2017年5月5日金曜日

退屈を味わう

 人は何故パチンコをするのか?

 退屈だからです。

 「当たり前だ」って?

 そうですね。当たり前ですよね。まぁ、依存症にまでなっ

ている場合は別として、人がパチンコをするのは退屈だから

と言っておいて間違いではないでしょう。では、ゲームをす

るのは?

 やっぱり、退屈だからでしょう。

 パチンコ、ゲームに限らず、おしゃべりをすることや、テ

レビを観る事、スマホ、スポーツ、映画、コレクション、

様々な趣味など、人がありとあらゆる遊びに興じるのは、退

屈したくないからです。

 人は退屈することを、とても嫌います。ほとんど生理的に

と言っていいほど、退屈を避けようとしているようです。

 色々な科学・学問の進歩や、文化・経済の発展、政治とそ

の極端な手段であるテロ・戦争まで、その根本的な理由は退

屈から逃れる為だと言ってよいでしょう。

 ソフトバンクの孫社長が、2016年度の業績についてイ

ンタビューを受け、日本国内の通信事業は「退屈だけど、順

調」と答えたそうです。

 あれほどの大きなビジネスをやって、業績も上げて大儲け

しているのに、「退屈だ」そうです。

 この発言の裏を返せば、孫氏にとってビジネスは“退屈し

のぎ”だということですね。

 何か実質的・本質的な理由があってビジネスをしているの

ではないのです。色々な理由・目的があると御本人は言われ

るでしょうが、そんなのは後付けだと思いますね。はっきり

言うと、興奮するんでしょうね。「ドーパミン中毒なんだろ

うなぁ」と思います。あそこまでやると云うのは。

 なにも、孫氏に限った事ではなくて、多くの事業家、特に

自分で起業した経営者は、退屈を嫌うが故に刺激を求め、ド

ーパミンやアドレナリンの快楽に取り込まれてしまうのでし

ょう。

 事業家だけの事ではなく、スポーツマン・冒険家・政治

家・博徒などは、刺激を求め、刺激から得られる脳内の快感

物質に捉えられてしまっている事が多いのでしょう。その大

元の原因は、退屈を嫌うことだと思います。

 退屈はお好きですか?

 嫌いですよね?

 「あ~ぁ。退屈だ~!」と言って喜んでいる人を見た事が

ありません。

 退屈は、つまらない芸人の様に嫌われています。(同語反

復です)

 何故、人はそれほど退屈を嫌うのでしょう?

 何故だと思います?

 「退屈は退屈だから」。

 そんな答えが出そうですが、  それもありだと思います

  実は、人が退屈を嫌う本当の理由は、怖いからです。

 退屈は怖い?

 その理由を説明します。

 人が何もすることがなく、じっとしていると、一体どうす

るでしょう?

 じっとしているのですから、身体は動かさないのです。そ

うすると、動かすのは当然、頭だけです。ところが、こうい

う状況に置かれると、人は往々にして眠ってしまいます。こ

の、眠るという行為も「退屈を怖れる」が故のものです。

 では、眠る事も無く、じっとしていると頭は何をするか?

 仕事の事とか、しなければならない事を考えるのは除きま

す。それらは「何もすることが無く」という前提に触れます

から。そうなると、頭がする事は「妄想する」か「来し方行

く末を考える」か、どちらかになります。(ちなみに、現在

を考えることはありません。現在は考えるものではなくて、

対応するものだからです)

 しかし、「妄想する」は映画を観たり、小説を読んだりす

るのを自前でやるようなものなので、遊びのひとつです。

 結局、何もする事が無い時に人がする事は、「来し方、行

く末を考える」事だけになります。考えてしまうのです。


 考えてしまうでしょ? そういう時。

 そして「来し方、行く末を考える」と人は不安になりま

す。

 「来し方を考える」時は、別にいいのです。過去を振り返

るだけですから、(振り返り過ぎると、やはり不安になりま

す。嫌な事を思い出したりしますし、生まれる前のことは何

も分からず、闇の中ですから)問題は「行く末を考える」時

です。この先、自分の身の上に何が起こるか分かりません。

何よりも、最後には決して避ける事の出来ない“死”が待って

います。

 妄想すること無く物を考えてしまうと、人は不安にならざ

るを得ないのです。(実は、この不安こそが妄想なんです

が・・・)

 人が退屈を嫌い、怖れるのは、退屈すると不安が湧き起っ

て来るからです。その為に、パチンコをしたり、スマホをい

じったり、ゲームをしたり、スポーツをしたり、仕事をした

りするのです。少なくとも私は、そう思っています。


 「自分もいづれは死ぬ」

 「何をしても、結局は何にもならない」

 その恐怖から、思いを逸らす為に「何かをする」のです、

「結局は何にもならない」のに。


 これは、人の業ですね。

 人は、その様な業から逃れられないのでしょうか?

 逃れなくて良いのでしょうか?


 逃れた方が良い。

 私はそう思いますけどね。
 

 今の世の中を見渡した時。

 今までの歴史を振り返った時。

 人間の行いを考えると、あまりにも馬鹿げたことだらけで

しょ?

 戦争とかの大きな事を除いたって、日常の中にも「正気じ

ゃないね」と感じる事だらけです。

 異常者の犯罪の事を言っているんじゃありませんよ。

 普通の人たちが、普通だと思ってやっている事が、私から

みると「正気じゃない」のです。

 ビル・ゲイツのような個人が、数兆円の資産を持ってい

て、彼がそれだけの富を得ることを、普通の人々が羨む。

 羨むという事は、人々がそれを承認しているという事で

す。何故、承認するのでしょう? 何故、異常だと思わない

のでしょう? 異常だと思わない事が、異常です。
 

 《 搾取なき所に、富は無い 》


 憶えておいて下さい。(ついでですが・・)

 多くの富を持っている者は、富を得る過程で、その余剰を

還元されてよい人々(従業員・顧客・取引先・下請け業者な

ど)に利益を分けることをせず、自分に利益が集中するよう

にしたからこそ、その富を得たのです。非難されるべきだ

と、私は考えています。

 そして、もう一つ憶えておいて下さい。

 《 金持ちとは

    その金に見合う価値がある人ではなく

   自分のところに金が流れてくるシステムを作ったか

        既成の集金システムを掴んだ人である 》

 まぁ、例外もありますけどね。

 社会の為に富を預かって、管理しているといった、重い立

場もありますから。でも、ほとんどの金持ちは、自分に法外

な金が集まって来て、それを他者に還元しなくても、何の後

ろめたさも持たない人間だということです。(そして、本人

にとってはスズメの泪ほどの金を寄付したりして「良い事を

した」様な顔をします) 今は「セレブ」なんて言って、ち

やほやしますけど、「成り金」という由緒正しい呼び名で呼

ぶべきだと思いますね。


 ・・・・少し話がずれてしまった様です。

 貧乏人なので、こういう話を始めると、つい力が入ってし

まいます。人の馬鹿げた行いの話でした。


 うどん一杯食べる為に、何百キロも車で出かける。

 外国まで出かけて、買い物をしたり、テーマパークに行っ

たり。ジュエリーやブランド物を欲しがったり、おしゃれに

金と時間を注ぎ込む(十年後に写真を見たら、恥ずかしくな

るのが普通なのに)。それから、都市に立ち並ぶビル群。あ

んなもの作って、この先いったいどうするつもりなんでしょ

う? 壊さなきゃいけない時が必ず来るんですよ? 関係者

は、その時にはもう死んでるから、どうでもいいんでしょう

けどね。


 上げればキリがないので止めますが、人間の行いの多く、

特に日本のような先進国であれば、その行いのほとんどは、

落ち着いて考えれば馬鹿げてるとしか思えないことです。

 昨年の「ポケモンGO」のブームなんて、正気の沙汰では

ありません。日本人は特にですが「“用意された楽しみ”を楽

しみ、“教えられた喜び”を喜ぶ」ことがほとんどで、深い楽

しみ・喜びを知らないんでしょう。 


 そんな風に人が右往左往するのは、やはり退屈が怖いから

です。でも、一番深い喜び・楽しみは、退屈の中にこそある

と私は思います。退屈を味わうことです。

 みんな、ちゃんと退屈をしてみたことが無いのです。

 退屈が怖いから、ちょっとでも退屈しかけたら、何かを始

めてしまいます。退屈をちゃんと経験した事も無いのに、退

屈を怖れている。一度、しっかり経験してみたらいいのに。
 

 「我を忘れる」という言い方をしますが、「我を忘れる」

という言葉には、二通りあります。

 仏教で言われるような「忘我」。エゴを忘れるという意

味。それと、自分の日常の考えからしばし離れるという意味

と。


 人間が退屈しのぎにすることは、後者の、日常の考えから

しばし離れる為ですね。「日常の妄想」に疲れて、「非日常

の妄想」に逃げ込む様なことです。どちらも「妄想」なんで

すが。

 一方、ちゃんと退屈することは、「日常の妄想」から離れ

て、ただそのままに居ることです。

 仕事や遊びから離れ、来し方も行く末もしばらく保留にし

ておく。わたしたちの「我」とは、結局のところ「日常の過

去と未来の妄想」ですから、その「我」を忘れてしまって、

退屈の中に居る事は「忘我」ということですね。

 「我を忘れる」と言っても、この二つは全くの別物です。

 そこにあるのは、違う世界の喜び・楽しみです。

 リチャード・バックの「イリュージョン」(村上龍・訳 

集英社文庫)の中に、こんな一節があります。


  自由に生きるためには 

  退屈と戦う必要がある。

  退屈を殺し灰にしてしまうか、

  退屈に殺されて家具になるか、

  激しく根気のいる戦いである。


 この言葉をどう取るかはそれぞれでしょうが、「退屈を殺

す」というのは、退屈の中に入り込んで、退屈に振り回され

ない様にすることだと私は思います。
 

 退屈に殺されて家具(世の中の備品)にならないために、

しつかりと退屈を味わえるように努めたいと思います。




 

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