2020年1月4日土曜日

ポジティブ・プロパガンダ



 YouTube だとかネット上のスピリチュアル系や自己啓発

系のサイトを見ていると、「したいことをする」とか「夢」

だとか「成功」だとかいう言葉がやたらと出てくる。それで

当然と誰もが思っているようだが、ホントにそれでいいの

か?


 あらゆるメディアで、「自己実現」する為の “ポジティブ

シンキング” といった話がもてはやされるけれど、ああいう

のは、社会というエゴによるプロパガンダだと思うね。《ポ

ジティブ・プロパガンダ》。


 「したいことをする」

 「夢を叶える」

 「成功する」


 そういうことを「良いこと」だとか「しあわせ」だとかい

う風に刷り込まれて、「努力」だとか「成長」だとか、ポジ

ティブに考え、ポジティブに生きることを焚きつけられ、そ

れが正しいと思い込む・・・。

 でも、そうやって自分の望む “何か” になろうとか “何か”

を手に入れようとするけれど、果たしてそれで本当にしあわ

せなのか? しあわせになれるのか?


 当たり前ですが、しあわせな人は満足しているはずです

ね。そして、満足していれば「したいことはない」はずで

す。満足していれば「夢」もないはずです。満足しているの

なら、それは「成功」です。


 「したいことをする」

 「夢を叶える」

 「成功する」


 そのようなことを考える人は、いま「不満」なわけです。

その「不満」を満たす為に “何か” を得ようとするわけで

す。しかし、その “何か” を手に入れて「満足」できるので

しょうか? 世の中を見ているとそうではないようです。


 誰がどう見ても「成功している」実業家が、「もう十分で

す。これで終わりにします」なんて言ってるのを見たことは

無い。「もっと、もっと」とさらに積み上げ、先へと急ぐ。

 若くして頂点を極めたアスリートが「もう満足です。引退

してのんびり暮らします」なんて言わない。「さらなる高み

を目指す」「さらに進化する」とか言う。さて、これらの人

たちはいつ「満足」するのでしょう?

 《ポジティブ・プロパガンダ》によって洗脳され、「満

足」することができないようになっている。


 「したいことができない」のはダメなの?

 「夢を持たない」ことはいけないの?

 「成功」しなければ不幸なの?


 わたしたちは、そういうことをあらためてよく考えてみる

べきなんじゃないでしょうか?


 人は普通、プラスすることでしあわせが増すと考える。け

れども、本当のしあわせはマイナスすることで見えてくる。


 自分の背負いこんだ(背負いこまされた)余分なものが、

心の中に凸凹を作る。その凹の部分を埋めるためのものを人

は得ようとするけれど、それはほとんど無限の作業・・。思

い込みで生まれた凸凹を思い込みで埋めようとするなんて

ね。

 そうではなくて、本来、わたしたちの意識は平らだから、

その余分な凸を無くせば、心は平らになるわけです。その凸

が「思い込み」であることに気付けば、それは消える。



 私は何も「ネガティブになれ」と言うのではない。「“ネ

ガティブ” OK!なんじゃない?」と思うだけです。

 なぜならネガティブが「悪」のように扱われるのは、ポジ

ティブを必要以上に持ち上げるからであって、それによって

人の自然なネガティブさが不当に貶められている  同時に

自然なポジティブさも汚される。


 「したいことができない」

 「夢が無い」

 「成功するための努力なんてできない」

 「前向きになれない」


 いいじゃないですか。たんに人間的だというだけですよ。

それを「いけないこと」だと感じてしまうのは、わたしたち

が、長い間《ポジティブ・プロパガンダ》にさらされてきた

せいですよ。


 弱くていいんですよ。

 「強い人」は大抵は「強がってる」だけですよ。

 現実的に「強い」人は「弱いもの」を押しのける力が有る

ってだけだし、人の痛みを分からない無神経な人間ですよ。

 真に「強い人」は、その強さを自分以外のものを生かすた

めに使いますよ。


 「ネガティブ OK !」

 「弱くていい」

 「がんばれなくても構わない」

 「上手く生きられなくても、人生そんなもん」

 それでいいんだと思う。

 そういったことをバカにしたり、許さないのは、その社会

に許容力が無いだけの話。その社会がエゴの強い、卑しい社

だということですよ。


 自分の過去も、今の自分も、将来の自分も、自分のすべ

てがネガティブにしか見ることができないとしても、それが

自分なら、その自分を愛してやろう。「良い」「悪い」は脇

にどけて、ポジティブでもネガティブでもなく、許してやろ

う、認めてやろう、その、そのままを抱きしめてやろう。

 そこには、“真のポジティブ性” とでも言うべき、〈生〉

の暖かさ・明るさがあるだろう。「生きている」ということ

は、そこにエネルギーがあるということだと、誰も疑うこと

はできないのだから。

 そしてそこから、わたしたちの本来持つ〈生〉が、大きく

伸びをするように、息づき始めるだろう・・・。


 社会の《ポジティブ・プロパガンダ》はこれからも続く。

 “ポジティブ” を疑うことは、大事だと思うね。それが、

自然に生まれる “真のポジティブ性” かどうかね。






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