2024年1月28日日曜日

義務と引きこもり



 この頃、ブログを書きかけても途中で手が止まる。まぁ、

書きたいことはあらかた書いてしまっただろうからしようが

ないだろうなぁ。

 戦争が起きたり、地震が起きたり、酷い事件が起きたりす

るけど、これまでにもそういうことをきっかけにブログを書

いたりしてきたから、それを題材にしてブログを書くと、同

じことの繰り返しになってしまう。まぁ、それでもいいんだ

ろうけど、このブログを義務とか使命のようなものにしたく

はない。ごく自然に、「気付いたら書いてしまった」という

のが望ましいと思っている。アタマ(思考・自意識)の介入

はできるだけ避けたいのです。


 私は義務感とか使命感というものは嫌いです。仕事上で求

められるものは別ですよ。それは引き受けた上で仕事をする

のですから。 でも、個人が自らに義務や使命を課すのは、ナ

ルシズムやマゾヒズムの臭いがして気持ち悪い。アタマの横

暴、自己陶酔だと思う。でも、ほとんどの人は自分に義務を

課すでしょう。アタマは自分に忍び込んだ社会だから、自分

をコントロールしたがる。「ああしろ」「こうしなくちゃ」

と。

 ニートや引きこもりの人なんかも自己否定感を持つでしょ

うが、それは自分の義務を果たしていないという意識がある

からでしょう。社会から離れていたってそういう意識がある

ということは、アタマが社会だからです。

 アタマが言うのです。「お前は義務を果たしていないぞ」

「義務を果たさない者は、社会の無用物だ。お荷物だ。社会

に迷惑をかける犯罪者だ」と。だから、社会から離れていて

も、罪悪感だとか、恨みだとかが心に湧いてくる。自己否定

か社会否定に心を乱される。


 けれど、個人に義務も使命もありません。あるわけがな

い。個人は本来自由です。たとえば、自殺するのも人を殺す

のも自由です。けれど、社会は自由じゃない。人を殺せば当

然断罪される。自殺すればそれなりの評価を下されるけれど

(まぁ、死んでるから気にならないでしょうが・・)、自殺

することができる、人を殺すことができるということは、個

人が自由だからです。何であれ、出来ることは何でもでき

る。自由でしょ? それを社会がどう扱うかはまた別の話で

す。


 私は悪いことをしてもいいとか、自殺してもいいとか言っ

ているのではありません。むしろ、そのようなことをする人

が出てくることは無くなって欲しい。そして、その原因が、

社会が個人に義務感や使命感を刷り込むことで個人の自由が

侵害されることの反動にあると思うのです。義務感や使命感

に圧迫されて苦しいから、自己否定や恨みが生まれてしま

う。


 義務も使命も社会の中にしかない。それを果たせないとい

う「罪」(犯罪って義務の不履行のことです)も社会の中に

しかない。自分の世界で自分がどのようであろうと、自分に

なんの罪もない。もちろん、自分の世界に引きこもり続け

て、社会と断絶し続ければ生存が危うくなるけど、それはし

ようがない。引き受けざるを得ないし社会に文句は言えな

い。社会をないがしろにする人間を社会が面倒をみる義務

無い。けれど、自分を否定する必要は無い。引きこもるなら

悠々と引きこもればいい。そうして自分の自由を味わえば、

社会の義務や使命を、距離を置いて見ることができるはず。

 「生存の為にはしようがないな。社会の義務の為に、自分

の自由を少し使ってやるか・・」なんて発想もできるのでは

ないかと思う。もちろん、「社会の義務を果たす為に自分の

自由を減らすぐらいなら、野垂れ死んでやる」というのもあ

りです。


 そのように個人は自由であるのに、個人に忍び込んだアタ

マがそれを隠す。

 なにも引きこもりの人だけじゃない。普通に社会に出てい

る人も、必要以上の義務感を持ってしまっていることが多

い。だから過労死や過労自殺なんかや、パワハラの泣き寝入

りとかがある。

 自分に義務を課すのは間違いです。社会の為に何かをする

なら、それは自発的に自然に生まれて来る衝動によるもの

あるべきです。「気が付いたらやっていた」。そうあるべ

だ。


 義務や使命は個人を不幸にする。

 義務や使命から離れて自由な人であってこそ、その人が社

会に関われば、却って良いものをもたらし得るでしょう。




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