2020年1月26日日曜日

『華厳経』との “ご縁”



 毎日のように「縁」ということを考える。こんな風に思う

ようになったのはいつからだろうか?

 今、自分がここに在ること。自分が何かをしていること。

他の人たちがそれぞれそこに在って、それぞれに何かをして

いること。社会で起こる出来事。自然がもたらす出来事。あ

りとあらゆる存在の、その働き・関り・・・。ただただ、そ

の不可思議に黙り込む。


 善いとか悪いとか、感謝とか恨みとかいった思いではなく

て、ただただ「今、すべてがそのように在る」という不可思

議が心に広がる・・・。


 もう、六~七年前だろうと思う、東大寺の大仏殿へ行った

とき、大仏さんの右足の前にこんなパネルが置かれているの

を見た。





 これを見たときに「自分の考えてきたことは『華厳経』だ

ったんだ」と思った。 


 仏教や老荘などに興味を持って、本を読み漁ったりしてい

るうちに、知らず知らずに「縁起」の考え方を取り込んでい

たということもあるだろうけど、一番のきっかけは橋本敬三

先生の「同時相関相補性」という言葉にある。そこに、すで

に「縁起」の考えが含まれていたということ。(『止むに止

まれぬ人生よ』2017/5 参照)


 日本人には、仏教と神道が生活レベルでしみ込んでいて、

自分とか世界とかの本質を考えていると、知らず知らずのう

ちに仏教と神道になってしまう。要するに、〈八百万の神々

が縁起の中で働き合い、姿を変えながら一つのものとして、

永遠を生み続ける〉と(はて?これが「要している」のだろ

うか?)。


 ちょっと大袈裟なことを書いてしまったけれど、でも、そ

ういうことだと思う。誰も、自分がここに今あることや、世

界が今ここにこのようにしてあることを説明できはしない。

 何の前置きも説明も無いままに、わたしたちはこのように

在り、世界はこのように在る。わたしたちは、ただ在らされ

るがままに在り続け変わり続け、世界は在るがままに在り続

け変わり続ける。


 『華厳経』の内容は詳しく知らないけれど、それが説くと

ころは「“存在” の不可思議に対する明け渡し」ではなかろ

うか?「縁起」に思いを馳せると、明け渡すしかないから

ね。もっとも、明け渡すか明け渡さないかも「縁」によるけ

れども・・・。


 さて、私は、わたしたちは、何処からきて何処へ行くのだ

ろうか?


 「それは考えなくていい」


 『華厳経』とは、「縁起」とはそういうことなんだろう。

 それが「安楽」なんだと・・・。












2020年1月15日水曜日

本当の自分は沈黙している



 『アタマのおしゃべり』(2019/8)というのを書いた

時、最後に《 本当の自分は沈黙している 》書いた。

 「本当の自分は沈黙している」のであれば、毎日毎日しゃ

べり続けているわたしたちのアタマは、「ニセモノ」という

ことになりますね。


 私も「ニセモノ」、あなたも「ニセモノ」、彼も彼女も

「ニセモノ」、誰も彼もが「ニセモノ」ということです。

で、その「ニセモノ」が集まって作っているのですから、こ

の世の中は「まがい物」ということでしょう。


 「ニセモノ」と「まがい物」は同じことですが、どちらに

せよ「価値を偽っているもの」だということです。「価値」

が無いか、低いのに「価値が高い」と思わせているわけで

す。その「まがい物」の世界の中で、わたしたちは日々右往

左往しているんですが、この世界が「まがい物」だからこ

そ、右往左往しなければならないのでしょう。


 このブログのサブタイトルは “生きられてる?” というも

のですが、始めた当初は、“「しあわせはどこにあるか」の

右往左往” というものでした。しばらくしてから、「ちょっ

とモタついてるな」と思って変えたんですがね。


 わたしたちのアタマは悪い。

 アタマが悪いから、しあわせを見失う。

 しあわせを見失うから探さなければならない。

 しあわせを探して右往左往する。


 それがわたしたちの活動です。でも、アタマが作った世界

には「まがい物のしあわせ」しかありません。結果、わたし

たちの右往左往は終わることが無い。

 「しあわせはどこにあるか」と探し回っても見つからない

のは、世の中が「まがい物」であること以前に、そこにはそ

もそもしあわせが存在していないからです。しあわせは外に

は無い。


 私からすれば、しあわせは、“これ” です。


 私からあなたを見れば、“それ” です。

 いま、スマホかパソコンをいじっている “あなたそのも

の” 。

 「あなたの中にある」とかいうのじゃない。

 そこにそうしている “あなたそのもの” のことを、しあわ

せと言うのです。


 こんなことを言われると、「えっ・・・」と一瞬言葉を失

うかもしれませんが、その「言葉を失ったあなた」のことを

“しあわせ"というのです。そしてそれは「本当の自分」のこ

とでもあります。《本当の自分は沈黙している》のですから

ね。


 普段から眼鏡をかけている人が、いま眼鏡をかけているに

も関わらず「眼鏡をどこにおいたかな?」と探すことがあり

ます。

 あっちこっち探し回りながら、「はた」と気付きます。

「おれ、今眼鏡かけてるんだ」。

 それで一件落着ですが、「しあわせはどこにあるか」の右

往左往は、なかなか落着しません。むしろ、ほとんどの人が

右往左往したまま人生を終えます。「まがい物」を追い続け

て・・・。


 沈黙したら、そこには本当の自分が立ち現れる。そして、

本当の自分には、本当の世界が見える。




2020年1月13日月曜日

典座教訓



 ニュートラルでありたい。


 この前《ポジティブ・プロパガンダ》という話を書いたけ

れど、私自身はポジティブでもネガティブでもなく、ニュー

トラルな状態で生きていたい。


 そう思うようになったのは三十歳ぐらいからだったろう

か。

 当時仕事をしているうちに、仕事にやりがいが持てなくな

ってきていたのです。

 仕事というものは、物かサービスを作り出し、それを消費

してもらうことですが、現代ではその生産と消費のほとんど

が、人間にとっての本質的な価値を持たないということを感

じ始めてしまったのでした。

 一度そういう風に感じてしまうと、どのように仕事の価値

を捉えなおそうとしても無理だった。私の中で、働いている

ことの虚しさが急速に広がり、日々の仕事が苦しいものにな

っていった。ちょうどそこへ、さらに虚しさに拍車をかける

変化が仕事上で起こり、私は仕事を辞めた・・・。


 働くこと、生きること・・・。人はそこに目的を設定し

て、それを心のよりどころにし、モチベーションを高めて

日々を価値あるものにしょうとする。しかし、私にはそれが

できなくなった。どのような目的を持とうとしても、その意

義を担保する価値を見いだせない。むしろ、無意味としか思

えない生産と消費を繰り返すことに罪悪感しか感じられな

い・・・。

 「これは一度ストップするしかない」。そんな感じで、社

会から一旦降りたのでした。


 それから三年余り、降りたまま生きていたのだけれど、貯

えが底をつき、社会に戻らざるを得なくなった。


 社会に戻ったとはいえ、目的意識など持てるはずもなく、

仕事上の具体的な小さな目的を果たしてゆくということでバ

ランスを保っていたのだけど、この頃には「正法眼蔵・典座

教訓(しょうぼうげんぞう・てんぞきょうくん)」にも触れ

ていたので、それが支えになっていた。「いたるところ道な

り」という教えを心にとめながら・・・。


 仏教は、もともと個人の精神的な安定が目的なので、社会

的な目的意識などは無い。

 いつでも、どんな時でも、「いま、ここが正念場である」

として、いまここを大事にして生きて行く。現在を何かの目

的のための手段にしないこと。どこかへ行こうとはしない。

常にここがゴールである。「典座教訓」はそれを教える。


 社会的な目的意識の無意味さにつまずいていた私にとっ

て、「典座教訓」との出会いは必然だったともいえる。「典

座教訓」によって、どうにかこうにか社会の片隅で生きてこ

られたんじゃないかと思う(「『典座教訓』で悟った」とか

いう話ではないよ)。


 「ここが正念場」「ここがゴール」ということは、自ら動

こうとはしないとうこと。

 自ら目的を持たないということ。


 自分からは前に進まず、後ろにも行かず、その場でアイド

リング状態で居る。

 エンジンは動いている(生きているということです)け

ど、ギアはニュートラル。

 周りの状況次第で少し前に進んだり、少しバックしたりは

するけど、自分から何処かへ行こうとはしない。する必要も

理由も無い。そんな状態で生きていたいと思い、今でもそう

思う。


 今にして思えば、仏教の「中道」という考えと同じなのか

もしれないけれど、とにかく、自分から何かの為に動こうと

はしない。「動く」のは、「動かされてしまう」時。たとえ

ば、今こうしてブログを書いているのも、「トイレに行きた

い」という衝動と変わりはしない。明確な目的が有るわけじ

ゃなくて、何かに動かされているだけ。ただ、その動かされ

た先で、誠意を尽くす  自分なりにですが。


 動かされるままに動くためには、自分の目的意識は邪魔に

なる。だからニュートラルでいたい。

 なぜそう思うかというと、人は出来損ないなので、その出

来損ないの意識が目的を設定すると、たいていの場合問題を

作り出すように思うからです。それに、生きることの本質か

らすれば、どのような社会的な目的も表面上の価値しか持た

ないことは明白だから・・・。もっとも「ニュートラルでい

たい」というのも目的になるので、結局は同じことかもしれ

ないですがね。


 誰もわけが分かって生きているわけじゃないし、誰も自由

意思を持っていない。

 選択したつもりでも、誘導されているだけだし、どのよう

な価値も自分の都合です。

 人として、「本当に生きよう」とか、「幸せでいよう」と

か思うなら、いまこの時に誠実に向き合い、今この時を大切

に生きるしかない。だから私はニュートラルでいたい。


 とはいえ、それはそれで骨の折れることではあるんだけど

ね。でも、そこには本当の価値が有る。


 私の目的は、この命を直接感じること。アイドリングの振

動を楽しむようにね。






 

2020年1月12日日曜日

「あなたは神を信じますか?」?



 さっき気が付いたんですが、もうブログを始めて丸三年が

経っていた。

 書き始めた頃に比べて、「スピリチュアル系」みたいな色

が濃くなったようだ。そういうつもりじゃなかったんだけ

ど、まぁそれでもいい。わけが分かってこんな事をしてるん

じゃないし、私は、《 誰もわけが分かって生きているわけ

じゃない 》という立場の人間ですからね。

 というわけでもないんだけど、「あなたは神を信じます

か?」。


 いきなりですが、 個人という意識がなければ、世界は完

全です 。

 当たり前ですね。世界が「完全じゃない」わけがない。も

し「世界は不完全だ」と言える存在があるとしたら、それは

神だけです。しかし、世界を創ったのは神でしょうし、神は

「完全」な存在なので、「不完全な世界」を創るはずがな

い。いや、「不完全な世界」を創ることができない。世界は

隅から隅まで、極小から極大まですべてが完全です。「不完

全」はわたしたちのアタマの中だけにしかない。「不完全」

は、たんに人の気分に過ぎない。
 

 「神が世界を創った」と書きましたが、別に私は神の存在

を肯定しているわけではありません。神についてその有無を

語ることは、人間である私にできることではありません。


 昔は、キリスト教のある宗派の宣教師に、「あなたは神を

信じますか?」と道端で声を掛けられることが私もよくあり

ましたが、あれを聞くと「“神を信じる” なんて、なんて不

遜な!」と思います。“神” は人が「信じたり」「信じなか

ったり」できるようなものなんですか? 「神を信じる」な

んて言う人は、いったい何様のつもりでしょう?

 神の存在を本当に感じてしまったら、人は神について何も

語ることができないでしょうよ。


 人が “神” という言葉で語ろうとするもの・・・。それが

何を指しているのかは、すべての人間が本質的に知っている

ことでしょう。でも、思考がそれを分からなくしている。

「神を信じる」という思考も、かえって “神” を見えなくし

てしまう。


 キリスト教でも、マイスターエックハルトの言葉などを見

ると、そこで語られる “神” は “仏” と同じものとみていい

でしょうし、他の多くの宗教でも、究極的には同じことを語

っている  「宗教が・・・」というよりも、それぞれの宗

教を通じてそれに目覚めた人がということでしょうがね。


 釈迦が悟った時、「我与大地有情同時成道」と言ったとさ

れる。

 この言葉の解釈はいろいろあるのでしょうが、私は余語翠

巖老師の解釈に従い、こう受け止めています。

 「わたしと大地(無生物)と有情(生命)が同時(いつで

も)成道(悟っている・完全である)」


 2500年前にお釈迦様が悟ったことで、現在のわたしたち

も世界そのものも悟っている。お釈迦様が世界すべての分も

悟ってくれたので、わたしたち一人一人も悟りの中にある。

お釈迦様が保証してくれているわけです。わけですが、わた

したちは思考に邪魔されてそれが分からない。悟っているの

に迷い苦しんでいるのですね。


 あるお坊さんが「安心して悩め」と言われていたそうです

が(酒井得元師だったかな?)、どんなに悩み苦しんでもそ

れは悟りの中であって、苦しみながら救われているのだとい

うことでしょう。ムチャクチャな話に聞こえるでしょう

が・・・。


 神も仏も「信じてはいけない」のだと思います。信じるこ

とはその裏に疑いが潜んでいるということだし、神や仏(と

呼ばれるもの)も、「信じる・信じない」という話ではなく

て、の中にわたしたちは在る。「わたしたちそれぞれが神

仏の表れだ」としか言えないでしょう。


 神や仏を信じる人は、迷ってるんですよ。



2020年1月5日日曜日

誰も上手く生きられない



 世の中には、まったく下手くそな生き方をする人がいる。

覚せい剤に手を出してしまって依存症になり、何度も刑務所

に入るような人とか・・・。

 そういうあからさまな下手くそではなくても、大抵の人が

「自分は生きるのが下手くそだ・・・」と度々思いながら生

きているんじゃないだろうか。


 世の中を見ていると、すごく上手く生きているように見え

る人がいる。でも、その人の心の内は分からない。自分でも

「自分は上手く生きている」と思っているのかもしれない

し、他人には見せない部分で「自分はダメだ・・・」と苦悩

し続けているかもしれない。


 「世渡り上手のバチ当たり」と昔言っていたのは、明石家

さんまだったろうか。

 この言葉の真意は知らないが、「世渡り上手」な人は、問

題のある人だと思う。なぜかというと、世の中というものは

人のためにあるものじゃないから、それに上手に合わせて生

きられるということは、その人は、人としての本質からかな

り乖離しているだろう。


 人の為や、人に合わせて作られているのではないこの世の

中で、上手く生きられる方が不自然です。特に、現代のよう

に異常に複雑で込み入った世の中で、「自分は生きるのが下

手くそだ」と感じているとしても、それは当然のことでしょ

う。何の不思議もないと思うね。誰もがそういった部分を他

人に見せないようにしているだけで、みんな「上手く生きら

れない」、というのが本当のところでしょうよ。みんな、強

がっているだけですよ。強がっているというのが悪ければ、

「弱いところを見せまとしている」と言おう。


 なぜ、みんながそうするかというと、弱さを見せてスピー

ドを落としたりすると、すぐに抜け駆けする奴がいて、割を

食らうから・・・。他人をバカにしたりして優位に立とうと

する奴がいるから。だから、みんな弱音を吐いて座り込みた

くてもムリしてる・・・。


 無理して横並びを保っても、抜け駆けして先を行っても、

誰も心が休まることは無い。ほんの一時、達成感や満足感が

味わえたとしても、すぐに誰かから小突かれることにな

る・・・。(置いて行かれたら、もっと心が休まらないけれ

ど、もう小突かれることはないよ!)


 この世の中では誰も上手く生きられないんですよ。そもそ

も、世の中は「生きる」ところではない。

 「生きること」と「世の中」とは、直接の関係は無い。


 私は昔から「自分は場違いだな」と感じながらこの世の中

で過ごしてきました。

 さすがに、仲の良い者と笑い合ったりしている時にはそん

なこと思わないけどね。でも、世の中とはなじめなかった。


 そういう「疎外感」とか「部外者意識」とでもいうものに

少し折り合いがつけられるようになったのは、かなり年をと

ってからだった。「こんな変な世の中、場違いに感じてるぐ

らいが丁度いい」と思えるようになったから。


 みんな無理して笑ってる。

 あるいは、「こういう時は笑う時」っていう自己暗示や刷

り込みに、自動的に従っているだけ。心からの笑顔なんて、

そうそう見られるもんじゃない。


 この世の中では、誰も上手くは生きられない。

 「わたしは生きるのが下手くそです」って、みんなが素直

に白旗を揚げれば、お互いに楽になるのにね。


 ・・・今また、7~8人、私を追い抜いていったかな?



2020年1月4日土曜日

ポジティブ・プロパガンダ



 YouTube だとかネット上のスピリチュアル系や自己啓発

系のサイトを見ていると、「したいことをする」とか「夢」

だとか「成功」だとかいう言葉がやたらと出てくる。それで

当然と誰もが思っているようだが、ホントにそれでいいの

か?


 あらゆるメディアで、「自己実現」する為の “ポジティブ

シンキング” といった話がもてはやされるけれど、ああいう

のは、社会というエゴによるプロパガンダだと思うね。《ポ

ジティブ・プロパガンダ》。


 「したいことをする」

 「夢を叶える」

 「成功する」


 そういうことを「良いこと」だとか「しあわせ」だとかい

う風に刷り込まれて、「努力」だとか「成長」だとか、ポジ

ティブに考え、ポジティブに生きることを焚きつけられ、そ

れが正しいと思い込む・・・。

 でも、そうやって自分の望む “何か” になろうとか “何か”

を手に入れようとするけれど、果たしてそれで本当にしあわ

せなのか? しあわせになれるのか?


 当たり前ですが、しあわせな人は満足しているはずです

ね。そして、満足していれば「したいことはない」はずで

す。満足していれば「夢」もないはずです。満足しているの

なら、それは「成功」です。


 「したいことをする」

 「夢を叶える」

 「成功する」


 そのようなことを考える人は、いま「不満」なわけです。

その「不満」を満たす為に “何か” を得ようとするわけで

す。しかし、その “何か” を手に入れて「満足」できるので

しょうか? 世の中を見ているとそうではないようです。


 誰がどう見ても「成功している」実業家が、「もう十分で

す。これで終わりにします」なんて言ってるのを見たことは

無い。「もっと、もっと」とさらに積み上げ、先へと急ぐ。

 若くして頂点を極めたアスリートが「もう満足です。引退

してのんびり暮らします」なんて言わない。「さらなる高み

を目指す」「さらに進化する」とか言う。さて、これらの人

たちはいつ「満足」するのでしょう?

 《ポジティブ・プロパガンダ》によって洗脳され、「満

足」することができないようになっている。


 「したいことができない」のはダメなの?

 「夢を持たない」ことはいけないの?

 「成功」しなければ不幸なの?


 わたしたちは、そういうことをあらためてよく考えてみる

べきなんじゃないでしょうか?


 人は普通、プラスすることでしあわせが増すと考える。け

れども、本当のしあわせはマイナスすることで見えてくる。


 自分の背負いこんだ(背負いこまされた)余分なものが、

心の中に凸凹を作る。その凹の部分を埋めるためのものを人

は得ようとするけれど、それはほとんど無限の作業・・。思

い込みで生まれた凸凹を思い込みで埋めようとするなんて

ね。

 そうではなくて、本来、わたしたちの意識は平らだから、

その余分な凸を無くせば、心は平らになるわけです。その凸

が「思い込み」であることに気付けば、それは消える。



 私は何も「ネガティブになれ」と言うのではない。「“ネ

ガティブ” OK!なんじゃない?」と思うだけです。

 なぜならネガティブが「悪」のように扱われるのは、ポジ

ティブを必要以上に持ち上げるからであって、それによって

人の自然なネガティブさが不当に貶められている  同時に

自然なポジティブさも汚される。


 「したいことができない」

 「夢が無い」

 「成功するための努力なんてできない」

 「前向きになれない」


 いいじゃないですか。たんに人間的だというだけですよ。

それを「いけないこと」だと感じてしまうのは、わたしたち

が、長い間《ポジティブ・プロパガンダ》にさらされてきた

せいですよ。


 弱くていいんですよ。

 「強い人」は大抵は「強がってる」だけですよ。

 現実的に「強い」人は「弱いもの」を押しのける力が有る

ってだけだし、人の痛みを分からない無神経な人間ですよ。

 真に「強い人」は、その強さを自分以外のものを生かすた

めに使いますよ。


 「ネガティブ OK !」

 「弱くていい」

 「がんばれなくても構わない」

 「上手く生きられなくても、人生そんなもん」

 それでいいんだと思う。

 そういったことをバカにしたり、許さないのは、その社会

に許容力が無いだけの話。その社会がエゴの強い、卑しい社

だということですよ。


 自分の過去も、今の自分も、将来の自分も、自分のすべ

てがネガティブにしか見ることができないとしても、それが

自分なら、その自分を愛してやろう。「良い」「悪い」は脇

にどけて、ポジティブでもネガティブでもなく、許してやろ

う、認めてやろう、その、そのままを抱きしめてやろう。

 そこには、“真のポジティブ性” とでも言うべき、〈生〉

の暖かさ・明るさがあるだろう。「生きている」ということ

は、そこにエネルギーがあるということだと、誰も疑うこと

はできないのだから。

 そしてそこから、わたしたちの本来持つ〈生〉が、大きく

伸びをするように、息づき始めるだろう・・・。


 社会の《ポジティブ・プロパガンダ》はこれからも続く。

 “ポジティブ” を疑うことは、大事だと思うね。それが、

自然に生まれる “真のポジティブ性” かどうかね。






私の目。あなたの目。仏の目。



《 そっちとこっちじゃ景色が違う 》

 そんなことを考えたのはもう何年前だろうか?

 私は、私の五感で世界を捉えていて、誰も同じ時間同じ場

所から世界を捉えることはできない。すべての人間がそうだ

けど、他のすべての存在も私と同じように世界を捉えること

はできない。私が認識している世界は、私だけの世界です。

 当然ながら、あなたが認識している世界はあなただけの世

界です。あなたの世界と私の世界は別物です。

 すべての人がそれぞれ別の世界を生きていますが、唯一同

じなのが、わたしたちが存在しているこの空間です。


 空間はとりもなおさず「空」なので、分けることができな

い。空間は、物理的にも心理的にも分けることができず、絶

対的に「空」として存在している(存在していないと言うべ

きか?)。

 あらゆる存在のベースとして空間が存在していて、そこに

は分割することで生まれる「個」というものは存在し得な

い。


 あらゆる存在がひとつの「空」に裏打ちされていて、すべ

ての存在が「空」に共有されている。

 「存在」というものは、「空」という「一なるもの」が愛

でる、エネルギーの動きで、わたしたち一人一人の意識はそ

の中でそれぞれの視点を与えられるので、それぞれに分離さ

れているように見える。けれど、本当は、「一なるもの」で

ある「空」の中で、「存在」を見せている “エネルギーのカ

オス” は、やはり「一なるもの」として在る。分離していな

い。「空」の視点に立った時、そのことがわかる。


 「分別智(ふんべつち)」、「無分別智」という言葉があ

ります。「分別智」は人の知恵、「無分別智」とは「空観」

(注)であり、仏の智慧と捉えておけばいいでしょう。

 「分別智」の中にあっては、すべてが分離していますが、

「分別智」を「無分別智」から眺めれば、そこに分離はな

い。
 

 川の右岸と左岸に分かれて、それぞれの景色の違いを問題

にしていても、“空” からドローンで見れば、どちらも一つ

の景色の中です。


 「思考」という地べたでそれぞれの見方の違いを言い合っ

ていては、ゴタゴタは尽きない。


 人の数だけ景色があるけれど、「空」から見れば、景色は

ひとつ。

 わたしたちは景色を見ているのではなくて、わたしたちも

景色なんです。


 自分も含めたすべてが解け合っている景色を「空」から眺

めていられることが、ほんとうのしあわせです。


 (注)ここでは「空観」を「空から観る」という意味合いで使っていますが、仏教語としては、普通「すべては空であると観る」ということです。



2020年1月1日水曜日

エゴも “お休み”




 年が明け、2020年。あけましておめでとうございます。

人間のアタマの中だけではね。

 別にそのことに難癖をつけるつもりもない。普通のことは

普通でいい。普通はね。


 今日は少し風が冷たいけど、いい天気で日差しが暖かい。

車が少なくて静か。穏やかで気分がいい。普通に、当たり前

にそう感じる。


 けども、その「普通に、当たり前に、気分がいい」と感じ

られるのが、正月ぐらいだというのは、「世の中は根本で間

違ってる」ということの証左でしょう。

 「普通に、当たり前に、気分がいい」という状態が、“普

通” のはずじゃない?だって「普通に、当たり前に・・・」

なんだから。


 経済に化かされ、夢や理想に化かされ、わたしたちは入り

乱れて走り回っている。精神的にも身体的にも・・・。

 そのドタバタの中で、本来「気分がいい」のが当たり前の

はずの “普通” は、蹴散らかされて普通ではなくなってしま

った。正月のようにドタバタが少しお休みする時に、時折り

姿を見せるだけ・・・。その意味では、まぁ、正月に「おめ

でとう」と言ってもいいのだろうね・・・。


 世の中のドタバタの、そのスピードがあまりにも加速さ

れ、もう人間の限界を超えていると思う。今年あたり、それ

に反旗を翻す動きが世界中のあちこちで起こるんじゃないだ

ろうかという気もする。そろそろ、その時期なのかもしれな

いと。

 「いいかげんにしろよ!人間をなんだと思ってるんだ!」

ってね。


 まぁ、勝手にそう思うだけだけれど、誰もが精神的にも身

体的にも追い込まれ、煮詰まってしまっているのは確かだろ

うから、もうすぐ “人類の精神的な転換点” とでもいうべき

事が起こっても、私は不思議だと思わないね。それが起こら

なければ、人類には相当過酷な未来が待っているだろう。

(この前《起こらなければならない “事” は無い》と書いた

ばかりなんで、未来がどうなろうと知ったことではないけれ

ど・・・)


 元日から、メンドウなことを書いているけど、さっき書い

たように「気分はいい」のです。わたしたちは、この “正月

気分” を日常化するような〈意識の立ち位置〉を探したほう

がいい。個人個人がね。

 私の言葉では「ライフサイドに立つ」ということなんだけ

れど、“正月気分” というのは、「ライフサイド」に繋がっ

てると思うね。「エゴも、“お休み” 」って、感じでね。

 よいお正月を。