2017年5月9日火曜日

孤独死という、おせっかい。

 気が付いたら、投稿が40本になっていました。早いもんで

す。いまだ、誰の目にも触れていないのは残念ですが、その

内に物好きな人が、偶然迷い込んで来るでしょう。

 なので、気楽に今日のテーマに参りましょう。

 今日のテーマは「孤独死」です。 ・・・・。


 「どこが気楽なんだ!」って話ですが、「孤独死」という

言葉の深刻さに、違和感があるんですよ。私は。

 なので、「孤独死」という言葉の使い方を整理して、本来

は深刻ではない部分を、「孤独死」という言葉から救い出し

たいと思うんです。気楽であるはずの部分を、あるべき場所

へ。


 そもそも、「孤独死」という言葉は「阪神大震災」の後、

仮設住宅や災害復興住宅で、一人暮らしの高齢者が、誰にも

看取られずに亡くなるケースが相次いだのを受けて、マスコ

ミか自治体か災害支援NPOあたりが生み出したものでしょ

う。それまでには聞いたことがありませんでした。

 今では、災害に関係なく、一人暮らしの人が誰にも看取ら

れずに亡くなると、「孤独死」と言っている様ですね。

 そして、「孤独死」という言葉には、「淋しい」「気の

毒」「悲惨」「現代の暗部」「不幸」みたいなイメージが被

せられています。けど、ほんとにそうなの?

 何故、《 独りで死ぬ=孤独死 》なの?

 何故、《 独り=孤独 》ということにしちゃうの?

 病院や、家族の居る家庭で死ななかったら不幸なの?

 なんで、他人が“人の死”を勝手に評価して、「孤独死」な

んてレッテルをはるの? 大きなお世話でしょ。 

 “人の死”を「これは、良い死に方」、「これは、可哀相な

死に方」、「これは、酷い死に方」なんて勝手な基準で振り

分ける。「アンタいったい何様なんだよ」って言いたくなる

んです。


 そりゃあね、普通に考えて「酷い死に方」ってあります

よ。テロリストに惨殺されたりね。「気の毒な死に方」もあ

りますよ。幼いわが子を残して、親が癌で死ぬとかね。

 でも、「孤独死」と呼ばれるケースの場合。大抵は脳卒中

や心筋梗塞だったり、持病の悪化でしょう?

 そして、その多くは高齢者だから、「平均余命」前後の年

齢で亡くなるわけでしょ? 普通じゃない?

 「死ぬとき、独り」というのが“優しくて、親切な人た

ち”には気に入らないんでしょうが、これだけ核家族化が進

んで、その事を国も気にしていないし、当の高齢者たちも

「気楽でいい」とか「子供の世話になりたくない」などと言

って、良しとしている事が多いんでしょう? だったら、

「死ぬとき、独り」になる事が増えるのは、当然でしょう。

いったい、何が問題なんでしょう?
 

 場合によってはね、本当に「孤独死」と呼ぶべき気の毒な

ケースもあるでしょう。

 東日本大震災と原発事故のせいで、今まで一緒に暮らして

いた家族が、一時的に離れて暮らさなければならなくなっ

て、そうこうしているうちに、独り暮らしになった高齢の親

が、自室で倒れてそのまま亡くなってしまう。そんなケース

は、いくつかあった事でしょう。気の毒なことです。

 しかし、ニュースで流れたり、行政が「孤独死」とカウン

トするものの殆どは、ただ「死ぬとき、独り」だっただけの

事でしょう。

 もちろん、独りで亡くなった人の発見が遅れると、現場は

より大変になるでしょうから、その対策は立てるべきだとは

思いますよ。でも、40~50代の人の「孤独死」というのも

けっこうあると聞きますから、「見守り」とか云っても、ど

こまで入って行けるのか? 入って来られたくないという人

も多いでしょうし。



 それでも、「そんな死に方は嫌だ」「独りで死にたくな

い」という人は居るでしょう。そういう人は、生きている内

から、そうならない様な繋がりを持つように、手を打ってお

けばいい。でも、そんな人ばかりじゃない。「別に人と交流

を持たなくていい」「むしろ、独りがいい」「死ぬ時も独り

で構わない」という人だって、今の日本にはかなり多い筈で

す。(私の母親がそうでした。「孤独死」ではなく、病院で

死にはしましたが)

 なのに、「死ぬとき、独り」だったら、それだけで「孤独

死」というカテゴリーに入れられる・・。ずいぶん乱暴で、

無神経で事務的な扱いだと思いますが。



 そこにあるのは、一見、気に掛けて心を寄せている様に見

えながら、実は紋切り型の浅い考えで、一人の人間の死をひ

とつの視点からしか見ていない、“表面的な思いやり”だと感

じます。

 一人の人の死には、一つの人生があったということで、そ

こには様々な考え、想いがあったわけです。「『死ぬとき、

独り』でも、それで満足な人だったかも知れない」。そんな

風に、たとえ少しでも、その人が生きて来た事に想いを寄せ

る気持ちがあれば、「孤独死」なんてレッテルを貼れるわけ

がない。大体、「孤独死」なんて言葉が必要か?


 自分が死んで、「孤独死」と言われたら嬉しいですか?

 そんな仕分けされたくないでしょ? 失礼です。


 人と賑やかにしているのが好きだった人が、残念ながら独

りで死ぬ事になってしまっても、「孤独死」なんて言葉を使

う必要はないでしょう。「気の毒だったなぁ」「残念だった

ろうなぁ」と思ってあげれば、それでいいじゃないですか。

 独りが好きな人が独りで死んだら、それこそ「孤独死」な

んて言葉を使うもんじゃない。「おせっかいは、止めとく

れ」。




 「孤独死」なんて言葉、誰に必要なんでしょう?

 そういうレッテルを貼ると、マスコミなんかが扱い易いと

いうだけだと思う。「死ぬとき、独り」の当人には、そんな

こと関係ない。むしろ、そんな言葉を作ることで、考え過ぎ

て不必要に暗くなる人々を生み出しただけでしょう。

 マスコミや宣伝屋は、おどかすのが商売ですからね。

 ほんとに、人をなんだと思っているのでしょう。
 

 そもそもの話、 周りに家族が居ようが、医者や看護師が

居ようが、死ぬ時は独りで死んで行くのですし、どんな死に

方を望んでいても、実際に死ぬ時にどういう死を迎えるかな

んて、誰にも分からないのです。

 「孤独死」とか「見守られ死」とか、死に方をあれこれ考

えて優劣をつけるより、どのような死に方であっても納得し

て受け入れられる様に、生きている内から死と向き合って、

自分なりの考えをまとめておいた方が、より良く生きて、よ

り良く死を迎えられると思う。



 そして、死を見る方も、死に方がどうかなんて本筋の事じ

ゃないんだから、良かったか悪かったかとか言うより、「ご

労さん」「お疲れ様でした」とか思って、手を合わせてあ

ればそれで良いんじゃない。


 《 “独り”は、孤独や孤立とは限らない。

   それは、気高い“独立”かも知れないのだから。 》 
   

 《 独り=孤独=淋しい 》の、幼稚で単純な“お手軽思

考”だけは、辞めにして貰いたいですね。



 人は必ず死ぬのです。


 どれほど大勢の人たちに囲まれていたとしても、本当は独

りです。独りで生きて、独りで死んで行くのです。

 その「孤独」を「独立」に変えるのが、本当に持つべき人

の智慧であり、人が本当に成すべきことでしょう。


(「独立」といっても、社会的な意味ではないですよ)




 ちなみに、私の場合は、その辺の河原の草むらなんかで倒

れて、青空を見上げつつ、スズメの声でも聴きながら死ぬの

が理想的ですけどね。気持ち良さそうです。 (まぁ、なん

でもイイんですけどね)
 
 


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