2020年1月4日土曜日

私の目。あなたの目。仏の目。



《 そっちとこっちじゃ景色が違う 》

 そんなことを考えたのはもう何年前だろうか?

 私は、私の五感で世界を捉えていて、誰も同じ時間同じ場

所から世界を捉えることはできない。すべての人間がそうだ

けど、他のすべての存在も私と同じように世界を捉えること

はできない。私が認識している世界は、私だけの世界です。

 当然ながら、あなたが認識している世界はあなただけの世

界です。あなたの世界と私の世界は別物です。

 すべての人がそれぞれ別の世界を生きていますが、唯一同

じなのが、わたしたちが存在しているこの空間です。


 空間はとりもなおさず「空」なので、分けることができな

い。空間は、物理的にも心理的にも分けることができず、絶

対的に「空」として存在している(存在していないと言うべ

きか?)。

 あらゆる存在のベースとして空間が存在していて、そこに

は分割することで生まれる「個」というものは存在し得な

い。


 あらゆる存在がひとつの「空」に裏打ちされていて、すべ

ての存在が「空」に共有されている。

 「存在」というものは、「空」という「一なるもの」が愛

でる、エネルギーの動きで、わたしたち一人一人の意識はそ

の中でそれぞれの視点を与えられるので、それぞれに分離さ

れているように見える。けれど、本当は、「一なるもの」で

ある「空」の中で、「存在」を見せている “エネルギーのカ

オス” は、やはり「一なるもの」として在る。分離していな

い。「空」の視点に立った時、そのことがわかる。


 「分別智(ふんべつち)」、「無分別智」という言葉があ

ります。「分別智」は人の知恵、「無分別智」とは「空観」

(注)であり、仏の智慧と捉えておけばいいでしょう。

 「分別智」の中にあっては、すべてが分離していますが、

「分別智」を「無分別智」から眺めれば、そこに分離はな

い。
 

 川の右岸と左岸に分かれて、それぞれの景色の違いを問題

にしていても、“空” からドローンで見れば、どちらも一つ

の景色の中です。


 「思考」という地べたでそれぞれの見方の違いを言い合っ

ていては、ゴタゴタは尽きない。


 人の数だけ景色があるけれど、「空」から見れば、景色は

ひとつ。

 わたしたちは景色を見ているのではなくて、わたしたちも

景色なんです。


 自分も含めたすべてが解け合っている景色を「空」から眺

めていられることが、ほんとうのしあわせです。


 (注)ここでは「空観」を「空から観る」という意味合いで使っていますが、仏教語としては、普通「すべては空であると観る」ということです。



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