2020年1月12日日曜日

「あなたは神を信じますか?」?



 さっき気が付いたんですが、もうブログを始めて丸三年が

経っていた。

 書き始めた頃に比べて、「スピリチュアル系」みたいな色

が濃くなったようだ。そういうつもりじゃなかったんだけ

ど、まぁそれでもいい。わけが分かってこんな事をしてるん

じゃないし、私は、《 誰もわけが分かって生きているわけ

じゃない 》という立場の人間ですからね。

 というわけでもないんだけど、「あなたは神を信じます

か?」。


 いきなりですが、 個人という意識がなければ、世界は完

全です 。

 当たり前ですね。世界が「完全じゃない」わけがない。も

し「世界は不完全だ」と言える存在があるとしたら、それは

神だけです。しかし、世界を創ったのは神でしょうし、神は

「完全」な存在なので、「不完全な世界」を創るはずがな

い。いや、「不完全な世界」を創ることができない。世界は

隅から隅まで、極小から極大まですべてが完全です。「不完

全」はわたしたちのアタマの中だけにしかない。「不完全」

は、たんに人の気分に過ぎない。
 

 「神が世界を創った」と書きましたが、別に私は神の存在

を肯定しているわけではありません。神についてその有無を

語ることは、人間である私にできることではありません。


 昔は、キリスト教のある宗派の宣教師に、「あなたは神を

信じますか?」と道端で声を掛けられることが私もよくあり

ましたが、あれを聞くと「“神を信じる” なんて、なんて不

遜な!」と思います。“神” は人が「信じたり」「信じなか

ったり」できるようなものなんですか? 「神を信じる」な

んて言う人は、いったい何様のつもりでしょう?

 神の存在を本当に感じてしまったら、人は神について何も

語ることができないでしょうよ。


 人が “神” という言葉で語ろうとするもの・・・。それが

何を指しているのかは、すべての人間が本質的に知っている

ことでしょう。でも、思考がそれを分からなくしている。

「神を信じる」という思考も、かえって “神” を見えなくし

てしまう。


 キリスト教でも、マイスターエックハルトの言葉などを見

ると、そこで語られる “神” は “仏” と同じものとみていい

でしょうし、他の多くの宗教でも、究極的には同じことを語

っている  「宗教が・・・」というよりも、それぞれの宗

教を通じてそれに目覚めた人がということでしょうがね。


 釈迦が悟った時、「我与大地有情同時成道」と言ったとさ

れる。

 この言葉の解釈はいろいろあるのでしょうが、私は余語翠

巖老師の解釈に従い、こう受け止めています。

 「わたしと大地(無生物)と有情(生命)が同時(いつで

も)成道(悟っている・完全である)」


 2500年前にお釈迦様が悟ったことで、現在のわたしたち

も世界そのものも悟っている。お釈迦様が世界すべての分も

悟ってくれたので、わたしたち一人一人も悟りの中にある。

お釈迦様が保証してくれているわけです。わけですが、わた

したちは思考に邪魔されてそれが分からない。悟っているの

に迷い苦しんでいるのですね。


 あるお坊さんが「安心して悩め」と言われていたそうです

が(酒井得元師だったかな?)、どんなに悩み苦しんでもそ

れは悟りの中であって、苦しみながら救われているのだとい

うことでしょう。ムチャクチャな話に聞こえるでしょう

が・・・。


 神も仏も「信じてはいけない」のだと思います。信じるこ

とはその裏に疑いが潜んでいるということだし、神や仏(と

呼ばれるもの)も、「信じる・信じない」という話ではなく

て、の中にわたしたちは在る。「わたしたちそれぞれが神

仏の表れだ」としか言えないでしょう。


 神や仏を信じる人は、迷ってるんですよ。



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