2024年1月30日火曜日

孤独な人へ



 孤独だと感じている人へ。


 大抵の人は孤独を感じることがあるでしょうし、常に孤独

にさいなまれている人もいるでしょうけど、孤独ってそもそ

もなぜ感じるのでしょうか?孤独とは何なのでしょうか?

 実は、孤独とは自意識の自家中毒です。
 

 なぜ人は他者を求めるのか?

 自意識が存在する為には「自」と「他」を分けなければ仕

方がないですよね。ですから自意識があるということは、自

分が世界から区切られているということに他なりません。し

かし、人が母親のおなかの中にいる時は世界と区切られてお

らず、世界と一体であるという全能感の中に有ります。そし

てその感覚は、生まれた後に自意識が芽生えたあとも残って

いますから、自分が満たされていないと感じ、他者(自分以

外の世界)と繋がることで全能感を取り戻したいという欲求

が生まれます。その全能感への飢えが「孤独」の正体です。

けれども、本当は自分と世界は区切られてはいません。自意

識の思考が自他を区切っているだけです。孤独は自分が生み

出しているのです。孤独が自分を生みだしているとも言えま

す。


 孤独から逃れたければ、自分と他者(自分の外の世界)と

の間の壁を取り払えばいいのです。それは人との間に壁を作

らず仲良くするということではありません。実質的に一人か

どうかは関係ないのです。孤独は自意識が作り出しているの

だということを認識するだけでいいのです。そうすれば、一

人で居ても、テーブルやコップや椅子や着ている服までもが

愛おしくなるのです。いま手にしているスマホを、あらため

て愛おしむ気持ちで触れてみて下さい。もちろん身体の一部

ではありませんが、それは自分とは別の世界にあるのです

か?

 自意識の中にしか孤独はありません。なので自意識(エ

ゴ)の強い人ほど、孤独を強く感じることになります。自分

は世界から独立した存在だという自意識の驕りが、そのまま

孤独へと姿を変えるのです。


 孤独はのりこえるものではありません。誰かと繋がる必要

もありません。孤独はただ「やめるもの」です。自分が作っ

ているのだと意識するだけでいいのです。それだけで、孤独

は消えるものです。

 本当は、この世界に孤独など 存在していないのです。




2024年1月28日日曜日

義務と引きこもり



 この頃、ブログを書きかけても途中で手が止まる。まぁ、

書きたいことはあらかた書いてしまっただろうからしようが

ないだろうなぁ。

 戦争が起きたり、地震が起きたり、酷い事件が起きたりす

るけど、これまでにもそういうことをきっかけにブログを書

いたりしてきたから、それを題材にしてブログを書くと、同

じことの繰り返しになってしまう。まぁ、それでもいいんだ

ろうけど、このブログを義務とか使命のようなものにしたく

はない。ごく自然に、「気付いたら書いてしまった」という

のが望ましいと思っている。アタマ(思考・自意識)の介入

はできるだけ避けたいのです。


 私は義務感とか使命感というものは嫌いです。仕事上で求

められるものは別ですよ。それは引き受けた上で仕事をする

のですから。 でも、個人が自らに義務や使命を課すのは、ナ

ルシズムやマゾヒズムの臭いがして気持ち悪い。アタマの横

暴、自己陶酔だと思う。でも、ほとんどの人は自分に義務を

課すでしょう。アタマは自分に忍び込んだ社会だから、自分

をコントロールしたがる。「ああしろ」「こうしなくちゃ」

と。

 ニートや引きこもりの人なんかも自己否定感を持つでしょ

うが、それは自分の義務を果たしていないという意識がある

からでしょう。社会から離れていたってそういう意識がある

ということは、アタマが社会だからです。

 アタマが言うのです。「お前は義務を果たしていないぞ」

「義務を果たさない者は、社会の無用物だ。お荷物だ。社会

に迷惑をかける犯罪者だ」と。だから、社会から離れていて

も、罪悪感だとか、恨みだとかが心に湧いてくる。自己否定

か社会否定に心を乱される。


 けれど、個人に義務も使命もありません。あるわけがな

い。個人は本来自由です。たとえば、自殺するのも人を殺す

のも自由です。けれど、社会は自由じゃない。人を殺せば当

然断罪される。自殺すればそれなりの評価を下されるけれど

(まぁ、死んでるから気にならないでしょうが・・)、自殺

することができる、人を殺すことができるということは、個

人が自由だからです。何であれ、出来ることは何でもでき

る。自由でしょ? それを社会がどう扱うかはまた別の話で

す。


 私は悪いことをしてもいいとか、自殺してもいいとか言っ

ているのではありません。むしろ、そのようなことをする人

が出てくることは無くなって欲しい。そして、その原因が、

社会が個人に義務感や使命感を刷り込むことで個人の自由が

侵害されることの反動にあると思うのです。義務感や使命感

に圧迫されて苦しいから、自己否定や恨みが生まれてしま

う。


 義務も使命も社会の中にしかない。それを果たせないとい

う「罪」(犯罪って義務の不履行のことです)も社会の中に

しかない。自分の世界で自分がどのようであろうと、自分に

なんの罪もない。もちろん、自分の世界に引きこもり続け

て、社会と断絶し続ければ生存が危うくなるけど、それはし

ようがない。引き受けざるを得ないし社会に文句は言えな

い。社会をないがしろにする人間を社会が面倒をみる義務

無い。けれど、自分を否定する必要は無い。引きこもるなら

悠々と引きこもればいい。そうして自分の自由を味わえば、

社会の義務や使命を、距離を置いて見ることができるはず。

 「生存の為にはしようがないな。社会の義務の為に、自分

の自由を少し使ってやるか・・」なんて発想もできるのでは

ないかと思う。もちろん、「社会の義務を果たす為に自分の

自由を減らすぐらいなら、野垂れ死んでやる」というのもあ

りです。


 そのように個人は自由であるのに、個人に忍び込んだアタ

マがそれを隠す。

 なにも引きこもりの人だけじゃない。普通に社会に出てい

る人も、必要以上の義務感を持ってしまっていることが多

い。だから過労死や過労自殺なんかや、パワハラの泣き寝入

りとかがある。

 自分に義務を課すのは間違いです。社会の為に何かをする

なら、それは自発的に自然に生まれて来る衝動によるもの

あるべきです。「気が付いたらやっていた」。そうあるべ

だ。


 義務や使命は個人を不幸にする。

 義務や使命から離れて自由な人であってこそ、その人が社

会に関われば、却って良いものをもたらし得るでしょう。




2024年1月13日土曜日

「正義」が発生しないように・・・



 この前の『メンタル弱くて何がいけない?』でもそうだけ

ど、私は「弱くていいじゃないか」ということをよく書く。

書くけれども、「弱者が正義」みたいなことを思っているわ

けではない。

 世の中では弱者であることを盾にとって、「守られるべき

存在(弱者)をなぜ守らないのか!」という論調で他人を非

難し、攻撃する人間がよくいる。そういう人間は、自分のし

ていることが分からない。「こっちは弱いんだぞ!!」と怒

っている姿のどこが弱いんだ?そういう姿、やり口は滑稽で

下品だと感じる。


 そりゃぁね、強い立場の人間が弱い立場の人間を食いもの

にするのは許し難い。そういうのは非難されて当然です。け

れども、人間は比較することで世界を認識し、人間の世界は

比較することで動いて行くものですから、どのような場所で

もどのような状況でも「強い者」と「弱い者」が生まれてし

まうことは避けられない。その不可避の事実をわきまえず

に、「弱い者が生まれるのはおかしい」とでも言わんばかり

に平等を求めるのは浅はかです。そういう人間はたいてい平

等の立場になっても満足しない。立場が逆転して、自分たち

が「強い者」の側になってはじめて納得するでしょう(と、

私が思っているだけかもしれませんが)。立場は弱いかもし

れませんが、エゴは強いのですよ。


 本当に「弱い者」は声も上げませんよ。

 世の中に対してなすすべも持ちませんよ。だって、本当に

弱いのだから。


 「正義」というものは世の中に発生するものです。個人の

中に「正義」はありません。「正義」は、人のエゴの力を集

める器です。エゴの力を集めて強くするために「正義」は発

生し、エゴに利用される。けれども、本当に弱い者は「正

義」を利用する気力さえありません。ただただ圧し潰されて

いる・・・。

 しかし、「正義」の発生する余地さえないことは福音です

よ。エゴがその人を支配する力を失いかけているということ

ですよ。「正義の無い弱さ」の底には救いがある。


 〈 どん底まで落ちたら掘ればいい 〉と言った人がいます

が、「弱さ」の底の底を覗いてみればいいんです。そこには

もう「世の中」の姿も「正しさ」の誘惑もありませんよ。そ

こにあるのは「解放」です。

 一方、「(世の中の)強さ」の先の先にあるのは、もう比

較することから逃れようがないという「束縛」ですよ。


 正しいかどうかなんて問題じゃない。

 損か得かなんて意味が無い。

 生きられるかどうかなんて考えてもしようがない。

 弱ければ弱いままでそれでいい。

 自分の「弱さ」を正当化する必要も無い。

 自分を投げ出して「弱さ」の中に沈んでみればいいんで

す。


 そこでこそ、わたしたちの意識は解き放たれます。



 

2024年1月12日金曜日

自分を高める 👨‍🦱 ?



 テレビでやってる転職サイトだかのCMで、出演者が「自分

の市場価値を・・・云々」とか言うのがある。あれ「自分は

商品だ」と言ってるのと同じだけど、そんなんでいいのか

い?

 スキルを高めるのも、人間性を高めるのも自分の商品価値

を高めるためで、そうやって自分を売って、その先は・・?


 このブログで書いている内容でも、読むと「自分を高める

ための話」という感じを持つ人もあるかもしれないけれど、

書いている私からすると「背伸びして自分を高く見せようと

しているのをやめるための話」なんですね。

 背伸びしているから不安定で、それゆえに問題に巻き込ま

れて苦しむのが人間一般だと、私は考えているわけです。誰

もが、しなくていいことをしなくてはならないと思い込んで

しまっている。いや、思い込まされている。


 「見せるための自分」って何なんでしょう?

 「自分の市場価値」って何なんでしょう?

 「自分を高める」って言うけど、どういうことが「高め

る」にあたるのでしょう?

 そもそも「自分を高める」なんてことできるのでしょう

か?


 いろいろと高いスキルを身につけていれば、その分、世の

中で生きやすくなったりはするのでしょう。人間的に自分を

高めていれば、人に好感を持たれて嬉しいとか、安心感とか

も感じられるでしょう。けれど、そういうことは、そういう

ことが価値あることと見做されるシチュエーションでの話

で、自分の表面に価値があるということになっているもの

付け足したということであって、「自分を高めた」というこ

とではない。自分はそのままです。


 世の中で役に立つことや、良い人間と思われるパーソナリ

ティを身に付けることは良いことでしょう。わたしたちは人

との関わりの中で生きているのですから。けれど、そうい

う、人と関わっている部分を自分だと思ってしまうことは苦

しみを生む。その部分は評価の世界に有って、評価というも

のはシチュエーションが変われば違ってくるので、その変化

に翻弄されるからです。比較の世界にいる限り、ひととき喜

ばしいことがあってもすぐに揺り戻しや反作用がある。


 「高い」とか「低い」とか考えるのは、比較の世界に意識

があるからです。それぞれの人の本質に「高い」も「低い」

も無い。高めることも低めることもできない。本質は評価の

世界から外れたところにある。そのままで、絶対。


 ほとんどの人は、何が起きるかなんてことを真剣に考えて

みないで自ら比較の世界に入り込む。いや、考えられない

ように仕向けられてそうする。その中で「自分の市場価値」

なんてことを本気で考えているのは極端な人だろうけれど

(もしかすると結構な割合かもしれないが・・・)、いくら

なんでも変だとは思わないのだろうか?

 自分が商品なら、それは人身売買です。自ら奴隷になろう

としているわけですよ。だから「社奴」「社畜」なんて言葉

が生まれる。

 「社奴」「社畜」というのは「会社の奴隷」「会社の家

畜」という日本的なイメージだけど、決して日本だけではな

い。

 世界を見れば誰もが「市場社会の奴隷」であり「市場社会

の家畜」になっている。経済の奴隷です。それを「夢」とい

うような言葉で欺かれて自ら望む・・・。


 バーノン・ハワードがこう言っている。

 「社会というものは、一方の手で殴り倒し、もう一方の手

で助け起こし、助け起こしたところだけを取り上げて英雄的

行為とみなす」と。殴り倒す方が多いことに気付いても良さ

そうに思うのだけど。


 殴り倒されないようにするためにはどうするか?

 立たなければいい。

 なるべく寝てるがいい。


 そうはいっても、生きる為には社会の中で立っていなけれ

ば仕方がない。けれど「自分を高める」なんて言って社会の

中で背伸びなどしていると、殴り倒された時のダメージはさ

らに酷くなる。


 自分を高めない。

 自分を固めない。

 自分を侮らない。

 価値や形にならない自分の本質に目を向ける。

 飾りなし、掛け値なしの自分がここにある。それは愛おし

いはずです。

 自分が自分を愛おしいと思うのは当たり前過ぎるはずだけ

ど、社会は、人が自分で自分を愛おしいと思うようにさせな

いようにする。比較の世界に誘い込む。


 自分を低めてみればいい。徹底的に低めて、徹底的に小さ

くなって、出来得る限り無価値になってみればいい。それで

も自分は在る。その絶対性の価値は計り知れない。 



2024年1月9日火曜日

メンタル弱くて何がいけない



 You Tube のおすすめの中に、“メンタルを強くするには” 

みたいなのがあった。まぁ普通はメンタルを強くしたいと思

うものなんでしょうが、「メンタル弱い」のはダメなんでし

ょうか?「メンタル弱い人」は、そういう自分を受け入れて

あげればそれでいいんじゃないでしょうか?

 メンタルにしろ何にしろ、「強い」=「善」みたいな価値

観に社会が支配されていることの正当性を疑ってもいいと思

いますよ。

 「メンタルを強くして、自己肯定できるようになりたい」

なんて思ったりするんでしょうが、弱かろうが強かろうが、

宇宙の歴史で一回っきりのそれぞれの人生ですよ。ダメダメ

な自分だとしても、自分を慈しんであげる・・・それがほん

とうの「自己肯定」なんじゃありませんか?
 「強いメンタルを持って、“自己実現” 」みたいなことを言

ったりもするけれど、「自己」を「実現」してからじゃなく

て、強かろうが弱かろうが、「いま実現している自己」を愛

していいんですよ。そうして心の落ち着きを得られたら、そ

の落ち着きをもとに、あらためて毎日を生きてみる・・。き

っと何かが違うはずです。


 弱くてもいいじゃないですか。そのせいで世の中で上手く

やれなかったり、実際的に困ったり、絶望したりするかもし

れない。ことによれば人生半ばみたいなところで生きられな

くなるかもしれない。でも、どの人生もいずれは終わる。ち

ょっと長い短いや、派手か地味かの違いがあるだけ。


 わたしたちは「強い」とか「弱い」とか、なんでもかんで

も比べる習性を刷り込まれてしまっているので、比べること

による価値しか意識できなくなっている。けれど、比べるこ

ととは無関係の絶対の価値というものがある。それは、世の

中とは無関係の、いまここにある自分です。あらゆる比較や

評価をすべて無視し、自分から剥ぎ取ったとしても、いまこ

こに自分はある。それは間違いない。

 強かろうが弱かろうが、不幸だろうが幸福だろうが、いま

ここに自分はある。この自分はあらゆる比較と評価を超越し

てる。どのような比較と評価も、この自分を傷付けることは

できない。それはある意味「強さ・弱さ」とは次元の違う形

での強さです。強さと言うよりは「絶対性」とでも言うべき

敵のものです。


 「メンタルなんて弱くてかまわない」と思えるなら、それ

は逆説的に最強のメンタルだと言えます。そう思えたら「絶

対性」という無敵さまであと一歩です。そして、その一歩は

「絶対性なんて別にどっちでもいい」という納得の上に踏み

出されます。真理は逆説的なのです。


 メンタル弱くて何がいけない?

 出来損ないで何がいけない?

 性格悪くて何がいけない?

 不幸で何がいけない?

 生まれて来てしまって何がいけない?

 死んでしまうことの何がいけない?


 要するに “開き直り” ですが、「直る」という言葉は「ゆが

まず、そのまま」ということ。「開く」という言葉は「開け

放つ」ということ。

 そのままの自分を開け放してしまう。無力になる。


 その、“そのままの自分” に対しても、世の中からさまざま

な評価がなされる。けれど、開け放していれば、その評価は

自分の表面を通り過ぎて行く。そして、その感覚は自分にこ

う告げる。「自分は無敵だな」。


 「自分はメンタル弱い・・・」と思ったら・・・、チャン

スです👍





 

2024年1月7日日曜日

そんなん知らんがな・・・



 一年程前の大雪の日に「人生は不要不急」という言葉を書

いた(『不要不急の人生』2023/1)

 「人生は不要不急」。我ながらいい言葉だなぁと思う。

 別にどうしてもしなくてはいけないことは無い。

 急がなければいけないことも無い。

 もちろん、それをしないせいで困ることや、急がなかった

ために困ることもある。あるけれども、本当にしなくちゃな

らないことは、「しなくちゃ」なんて思うこともなくやって

いるだろうし、本当に先に済ませなければならないことは、

「急がなくちゃ」なんて考えずにやってしまうものです。要

するに通常運転の中に収まっている。ことさら「しなくち

ゃ」「急がなくちゃ」という意識が表にでてくることは、本

当は不要不急です。さらに言うなら、生きること自体が不要

不急です。生まれて来るときに何か用事がありますか?

 世の中とか人生とかから何か用事のようなものを教え込ま

されても、「勝手にこの世に生み出されたんだから、そんな

ん知らんがな」と思うのは健全なことだろうと思う。


 とはいうものの、生き物は「さしあたり生きていたい」と

思うようにできているのが普通で、人間の場合、世の中が求

めてくることをある程度はこなさなければ生きるのが難しい

から、なんでもかんでも「そんなん知らんがな」とは言って

られない。なので私の場合だと「世の中をたしなむ程度」に

こなすことになる。で、そこそこ生きられたら、あとは「そ

んなん知らんがな」と・・・。世の中にまともに付き合って

たら狂ってしまうからね。


 世の中は狂ってる。

 カルト教団の信者なんかを見て、人々は「狂ってる」なん

て言うけど、当人たちは大真面目で、自分たちが狂ってるな

んて思わない。同じように、普通の世の中にいる人も狂って

るといえるけれど、当人たちはそんなことは思いもしない。

その中の人は、その中の考えしか持たないから。


 なんで世の中が狂ってて、世の中にいる人も狂ってるって

言えるかというと、それぞれの国や地域や文化の中で、それ

ぞれの人々はその価値観を無視することを異常だと考えてい

るはずだけど、アマゾンの密林の中で狩猟採集生活をしてい

るような人たちも何千年と生きていることを考えれば、いわ

ゆる世の中の価値観ってお約束の妄想でしかない。それを無

視できない現実と捉えて固定してしまっていて、無視する者

はひどい目にあったりするんだから、狂ってるといっていい

でしょう。

 ひどい目にあわされたくないから付き合わなければしょう

がないけど、ほどほどにしておかないと自分も狂ってしま

う。


 こんなことを広く人目に触れる状況で書けば「おまえの方

が狂ってる」と言われる可能性はとても大きい。なのでこん

な辺境で書いている。これが何のためになるのか?そんなん

知らんがな。

 実際、狂ってるのは私の方だというのが正解かもしれない

しねぇ。なにせ、狂っていることは本人には分からない。し

かし、狂気から発せられた言葉は、常識に縛られて苦しんで

いる人の考えを別の方へ向かせる可能性は有るはずなので、

たとえ私が狂っていても、それが誰かの役に立つかもしれな

い。生きていると何が幸いするかしれない。もしかしたら災

いするかもしれないけど、そんなん知らんがな。


 急がず、深刻にならず、世の中の事も、他人の事も、自分

の事も「そんなん知らんがな」とながめれば、本当にすべき

ことが自然に立ち上がってくるだろうと思う。

 「人生は不要不急」

 ありがたいなぁ。