2017年5月29日月曜日

ネットで繋がる意味(についての妄想)

 もう、今から三十年以上も前でしょうか。「これからは、

情報化社会になる」と言われていました。

 確かに情報化社会になって、私の様な者まで、こんなこと

をしています。

 当時は、まだインターネットなどは無く、そんな想像すら

出来ない状況でしたが、NECがPCシリーズを発売した

り、企業が業務管理にコンピューターを導入しだしたりし

て、ネット社会の基盤が出来始めた頃でした。

 その一方で、マスメディアのスピードは格段に上がり、湾

岸戦争のニュースが、云わば“中継”されて、「世界中の出来

事が、リアルタイムで伝わる」という現実をみんなが知った

のでした。

 そんな状況を見て私が思ったことがありました。それは、

「これから来るという“情報化社会”は、人間が進化し切る為

の、最後のプロセスかも知れないな」ということでした。

 “進化し切る為の、最後のプロセス”というのは、「人間

は、まだ進化し終わっていない」と私が考えていて、全人類

が情報を同時に得ることによって、人間が幸福に生きる為の

に最適な方法と価値観を共有し、やがてそれが人類の“本

能”として人々に刻まれて、人間は700万年の進化のプロセ

スを終え、“人類”としての完成を見るのではないかと。
 

 人間は、生物として不完全ですよね。本能が壊れているの

   「本能が無い」というのではなくて、不具合が多い

   いちいち考えなければ生きて行けない。他の生物は、

本能だけで生きられるか、本能に基づいて少しの学習をする

だけで、その生物として生きて行く事が出来ます。

 しかし、人間は他の哺乳類と較べても、信じられない程の

量と種類の学習をしなければ生きて行けません。それどころ

か不要な学習をし、不要な行動をして、自らを窮地に追い込

んだりしています。まったく不完全(出来損ない)です。

「人類は進化し切れていない」そう言い切って間違っていな

いと思います。


 人類は、このデカい脳を持ったおかげで、本能が壊れてい

るにも関わらず、なんとか生き延びています。しかし、その

一方でこのデカい脳を持て余して、自らを滅ぼしかねない活

動も続けています。

 そんな不完全な人類が、その進化の流れの中で、さまざま

な土地へ拡がり、さまざまな生き方をして、その最後に世界

中の人間の意見を集約することによって、最適で普遍的な

「人類の生き方」を決定し、数千年から数万年をかけて全人

類に定着させ、その進化を終えるのではないか。“情報化社

会”は、その為に人類が無意識に目指していた事で、当然の

帰結だったのではないだろうか?


 なんていうことをその昔考えたのですが、どうもハズレっ

ぽいですね。まぁ、まだ望みは有りそうですが・・、どうな

んでしょう? やっぱり進化し切る前に、滅びてしまうのか

なぁ・・。ムチャクチャやって・・。

 でもね、ネットやテレビを観ていて、あるいは本を読んだ

りしていて、ロクでもない話を毎日の様に目にしますが、逆

に「アタマはロクな事しないよね。みんなで考え直さなきゃ

いけないんじゃない?」といった話も結構入って来るんです

よね。進化し切れないのだとしても、ある程度の数の人間は

(数千万人ぐらいかな?)「ロクでもないアタマの暴走」に

気付いて、幸せな時代を送ることが出来るのかも知れない

ね。

 
 今日もテレビを観ていて、「自分の価値観を他者に押し付

けたり、投影しちゃいけないよね。それが問題を生むよね」

といった言葉を、違う番組で二人の人から聞いたんです。

(ワイドショーやニュースのお仕着せの発言じゃないです

よ。その人の“苦労してきた末の実感”としての言葉でした)

 思わず、「そうだよねぇ」と頷いていたんですが、「自分

を疑い続けること、ありのままを見ようとする事、それを受

け入れる様努めること」そんな生き方を大事にするのなら

ば、そんな人が増えて行くのならば、人類の将来は少しは明

るいのかも。




2017年5月26日金曜日

愛のムチ?

 私も成長したいですね、まだまだ。

 普通に、世の中で評価される種類の事もあるんですけど、

それよりも、内面的なことに対しての思いが強い。

 言うなれば、「世の中で評価される事とか、成長するなん

てことはどうでもいい」という肚の据わり方をしたいんで

す。それが、私にとっての“成長”です。
 

 それがどういうことなのか、頭では分かってるんです。も

う、見えてるんです。それに、ある程度は実践出来ているん

です。それは、こういうことなんです。



 《 「できることは、できるし。

    できないことは、できない」

    それだけのことでしょ?  》



 当たり前のことですよね。でも、わたしたちはこの当たり

前の事が納得出来ずに、自分も他人も苦しめ続けています。



 「できるだけ、頑張ります。」なんてことを言うと、「な

に甘いこと言ってんだ!完璧にやれ!」とか、「120%の力

を出せ!」みたいな、愛のムチが飛んで来たりします。(あ

あいうのって「愛のムチ」と言うより、「愛に無知」なんじ

ゃない?)

 自分自身に対しても、「なぜ、この程度しか出来ないん

だ・・。情けない・・。悔しい・・」なんて、しょっちゅう

思ったりします。

 でも、出来ることしか出来ないでしょ?

 「わたしは、自分に出来ない事が出来ます。」なんてこと

言われたら、「えっ。なに?もう一回言ってくれる?」って

話になってしまいますよね。意味が分からない。

 わたしたちは、その時出来ることしか出来ないんです。


 ところが、先に書いた様に「出来ることはやります」と人

に言ったり、自分で思ったりすると、「甘えてる」といった

印象が付きまとう。近年、特にその様な傾向が強くなった様

に思います。

 先進国で、特に日本などでは、その様な「甘さ」を許さな

い人間関係が、人類史上かつて無い程、人を締め付けている

のではないでしょうか。

 「出来ることしかできない」

 その当たり前のことが、通り難い。

 非常に窮屈で、狭量で、抑圧的です。感じませんか?
 

 私は仕事をする時、「今、出来る限りの事はするし、出来

ないことはできない。気に入らなければ、代わりを呼んでく

れ」という姿勢で取り組みます。だって、それ以上何が出来

ます? たいへん誠実な態度だと思います。「ベストを尽く

す」と考えているわけですから。

 ところが、そういう考え方を気に入らない人間が、とって

も増えたと思いますね。


 そういった人間は、表向き「人の能力の秘められた伸び代

を引き出そう」といった考えが有る様に見えますが、ほんと

うは「俺の要求に応えろ」と思っているだけです。

 そういう、「愛のムチ」とか「叱咤激励」だとか言われ

る“偽装したエゴ”が、あまりにも世の中を飛び交うので、人

は自分自身に対しても、出来る以上のことを求め、必要のな

い挫折感を味わう様になってしまったと思います。


 「Cool Japan」じゃないけれど、日本はいい国だと思う

し、日本人は基本的に良い人達だと思います。でも今の日本

は、ほんとに窮屈で、抑圧的です。

 鬱病・自殺・薬物その他の依存症・いじめ・過労死・ウヨ

ク、サヨクによるヘイトスピーチ・尊厳死の問題・などなど

さまざまな問題の原因に、“理想”を隠れ蓑にした「過剰な要

求」があると、私は見ています。
 

 鬱病を例に取って言いますが、鬱病って、「暗くて狭い部

屋で、小さくなっている」というのが、大方のイメージだと

思うんですよね。「明るい野原で、両手を広げて、笑顔で伸

びをしている」なんて、鬱病のイメージに合いませんよね?

 「暗くて狭い所で小さくなっている」から、鬱病になった

んじゃなくて、「暗くて狭い所に小さく押し込められてい

る」から、鬱病になっちゃうんです。他の問題もそうです

よ。きっと。


 わたしたちの世の中は、とんでもなく抑圧の強い世の中に

なってしまっています。

 世界中のあらゆる場所で、闘争と競争が行われているでし

ょ。世の中は、もうすでに戦場です。

 “理想”という「過剰な要求」がそこら中を飛び交うので、

戦う装備と能力の少ない人間は、塹壕を掘って身を隠しま

す。そして、その暗くて狭い所で小さくなっています。

 少し装備や能力のある人間は、戦場を這いずり回り、戦闘

に長けていて最新兵器を手にした奴は、興奮して撃ち合って

いる。

 大きなビジネスモデルとかビジネスチャンスなんかは、使

い方を誤れば、大量破壊兵器です。(原発事故、環境破壊、

リーマンショック、薬害なんかね。)


 「24時間、戦えますか!?」なんて馬鹿なCM、未だにや

ってますけどね。「なんで戦わなくちゃいけないの? おま

えら勝手にやってろよ。どっかの砂漠ででも」と思います

ね。ああいうバカな商売人が、アタマの病気を撒き散らすん

ですよ。(そういや、製薬会社のCMだな。やること逆でし

ょ! 「24時間、安らげますか。」というぐらいの、商売

してみろよ。・・・怒ってしまったな・・・)
 

 戦う必要なんかないと思いますよ。

 人間の社会性は、協力するためのものじゃないんですか?

 欲の強い連中が先に利権を握って、普通の人たちの欲を掻

き立てることで巻き込んで来たんですよ。   「一億総活

躍社会」って「一億総戦闘員社会」ってことでしょ? 安倍

さんがイイ人かどうか知らないけど(政治家ですからね)、

「一億の内、最低限活躍社会」でいいんじゃないですか?

活躍する人には、賞賛は惜しみませんよ。


 戦って、何が手に入るかといったら、ただ「勝った!」っ

てことだけでしょ? 「それがどうした?」って言ってやれ

ばいい。

 振り向いたら、ゴミの山と死体の山、荒れた土地(ビルの

立ち並ぶ風景は、私には荒地に見えます。とくに百年後を想

像すると)と失われた文化や伝統が見えるだけ。 バカでし

ょ?


 「もう、いいかげんにしようよ」と思うけど、私が思った

ところで、どうにもなんない。

 自分一人で戦線離脱、敵前逃亡するだけですね。


 しかし、敵なんているのかね?

 「敵がいる!」って身構えるから、それを見て向こうも

「敵がいる!」って身構えて、それが果てしなく拡がってい

るんでしょうよ。

 最初に妄想したのが誰だか知らないけど、身構えた手を下

す人間が少しでも増えれば、その分感染は抑えられると思う

けどね。で、「できることはできるし、できないことはでき

ない」んだから、チカラこぶ作って遮二無二がんばるとか、

がんばらせるとかしない方がいいでしょうと・・・。(まぁ

やりたい人はやればいいんです。「ほこりが立つなぁ・・」

なんて思いますが。「出来ることしか出来ない」んだから、

やってる事は一緒のはずですけどね。)



 「愛のムチ」のことですけど、存在しないことはないです

ね。でも、本当の「愛の鞭」はごく少ない。

 それが必要とされるのは、破滅の道から引き戻す時ぐらい

でしょう。人を背伸びさせる為じゃぁ無い。



 もっと自然に穏やかに、わたしたちは暮らしていいと思い

ますよ。




2017年5月24日水曜日

「道徳」って、教育するものなの?

 「今のままでいいのかなぁ」

 「今のままだと、成長がないしなぁ」

 そんな風に考えるのが普通ですよね。それでいいんだと、

私も思うんですけど、「何を以て“成長”と呼ぶのか?」とい

う事は考えてみなければいけないでしょうね。
 

 “成長”って何でしょう?

 「能力が上がること」ということでいいんじゃないかと思

います。 

 では、能力にも色々ありますが、何の能力が上がればいい

んでしょうか? 

 おおざっぱに言えば、“頭の能力”と“身体の能力”になるわ

けですが、両方考え出すと膨大な事になってしまうの

で、“頭の能力”の方だけにしておきたいと思います。

(「アタマが悪い」というブログですから) 


 「頭の能力を上げる」というと、要するに「賢くなりた

い」ってことですけど、「賢いってどういうことか?」って

問題があります。まさか、「学校の成績が良い事」で済ませ

てしまってはいませんよね? それは、「賢い」とは言えな

い判断ですものね。


 東大を出たが為に苦労している人も結構いるでしょうし、

東大を出たのにもかかわらず、上手く生きられなくて困って

いる人もいるでしょう。学校の成績が良いことを「賢い」と

言うのには、違和感を持ちます。その能力を上手く使えて初

めて「賢い」と言うのでしょう。

 では、「賢い」とはどういうことか?

 《 自分と周りの幸福に資することが出来ること 》

 と私は定義しています。

 高学歴のテロリストとかが、よく居るでしょ? あれって

「バカだ」と思うでしょ? テロやって、自分の幸福には資

しているんでしょうが、それの数層倍、世の中に不幸を生み

出しているわけですから。

 経済の世界でも、頭のいい奴が物凄く儲けたりしているで

しょ? 競争社会だなんて言って、能力があるからといっ

て、やりたい放題していいんですか? 競争なんか関係な

く、その社会で必要とされる仕事を真面目にやってきた人

が、有無を言わさず潰される。ほんとに能力があるのなら、

他人も喜ぶ様に考えられるんじゃない? それが、出来ない

のなら「賢い人」とはいえません。「アタマが悪い」ただの

エゴイストです。


 ですから、“成長”を考えるなら、「自分と周りの幸福に資

する」ことでなければなりません。

 その為、「どの能力を伸ばすか?」以前に、「どの方向へ

向かうか?」をよく吟味しなければなりません。


 「人を思い通りに操って、大金持ちになるぞ!」と考え

て、ディベート術や心理学を学ばれては堪ったもんではあり

ません。


 「なんでひとの幸福まで考えなきゃいけないんだ。自分が

幸せだったらそれでいいじゃないか」


 という人間はどこにでもいます。そういう人間は、そもそ

もこんなブログなんか観ません。そういう連中はお互いに戦

っていればいい。折伏なんか出来ないし、そんな暇も義理も

無い。わたしたちは、そういう人間に引き込まれて利用され

ない「賢さ」を身に付けて、自分たちだけで、勝手に幸福に

なればいい。(サイコパスなんて、どうしようもないん

ですから)

 むしろ、そうすることだけが、利己的な人間の力を削ぐ方

法です。

 エゴイストは人を利用しなければ、自分の欲望を達成する

ことが出来ません。人がひとりで出来ることは、人ひとり分

でしかありませんし、エゴイストの望みは、自分の外にある

のですから。(エゴイストは人を利用すること自体が、面白

いのです)

 
 わたしたちは、“自分の今”に喜びをもたらせる様な「賢

さ」を持ちましょう。その為に科学が必要なら、科学を学べ

ばいい。哲学が必要なら、哲学を学べばいい。宗教が必要な

ら、宗教を学べばいい。ただ、方向が間違っていてはどうに

もならない。ネオンサインや広告に誘われて道を逸れてはい

けません。   「ストイック」という誘惑だってありま

す。


 《 人を利用する人間と、

     人を攻撃する人間には、成ってはならない 》
   

 それが、教育の基本だと思いますね。

 日本は、「アタマの良さ」を目指して来て、へんな具合に

って来たので「“道徳”を教科にする」なんて、また変な事

始めてますけどね。

 そんな事するより、「人を利用しない」「人を攻撃しな

い」という前提で、教師や親たち、周りの大人が子供に接し

ている方がいいと思いますけどね。

 「賢さ」って、教えるものではなくて、形作られるものな

んじゃないでしょうか?



 “ 彩色されてゆくことだけで

   それを 成長と呼ぶのなら
  
   ぼくは 彩りを 拒むことにしよう ”

            「思い込み Ⅱ」 小椋 桂

2017年5月23日火曜日

今のままではいけない?




  わたしたちは、「比較病」です。

 この病気をなんとかして、“自分であること”に落ち着ける

ようにしないことには、心安らかに過ごすことはできませ

ん。

 わたしたちは、生まれてからずっと「今のままではいけな

い」と周囲からプレッシャーを掛けられて育ち、自分自身で

も「今のままではいけない」と思うのが習い性となります。

 それは、“自分の能力”に関してだけではなく、健康や嗜好

なども対象となり、素直に“自分であること”が出来なくなっ

ています。

 確かに、「今のままではいけない」という事だってあるで

しょう。反社会的な行動が止められないとか、薬物依存と

か、「止めなければ破滅する」と言う状況なら、なんとかし

なければなりません。しかし、わたしたちが「今のままでは

いけない」と感じることのほとんどは、よくよく考えてみれ

ば「今のままでも良くない?」という類の事じゃないでしょ

うか?

 そのようなことを、「今のままではいけない」と思ってし

まう癖を付けられているんですね。

 「今のままではいけない」のでしょうか?



 将来へ向けて、「今の自分の状況を変えよう」と想う時、

二つのパターンが考えられます。

 一つは「今のままではいけないから変えなくちゃ」という

ものですね。

 もう一つは「今のままでもいいけれど、今よりもまだ良く

なるんじゃないか」というものです。

 この二つは、“今”に対して否定的か肯定的かという事で、

一見違うように見えますが、実は両方とも“今”を否定してい

ます。

 前者は「今、欠けているものがある」という評価で、後者

は、「今、足りてはいるけれども、さらにプラスしたい」と

いうことで、かなり違うようですけれども、後者も“今”を少

し未来へずらした想定で語っているだけで、“今”に満足して

いないことに変わりはありません。

 普通に考えると、後者は前向きな様に思われますね。です

が、「足りてはいるけれども・・・」という表現は、「実は

足りていない」という気持ちを偽装していると見るのが正し

いでしょう。さらに言えば、「実は足りていない」というよ

り、「『足りている』と思ってはいけない」という根の深い

刷り込みが隠れていると思います。どちらかというと、後者

の考え方の方が、症状としては深刻ですね。



 「今、欠けているものがある」場合、「生活費が足りな

い」とか「視力に障害がある」といった様に、実際に生きて

行く上での問題となっている事が有り得ます。ところが、

「今のままでもいいけれど・・・」という考え方の場合、永

久に満足できない可能性があります。これは、極端な言い方

をすれば、“不安障害”と言えるものかも知れません。


 “前向き”、“プラス思考”、“向上心がある”などという印

象がありますが、その裏には現状への不安が隠されていま

す。その様なメンタリティーを生むのは、「『足りている』

と思ってはいけない」という世の中からのプレッシャーで

す。マインドコントロールと言ってもいいでしょう。個人

が、世の中によって  先に生まれた者によって  徹底的

に癖付けられています。

 もっとも、誰にも悪気は無いのでしょう。「自分がその様

にされてきたから、自分もそれで正しいと思ってる」だけな

のでしょうし、「足りなかったものが、手に入った!」と思

えた時は、何がしかの満足感があるでしょうから、「今、足

りない」という思考パターンが、より幸福度を高めるという

様にも思えることでしょう。でも、それは錯覚です。
 

 現状を否定することで、「現在はマイナス」と意識に思わ

せ、そのマイナスを埋めることが出来ると、「足りた」と思

うというやり方ですが、そもそも何故 現状を否定する必要

があるのでしょう? 先に書いた様に「このままでは破滅す

る」という状況なら仕方がないですが、普通に暮らせている

状況であるのに、他人や、自分の理想と較べて現状を否定す

る。

 何故、現状を否定するのでしょう?

 何も問題が無いところに、自分で問題を作り出して、その

問題を解決する為にエネルギーを費やす。こういうのをマッ

チポンプと言うのですね。

 ホントにわたしたちは、「今のままではいけない」「『足

りている』と思ってはいけない」を徹底的に刷り込まれてい

ます。「今のままでいい」と思うことに罪悪感さえ感じる様

に、教育が行き届いています。それ故、“今”を肯定すること

が出来ない。何故なんでしょう?

 その原因は、経済に有ると私は思います。


 縄文時代の人々が、「今のままではいけない」と思ったで

しょうか? (生存に関わることは別ですよ)

 そんな、複雑で面倒な生き方はしていなかったことでしょ

う。

 ポリネシアやミクロネシアあたりの人や、イヌイットの

人々やマサイ族の人達が、日本人やアメリカ人ほど、「今の

ままではいけない」と思うでしょうか?(バカにしているの

ではないですよ。分かってもらえると思いますが)

 日本人よりもずっと、“今”に満足することが多い様な気が

します   あくまでも個人の感想です。

 今に満足出来ない様に刷り込まれているのは、経済を動か

す為には“満足”が障害になるからです。満足してしまうと、

人間は行動しませんからね。一番分かり易い例は、お腹が膨

れれば、もう食べたくなくなるということでしょうが、他の

事でも同じで、経済にとって“満足”は敵です。


 権力者にとって一番必要なのは、資本です。資本がなけれ

ば、人々を支配できません。

 資本を増やすことで、人をコントロールする力を得、人を

コントロールすることで、さらなる資本を得る。

 その為に、人の“不安”と“不満”を煽ることで、人に消費行

動を起こさせ、消費する為の資金を得るために、働くように

仕向ける。このようなやり口が、何千年も前から文明化した

土地で行われ、それが地球上に拡大して、いつのまにか人の

本性のようになってしまったのでしょう。


 コマーシャルを見ると、そこにあるメッセージは大抵同じ

です。

 「これをしなければ、損ですよ」

 「これを持たなければ、困りますよ」

 「こんな風にしなければ、遅れますよ」

 「こうした方が、得ですよ」

 みんな、現状否定です。

 当たり前ですよね。現状肯定では、誰も動いてくれませ

ん。広告は、脅かすのと不満を持たせるのが商売です。

 そうやって、わたしたちは“不安”と“不満”を不必要に持た

され、較べることを仕込まれ、お互いを較べ合い、“今”に満

足することが出来なくなってしまう・・・。
 

 『リアルマトリックス』という回で書きましたが、権力者

が “手段” として使い始めた「経済」ですが、もはや「経

済」がひとり歩きして、権力者までが「経済」に支配されて

しまっています。
 

 《 わたしたちは、自分に満足し、

   今に満足することを取り戻さなければ、

   死ぬまで“経済の捨て駒”でいなければなりません 》
 

 「経済」を「世の中」と言ってもいいですし、「経済」と

言っても、お金の事だけではありません。人のエネルギーの

収支でもあります。


 そして、「自分に満足し、今に満足する」ことは、憶える

のでは有りません。取り戻すのです。いや、想い出すと言う

べきでしょうか。
 

 自分で想い出すしかありません。

 「はい。これだよ!」と誰も差し出してはくれません。

 今の自分を振り返って、「本当に必要なことは、たいして

無い」。「実は、何も不足していない」。ということを自分

で確かめるしかありません。
 

 わたしたちは、永い永い宇宙の歴史の中で、“今” しか存在

していません。これっきりです。もう、二度と存在すること

は有りません。そんな “自分” が「経済」という“ただのシス

テム”の捨て駒にされるなんて、あまりにも、もったいなさ

過ぎる。生命を冒涜していると思います。

 「経済」は人間の道具に止めておくべきです。

 その智慧は、まだ人間に残されていると思います(と思い

い・・・)。
 

 幸福は “今” にしかありません。





2017年5月19日金曜日

格差社会を生むもの




 「日本の社会に格差が拡がった」と言われだしてから何年


ぐらい経ったのでしょうか?

 私なんかは、元々「格差」の低い方に居る人間ですから、

取り立てて「格差が拡がった」という実感はありません。で

も、経済的に苦しい状況にある人達が増えているのは、本当

の様ですね。


 この様なことが起こるのは、人間社会の性質上、避けられ

ないことだと思うんです。

 わたしたちには、“比べる癖”がついています。

 癖がついているというより、「比べることを、叩き込まれ

ている」と言うべきでしょうか。

 生まれた時から、「健康そうか?」「身体の大きさは?」

「よその子より可愛いか?」「賢いか?」と親や周りの大人

達に評価され、ちょっと大きくなると「成績はどうだ?」

「運動会で一等を取れるか?」「脚は長いか?」「絵は上手

か?」と他人からも小突き回され、さらに大きくなると「い

い学校に入れるか?」「いい会社にはいれるか?」「金をた

くさん稼げるか?」「いい結婚相手を見つけられるか?」と

際限なく比べ続けられます。

 こうして、他人や過去の自分や理想の自分と比べられ続け

れば、比べることが習い性になって当たり前です。

 そして、“他人と比較して自分が上だと思える時にだけ、

自分を肯定できる”というパーソナリティが出来上がりま

す。


 《 しあわせとは、自分を肯定出来ること 》

と、以前書きましたが、わたしたちのほとんどが、他人と比

べて優れていると思うことでしか、自分をしあわせだと思え

ない様に出来ています。

 その様な人間たちが、数限りなく集まって、この社会を作

っているのですから、人々は常に他人と比較し合って生きて

います。そして、“より、しあわせを感じる”為には、「他人

より優れている度合が、大きければ大きい程良い」というこ

とになり、限りない上昇志向が生まれます。

 そうやって、アグレッシブで尚且つ能力のある人間が、社

会の中で上に行き、今の様な経済優先の世の中では、巨額の

資産をもつことになります。

 そして、あらゆる情報が入ってくる現代では、比較する対

象が無限です。

 過去の人達や地球の裏側の人達。さまざまなジャンルやレ

ベルの人達の情報が入ってきて、簡単には自分に安住するこ

とが出来なくなっています。その為に、上昇志向は限度を知

らぬものになり、能力の高い者はさらに富を増やすことに囚

われて、搾取することに対する感受性が消え去ります。

 その結果として、「格差」が拡がるだけでなく、世の中に

あふれる情報に侵され、「格差が拡がっている」という意識

も持ちやすくなっているのでしょう。



 けどですよ、ちょっと前まで「サラリーマンの生涯賃金は

二億円」と言われていましたから、今の日本では、六十歳ま

でに二億円稼げる人ならば、この国で(この、豊かな経済大

国で!)十分に満ち足りた暮らしが出来るわけなんです。そ

れなのに、実感出来ないような額の資産を持ちたがる人間が

いる。ああいうのって、病気でしょう? 「比較病」です

よ。

 ああいう連中に、自分の「比較病」を意識させて、搾取を

辞めさせればいいんでしょうが、実際的な方法はないでしょ

うねぇ。依存症の治療は難しいですものね。

 所得税と相続税の累進率を、恐ろしい程上げたりすればい

いんでしょうが、そうすると他所の国へ逃げるだけですし

ね。


 「働けど働けど、なお我が暮らし楽にならざり」と石川啄

木は言いましたが、貧困は今に始まった事ではないですね。

 その国の生産力と政治の在り方にもよるんでしょうが、世

の中が本質的に持っている性質ですね。「格差」がなけれ

ば、世の中は停滞するのでしょう。



 《 すべての物は、勾配によって動く。

   温度の勾配、圧力の勾配、重力の勾配・・・。

   人の世が動くのは、差別の勾配による。》
           

                 ・・・なんだかなぁ。


 しかし、世の中が停滞したってイイと思うんですけどね。

世界規模なら。  日本だけ停滞したら、すぐに食い潰され

ちゃうでしょうからね。「嫌な渡世だなぁ」(座頭市 談)



 どうにもなんないんだよね。

 『世の中(をまともにやってる奴ら)を、

      どれだけ嘲笑るか?』って話なんだろうねぇ。

 「ホント、ビョーキだね!」って。



 * 「比較病」というのは、浄土真宗の藤原正遠(しょう

おん)というお坊さんの言葉です。

2017年5月18日木曜日

真実はいくつ?

 真実はひとつなのか?

 ニュースを見ていると、事件や事故が起こるたびに出てく

るのが、「真実を明らかに・・」とか「事実を知りたい」な

どという言葉ですね。

 毎度々々のことですが、その度に「そんなこと分かるか

よ」と突っ込んでいる自分が居ます。


 広辞苑を引くと、〈真実〉は「本当のこと」で、〈事実〉

は「本当の事柄」となっていて、どちらも同じ意味と捉えて

よさそうですが、真実なんてあるのでしょうか?


 私が道で転んだとします。

 周りで見ていた人にとっては、「私が転んだ」のは事実で

す。しかし、その話が第三者に伝わった場合、それが真実か

どうかはわかりません。

 ニュースになるような事件についても、わたしたちは第三

者です(そうありたいです)。それを報道するマスコミも第

三者です。さらに、それを捜査する警察も、裁判官も弁護士

も検察官も第三者です。いったい、第三者に真実など知るこ

とが出来るでしょうか?


 真実を知っているのは当事者だけです。場合によっては、

当事者さえ真実が分からない事もあります。ましてや、第三

者には真実は知り得ないと、私は思います。わたしたちが知

りたがるのは、真実ではなく、「納得のゆく説明」でしょ

う。

 実のところ、わたしたちは〈真実〉なんか求めていませ

ん。わたしたちが、求めているのは「自分の気に入るストー

リー」でしかありません。なぜなら、わたしたちが、ある出

来事について公の説明を聴いた場合に「本当にぃ~?」と、

訝しむ事がよくあるからです。

 公に説明されたのだから、納得すればいいではないです

か。なのに、不満をもらす。疑いの目を向ける。なぜでしょ

う?

 それは、わたしたちは「自分が知りたい様に、知りたい」

からです。自分の都合のイイ、自分がスッキリする話でなけ

れば、〈真実〉と見做さないからです。


 人が自分との約束を違えた時、「騙された!」と最初に思

ってしまえば、その後にどんな説明があっても、「騙され

た」という前提から離れて聞くことは出来ません。「騙され

た」という自分のストーリーに沿った形でしか、話を聞けま

せん。そこから逃れるには、かなりの努力が必要です。


 わたしたちが、真実より〈ストーリー〉を欲しがる理由の

一つに、“被害者になりたがる”ということがあるでしょう。

 わたしたちは、“被害者”になることによって、“加害者”に

対して補償を求める権利を持つことが出来、“加害者”より上

の立場に立つことが出来ます。

 わたしたちは、社会の中で“加害者”と見られることを怖れ

ます。“加害者”となることは、社会的に「負債」を抱えるこ

とになるからです。ですから、自分が当事者であっても、第

三者であっても、「自分が“被害者”(または、そのグルー

プ)になるストーリー」を求めます。   昨今の「クレー

マー」の多さは、社会の管理がきつくなり、社会的に弱さを

感じている人間が増えてきた事によるのでしょう。

 「自分を“被害者”の立場におくことで、安定を得たい」

 そうした人間の欲求がある中で、〈真実〉は、都合の良い

時しか出る幕はありません。


 また、真実より〈ストーリー〉を欲しがる、もうひとつの

理由に、“勝者になりたがる”ということもあります。

 当然ながら、自分を“勝者”だと思えれば、社会的な安定感

が増しますからね。


 そのような、強固なバイアスを持ったわたしたちにとっ

て、「本当の真実(!)」を見ることは、ほとんど不可能で

しょう。

 ある一つの事柄について、当事者どうしでも、第三者にあ

っても、各々に“自分に都合の良い真実”があるのでしょうか

ら。

 さて、真実は何処にあるのか? 真実はひとつなのか?


 テレビのニュースキャスターが「真実が明らかにされるこ

とを願います」などと言うたびに、「シラ~っ」とした気分

になってしまいます。不可解な事件なんかが起きると、納得

のゆく話を聞きたいとは思いますが、キャスターが納得する

話と、私が納得する話が同じかどうかは分からない。勝手に

視聴者を代表するようなコメントはもうウンザリです。ま

ぁ、「真実は分りませんが、説明は聞きましょう」と言う訳

にもいかないでしょうが、「捜査が進んでいます」とか「ど

の様な判決がでるのでしょうか」ぐらいで止めとけば、と思

いますね。
  

 《 事実は小説より、疑(ぎ)なり 》


 困ったもんですねぇ。








 

2017年5月15日月曜日

止むに止まれぬ人生よ。

 「同時相関相補性」という言葉を前回使ったんですけど、

この言葉は、橋本敬三先生というお医者さんが、ご自身の著

書の中で使われていた言葉です。

 橋本先生は、もう二十年以上前にお亡くなりになられてい

ますが、仙台で長く開業医をされていた方で、「操体法」の

創始者として知られています。

 「操体法」というのは、一人で、あるいは補助をする人と

二人で行う身体の調整法といったもので、自力で体を動かし

ながら、簡単な方法で様々な身体の不調を解消できるもので

す。

 その根本を成す考え方は、「気持ちの良い方に動けば、身

体は良くなるように出来ている」「気持ちの良い事なら何を

しても良い   ただし、後味が悪くないこと」というもの

で、私は三十年以上前に「操体法」に出会って、それ以来ず

っと、身体の不調があると「操体法」をして自分で治すとい

う事を行って来ました。


 でも、ここではこれ以上「操体法」の実際には触れませ

ん。

 「操体法」の実践以上に、私が橋本先生から影響を受けた

のは、「気持ちの良い事なら何をしても良い   ただし、

後味が悪くない事」ということと、「同時相関相補性」とい

う考え方でした。

 これらは、身体について橋本先生が語られたことですが、

私は「人と世界の在り方」の基本原理、という受け止め方を

したのです。私は橋本先生の著書を拝見しただけで、お目に

かかった事はありませんが、先生ご自身も、その様に考えて

おられたに違いありません。

 「気持ちの良い   」「同時相関相補性」という考え方

は、私の”人”と“世界”に対する認識に、決定的な影響を与え

ました。 

 「生き物は、“快原則”に従うことで、より良く生きられ

る」ということが一つですが、それ以上に大きかったのが、

「同時相関相補性」でした。

 これを、言い換えると「同時に繋がりあって動く」という

ことです。

 そして、「動き」は時間の繋がりの中に有りますから、一

つの「動き」は次の「動き」に繋がり、時間と空間の中を無

限に連鎖して行くことになります。

 
 宇宙が動き始めた時から、その動きは途切れる事無く関わ

り合いながら、星々を生み、地球を生み、生命を生み、人間

を生み出して来ました。

 その動きの必然として、地球独特の風土(環境)が生まれ

て、その風土の影響によって人間の文化が生まれて来まし

た。そして、「人間が文化を生み、文化が人間を動かす」と

いう「相関相補」状態が続いています。

 《 世界は惰性で動いている 》などと、私が言い出した

のはここからですが、この考えが「仏教」の「縁起」の考え

だという事を後で知ることになりました。

(もしかすると、少し違うのかもしれませんが)


 そのように、「すべてが繋がり合っている」という風に考

え始めると、「繋がり合っている」わけですから、「すべて

は一つ(一体)」という話になり、「自分はどこ?自分はど

れ?・・・自分は無い。」ということになってしまいまし

た。

 まぁ、個体としての「自分」はあるんですけどね。「自

分」というものは、周りの存在があって初めて意味を持つわ

けで、完全に孤立してしまえば居ないのと同じですから、

「自分」というものは、世界の一部分としてしかありえない

ですね。

 その結果、“我を張る”自信なんか無くなってしまったので

す。“自分を信じる(自信を持つ)”ことなど出来ません。


 おかげで、ずいぶん謙虚になれました。(自己評価で)


 「自分の思い通りにしたい」などということは、まず考え

ませんね。「思い通り」と言ったって、その「思い」がホン

トに自分から生まれて来ているのなら、「自分の思い通り」

ですが、どのような「思い」も何かの影響でしょ? 自分が

世界の外にある訳じゃないですから。

 どんな服を着るかだって、その日の気温や天気、出かける

場所と会う人、今の流行りや気分で決まってきてしまう。そ

れを、「自分の選択」と人は言いますが、私から見れば「状

況による誘導」です。

 そんなことですから、私はこう思っています。


 《 みんな、止むに止まれず生きている 》


 誰もかれも、何か根拠のある考えがあって行動しているの

ではありません。何かに動かされ、止むに止まれずに何かを

しているのです。


 「北朝鮮がまた弾道ミサイルを撃った」と、昨日からマス

コミなんかが騒いでいますが、何の為にあんな事をするの

か、やってる方も周りも、本当は分からないんですから、差

し当たり放っときゃいいんだと思いますがね。(実害が出そ

うになってからでいいんですよ。だって、日本は実害を受け

るか、実害を受けるのがほぼ確実にならないうちは、何もし

てはいけない事になってるんですから、出来る備えだけしと

いて、黙って見てりゃぁイイ)もし、私の頭の上に落ちて来

たら、シェルターがあるわけじゃないんで、天命だと思って

死ぬだけです。交通事故よりは、確率は低いでしょう。


 「自分の思い通り」は無い。と知らされてから、「思い通

りにしよう」と思わなくてよくなったので、すごく楽になり

ました。大きなヒントを与えて下さった、橋本先生には感謝

しています。 


 「日本人が抽象思考をする時に使う言葉は、ほとんど仏教

用語なので、日本人が抽象的なことを考えると、おのずと仏

教になってしまう」と言われたのは、養老孟司先生ですが、

やっぱり「お釈迦様の掌の上」なんですね。私も。
 

 どこまで飛んでも、“飛んだつもり”なだけです。

 ひとりで勝手に、嬉しがったり、怒ったり、悔しがったり

しているだけ・・。ほんと、人間はご苦労さんです。




2017年5月14日日曜日

時代に殉ずる

 《 すべての生命は風土に殉じ、

       すべての存在は時代に殉じる 》


 日本は温暖で多湿。植物の種類も多いので、高山か、よほ

どの崩れ易い急斜面でなければ、裸地になってもすぐに植物

が生えてくる。街中でも、空き地を7~8年放っておけば、

ちょっとした森になってしまう。

 そうなるのは、日本の四季に適応出来るたくさんの植物種

が存在するからなんですが、これらの植物たちも、もし日本

の気候が極端な温暖化や寒冷化をしたら消えてしまいます。

 つまり、植物はその土地の「風土」が合っていなければ、

生きられないんですね。

 この場合の「風土」とは、気温・水分の多寡・土壌の質と

そこに含まれる成分・光量・大気の成分・外敵の有無です

が、その内のどれか一つでも違えば、適応出来る植物の種類

は変わってしまいます。(ある程度の幅はありますが)

 他の生物の場合でも、「風土」の中に、餌になる物の有無

が加わるというだけで、その生物に合った「風土」でなけれ

ば、生きられません。

 人間は「風土」を自らに合うように、かなり大きく改変し

たり、直接の影響を回避したり出来るので、本来は生きられ

ない所でも生きられたりします。しかし、それにも限界はあ

って、エベレストの山頂や海の中、宇宙ステーションなどに

は、少しの間滞在することが出来るというだけです。

 これらの場所に滞在する為には、「人の生きられる風土」

を持ち込む必要があります。宇宙ステーションや潜水艦の中

は、「人の生きられる風土」の簡易版です。

 さらに、“文化”も「風土」に殉じます。“文化”というの

は、人間という生物の行動様式の類型ですからね。

 例えば、“日本文化”は「日本の風土」がなければ、残りま

せん。インドネシアに“日本文化”を持ち込んだとしても、

「インドネシアの風土」に影響されて、違ったものになって

行くでしょう。また、サハラ砂漠で“日本文化”は可能でしょ

うか? 水も木も手に入れ難い所で、“日本文化”は成立しま

せん。“文化”は、「風土」を骨格にして形造られます。

 そして、そこに住む人々は“文化”の影響の中で暮らさざる

を得ません。継続的にも、刹那的にも「風土」に既定された

中で、感じ、考え、行動しているのです。



 ここまでは、常識的な話です。では、「時代」に殉ずると

はどういうことでしょう?

 *江戸時代に、私が生まれてもブログをやることは出来ま

  せん。当然ですね。
 
 *昭和初期の平均寿命は、50歳ぐらいでしょう。

 *景気がよければ、景気が良いなりの暮らしになり、不景

  気だと、不景気なりの暮らしになります。

 *40億年前に、生命が生まれる事はできません。

 *氷河期の北海道に雨が降ることはできません。(と思い

  ます)

 *50億年後に太陽系は存在できません。

 *今と全く同じ銀河は、明日は存在しません。
 

 今、この時の状態は、今しかありません。

 宇宙のすべての存在は、変化することを免れません。

 その存在の在り方は、その時々の、その瞬間の、相互の在

り方に既定されます。これを、「同時相関相補性」と言いま

す。

 すべての存在は、時代(厳密には瞬間ごとですが)によっ

て、動くことも、動かないことも制限を受けます。

 何物も、それだけが独立して動くことは出来ません。

 そもそも、「動く」という事自体が、他との相対的な観念

です。冥王星と海王星の間あたりに、一人で放り出された

ら、時速5万キロで動いていても、自分は止まっている様に

思うでしょう。これは逆に、他が動けば、自分が動いたのと

同じことです。自分だけが止まっている事も出来ません。

 「諸行無常」ですね。


 何の為に、こんなことを言っているかというと、わたした

ちは、「自分たちの考えで、時代を変えられる」と思ってい

るふしがあります。(ずいぶん遠慮した言い方だ)

 自分たちで、時代を変えることは出来ません。

 時代を変えようとすることも、時代に促された行為だから

です。わたしたちが時代を超えることは、出来ません。
  
 「時代」とは、その時々の変化を支配する大きな流れだか

らです。


 孫悟空が、お釈迦様の掌の上から出られなかったように、

全ての存在は「時代」の流れの中で、「時代」によって動か

されて行くのです。 


 真夏の東京のオフィスの一室でエアコンを使わずには居ら

れません。(かなり、やせ我慢をすれば出来るかも) で

も、これが50年前だったら、扇風機だけでも、あるいは扇

風機無しでも居られます。実際にそうでしたからね。 

 わたしたちは、「風土」と「時代」に殉じているのです。