毎日のように「縁」ということを考える。こんな風に思う
ようになったのはいつからだろうか?
今、自分がここに在ること。自分が何かをしていること。
他の人たちがそれぞれそこに在って、それぞれに何かをして
いること。社会で起こる出来事。自然がもたらす出来事。あ
りとあらゆる存在の、その働き・関り・・・。ただただ、そ
の不可思議に黙り込む。
善いとか悪いとか、感謝とか恨みとかいった思いではなく
て、ただただ「今、すべてがそのように在る」という不可思
議が心に広がる・・・。
もう、六~七年前だろうと思う、東大寺の大仏殿へ行った
とき、大仏さんの右足の前にこんなパネルが置かれているの
を見た。
これを見たときに「自分の考えてきたことは『華厳経』だ
ったんだ」と思った。
仏教や老荘などに興味を持って、本を読み漁ったりしてい
るうちに、知らず知らずに「縁起」の考え方を取り込んでい
たということもあるだろうけど、一番のきっかけは橋本敬三
先生の「同時相関相補性」という言葉にある。そこに、すで
に「縁起」の考えが含まれていたということ。(『止むに止
まれぬ人生よ』2017/5 参照)
日本人には、仏教と神道が生活レベルでしみ込んでいて、
自分とか世界とかの本質を考えていると、知らず知らずのう
ちに仏教と神道になってしまう。要するに、〈八百万の神々
が縁起の中で働き合い、姿を変えながら一つのものとして、
永遠を生み続ける〉と(はて?これが「要している」のだろ
うか?)。
ちょっと大袈裟なことを書いてしまったけれど、でも、そ
ういうことだと思う。誰も、自分がここに今あることや、世
界が今ここにこのようにしてあることを説明できはしない。
何の前置きも説明も無いままに、わたしたちはこのように
在り、世界はこのように在る。わたしたちは、ただ在らされ
るがままに在り続け変わり続け、世界は在るがままに在り続
け変わり続ける。
『華厳経』の内容は詳しく知らないけれど、それが説くと
ころは「“存在” の不可思議に対する明け渡し」ではなかろ
うか?「縁起」に思いを馳せると、明け渡すしかないから
ね。もっとも、明け渡すか明け渡さないかも「縁」によるけ
れども・・・。
さて、私は、わたしたちは、何処からきて何処へ行くのだ
ろうか?
「それは考えなくていい」
『華厳経』とは、「縁起」とはそういうことなんだろう。
それが「安楽」なんだと・・・。