2020年1月26日日曜日

『華厳経』との “ご縁”



 毎日のように「縁」ということを考える。こんな風に思う

ようになったのはいつからだろうか?

 今、自分がここに在ること。自分が何かをしていること。

他の人たちがそれぞれそこに在って、それぞれに何かをして

いること。社会で起こる出来事。自然がもたらす出来事。あ

りとあらゆる存在の、その働き・関り・・・。ただただ、そ

の不可思議に黙り込む。


 善いとか悪いとか、感謝とか恨みとかいった思いではなく

て、ただただ「今、すべてがそのように在る」という不可思

議が心に広がる・・・。


 もう、六~七年前だろうと思う、東大寺の大仏殿へ行った

とき、大仏さんの右足の前にこんなパネルが置かれているの

を見た。





 これを見たときに「自分の考えてきたことは『華厳経』だ

ったんだ」と思った。 


 仏教や老荘などに興味を持って、本を読み漁ったりしてい

るうちに、知らず知らずに「縁起」の考え方を取り込んでい

たということもあるだろうけど、一番のきっかけは橋本敬三

先生の「同時相関相補性」という言葉にある。そこに、すで

に「縁起」の考えが含まれていたということ。(『止むに止

まれぬ人生よ』2017/5 参照)


 日本人には、仏教と神道が生活レベルでしみ込んでいて、

自分とか世界とかの本質を考えていると、知らず知らずのう

ちに仏教と神道になってしまう。要するに、〈八百万の神々

が縁起の中で働き合い、姿を変えながら一つのものとして、

永遠を生み続ける〉と(はて?これが「要している」のだろ

うか?)。


 ちょっと大袈裟なことを書いてしまったけれど、でも、そ

ういうことだと思う。誰も、自分がここに今あることや、世

界が今ここにこのようにしてあることを説明できはしない。

 何の前置きも説明も無いままに、わたしたちはこのように

在り、世界はこのように在る。わたしたちは、ただ在らされ

るがままに在り続け変わり続け、世界は在るがままに在り続

け変わり続ける。


 『華厳経』の内容は詳しく知らないけれど、それが説くと

ころは「“存在” の不可思議に対する明け渡し」ではなかろ

うか?「縁起」に思いを馳せると、明け渡すしかないから

ね。もっとも、明け渡すか明け渡さないかも「縁」によるけ

れども・・・。


 さて、私は、わたしたちは、何処からきて何処へ行くのだ

ろうか?


 「それは考えなくていい」


 『華厳経』とは、「縁起」とはそういうことなんだろう。

 それが「安楽」なんだと・・・。












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