう所がありますし、大抵の人はそうだと思い

ます。それで、自分の “つまらない部分” をなんとかしよう

と、誰も彼もが涙ぐましい努力をしたりしています。

 その努力の中で、自分の隠れた才能みたいなものが表に出

て来て、良い結果をもたらすこともありますが、大抵は辛い

だけで終わってしまうんではないでしょうか。

 なぜなら、得意なこと・・つまり、自分に合ったことは努

力しなくとも出来るわけですから、あることをするのに努力

が必要ならば、「努力が必要」という事実が、「それは自分

に合っていない(向いていない)」ということを証明してし

まっているわけです。ですから、“努力” というものは、大抵

「ムダな努力」なんですね。

 だつて、「自分にあっていないもの」、あるいは「もとも

と能力の低いこと」にエネルギーを注いでも、大した成果は

出るわけないんです。鶏に飛ぶ訓練をするなんて、ばかげて

ますよね。それと同じですよ。

 にもかかわらず、このブログで何度も書いていますが、わ

たしたちは徹底的に “較べる癖” を付けられていますから、す

ぐに、人と較べて自分の足りないところを問題視してしま

う。そして、誰もが自己を否定して、不幸になる。


 否定する部分が違っているんですよね。

 「出来ないところのある自分」や「足りないところがある

自分」を否定するんじゃなくて、「出来ないところを問題視

する自分」こそ否定すべきなんです。

 「足りない」「出来ない」。そんなところにばかり目を向

けていたら、しあわせなんか来ません。
 

 「足りない」「出来ない」ことにエネルギーを注いで、そ

れが喜びにつながる場合もあります。分かり易いのはアスリ

ートだと思いますが、実績を残すアスリートは、自分の「足

りない」ことを埋めるための行いを、“努力” とは考えていな

いだろうと思います。彼らは「それをするのが面白いから」

「それをするのが当然だから」、あるいは「それをせずに居

られないから」するのだと思います。「努力しなければ」な

んて思って頑張っているアスリートは、大成しないでしょ

う。


 「面白いから、やってしまう」

 「やるのが当たり前だから、やる」

 「不安だから、やらずに居れない」

 大成するアスリートは、そんな理由で厳しい練習に向かっ

ているのだと思います。それを他人が見て「大変な努力をし

ている」と勝手に思うだけで、本人からしたら「当たり前」

のことでしょう。

 そういった凄いアスリートなんかを見て「人並み外れた努

力をしたから、あれだけの結果を出せるのだ」とか言う人が

よくいます。そして、人に向かって「もっと努力しろ!」と

か言うんです。そういうのを聞くと「人並みのひとに、『人

並み外れた努力』は出来ないでしょ。だって、“人並み” なん

だから」って思っちゃうんですよね。


 《 「人並み外れた努力が出来る」ってことが

               才能なんですよ 》


 やらせてみてもいいんですよ。やってみてもいいんです

よ。でも、そこに「努力しなければ」とか、「あの人はやっ

ているんだから」という思いがあって自分から自然にそれ

をしてしまう様な状態にならないのであれば、「これは自分

に向いていない」と考えるべきでしょうね。


 「鬼コーチ」とか「鬼監督」とか呼ばれる指導者がいて、

大きな成果を挙げることがよくあります。そういうのを観

て、「厳しい指導が、選手たちの夢を叶えた」とか評価され

たりしますが、私はひねくれ者なので「“銅メダル” でしょ?

優しく指導したら “金” だったかもしれないよ」とか言っちゃ

うんです。

 どうしても日本人は「厳しく指導する」ことが良いことだ

と思いがちです。


 たぶん、戦後に軍隊経験者が  当時の日本男性はほとん

ど軍隊経験者です  教育現場や仕事の現場で指導者の立場

になった為に、軍隊式のやり方を持ち込んでしまったのでし

ょう。それが「厳しくすることが、教育だ」という感覚を世

の中に植え付け、未だに受け継がれている。そこにサディス

ティックな資質を持つ者や、不満を持った者が関わると、い

じめや虐待や体罰なんかが “教育” の名のもとに行われる。


 軍隊の教育というものは、“個” を消すことが第一義です。

作戦を無視して自分の考えで動かれたら、部隊が全滅しかね

ません(作戦が悪ければ、もとより全滅ですが・・)。です

から徹底的に厳しくして、“個” を消さなければなりません。

そして、命令通りに動く人間にしなければなりません。

 しかし、一般社会の教育にそれを持ち込んではいけませ

ん。“企業戦士” なんて言葉が日本に存在するのは、軍隊式の

教育を会社に持ち込んできた証拠でしょう。もう、やめにし

ましょうよ。


 「適材適所」という言葉があるじゃないですか。

 出来ないことや苦手なことを無理してやらせるより、それ

ぞれに合ったこと・得意なことをやらせる方が、上手く行く

に決まってるんです。

 指導者は、“人と人とのマッチング” や “ひとりの人の中の

力のマッチング” に注力すべきで、それが出来ないのであ

ば、指導者の資格は無い。


 学校教育にあっても、さまざまな科目を学ばせ、その中で

適性を見極め、社会の中でその子(その個)が活きる様に振

り分けることが望ましい。「個性を伸ばす」なんてことを言

ってましたが、親や教師が不自然に誘導しょうとすることが

多くて、上手く行かないんでしょう。「個性を伸ばす」とい

うより「個性を曲げない」と考えるべきでは。良くも悪くも

そういう子なんだから。


 社会の中で、その子が活きるように割り振ってあげられな

ければ、「活きない」んですから、へたをすれば「生きられ

ない(死んじゃう)」です。本人に向かない事で競わせた

り、較べたりしてる場合じゃないんですよ。そんなの個人に

も社会にも不幸ですよ。
 

 亀山努という、阪神タイガースで活躍した人が居ますが、

この人は現役引退後、大阪でリトルリーグの監督をしていま

した。その時の指導のモットーは「楽しくやる。」だったそ

うです。本人もしょっちゅう練習時間に遅れて来たりして、

「厳しく!」とは真逆の指導だったそうですが、なんと!チ

ームが世界大会で優勝したそうです。

 「楽しいからやる。やるから出来る様になる。出来る様に

なるから楽しい。」そんな正のスパイラルが起きたのでしょ

う。


 「厳しい」は絶対だめだとは言いませんが、厳しい指導者

が “厳しくない指導” をしていたらどうなっていたかは、起ら

なかったから分かりません。ですが、「厳しい」を怪しむ姿

は持つべきではないかと思うんです。

 やはり、“自発的” ということが、人を最も輝かせ、本当に

世の中にも貢献でき、本人にとっても幸福なことじゃないで

しょうか。
 

 《 生まれて、死ぬだけ。仲良くしたら?

               まずは、自分と 》



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