2024年2月26日月曜日

異常が普通で、普通が異常?



 近所の家に植えられてる沈丁花が花を開いている。センニ

ソウやアジサイの芽も伸びだし、もう春は始まっている。

 何日か前はかなり気温が上がって4月並みだったとか。今

日は肌寒くて、4日後ぐらいには最低気温が0℃ぐらいにな

る予報。まぁ “三寒四温” というこの時期にありがちなことだ

と思うけど、この程度のことで「異常気象」ということを言

う人が結構いる。小学生ならともかく、結構な歳の人が口に

するので驚く。これまでの人生経験でこの程度のことはあっ

ただろうに・・・、洗脳されてるんだなぁ。


 地質学や考古気象学で、氷河期について研究している人た

ちは、そう遠くない将来に通常通り「氷期」が来ると考えて

いる人がほとんどだろうと思う(確認は取っていないけ

ど)。けれどそういう話はほとんど世に出ない。世の中は通

常の中の小さな「異常」が大好きだ。

 「異常」といっても、「異常と思われること」を取り上げ

て話題にするだけのことで、本当に異常なわけではない。

「雨が地面から空に向かって降る」ようなことはない。


 考古気象学、地質学の常識からすれば、過去100万年ぐ

らいの気象サイクルを考えるといまの間氷期はもう終わりか

けていて、もうすぐ氷期になるはずだが、人々はそれを望ん

でいない。間氷期が終わらないという「異常気象」を望んで

いる。ご都合主義だなぁ。


 その時々に「異常が普通」で「普通が異常」だと、自分の

都合次第で決めるのがわたしたちのアタマの得意技。これは

人類が滅びるまで変わらないだろう。

 人次第で、社会情勢次第で、異常が普通になり普通が異常

になるので、社会のことに公然と意見を言う気になれない。

そんなことに関わると酷い目に遭うのが目に見えている。な

ので、ネットの辺境で憂さ晴らしをしている。


 異常も通常もないだろう。すべては「そういうもんだ」と

いうだけだ。

 人間の為に世界があるわけじゃないし、ましてや一個人の

為に世界があるわけがない。人間の社会というものも個人の

為にあるのではないのだから、社会で起こることが異常だと

思えても、さほど驚くことでもないだろう。そういうもん

だ。

 どれほど自分に都合が悪くても、起こることは起こる。そ

れをいちいち嘆いていてもつまらない。そういうもんだと受

け止めてしまえば気楽なものだし、そうせざるを得ない。


 人間の愚かさのせいで気候変動が起こるとしても、「人間

は愚かだからしょうがない。そういうもんだ」と受け止める

しかない。だって、どう考えても愚かさがなくなるとは思え

ない。

 私の予想外に人が賢明になったとしても、それはそれで結

構なことだから、それならそれで大歓迎。でも「日暮れて道

遠し」という感は否めない。


  この夏が 雨か日照りか知らねども 

  今日のつとめに 田草取るなり


 いい歌だなぁと思う。

 いま風にするとこんな感じになる。


  給料が 上がるか下がるか知らねども 

  今日も朝から 顔洗うなり


 都合が良かろうが悪かろうが、さしあたり生きて行くのな

ら機嫌良く生きる。

 それが普通というものではなかろうか?


                       
                        カンサイタンポポ です
                      神戸ではとても珍しくなった
      
  

2024年2月25日日曜日

選択という不自由



 欧米人は何かといえば「選択」という言葉を使う。なんで

も自分で決めて、自分で選ばなければ気が済まないらしい。

「おかげさま」とか「ご縁」とか「その場の空気」なんてこ

とを口にする日本人からしたら、「なんかキツイなぁ」とい

う感じがする。


 私なんかは、この世界は「縁起」によってできていると思

っているので、自由意志なんか無いという立場だし、《 世界

は惰性で動いている 》なんてことも口走る人間なので、欧米

人がやたらと「選択」と言うのには、いつも鼻白む。「ちょ

っとは深く考えてみろよ」などといつも思いながら、かれこ

れ20年以上にはなるだろう。「個人主義だからなぁ」なん

て思っていたのだけど、最近、彼らが「選択、選択」と口走

る理由に思い当った。彼らには『最後の審判』があるのだ。


 『最後の審判』において、善い行いをして来た者は天国

へ、悪い行いをして来た者は地獄へと振り分けられるそうな

ので、善い行いをするように自分で「選択」をしなければな

らないのだろう。彼らにとっては、何を選びながら生きてい

行くかはとても重要で、毎日々々がテストのようなものなの

だろう。なので「どっちでもいい」なんて無責任なことはで

きないということのようだ。

 私の考えのように、人がどのような生き方をするかは「縁

起」によるもので「自由意志」など無いとなれば、どんな生

き方であれ自分のせいではないことになるので、『最後の審

判』が成り立たなくなるから、彼らはそんなこと考えもしな

い。そんなことを考えてしまうと、彼らの社会の根幹が揺ら

ぐ。なので、なんでもかんでも「選択、選択」・・・。


 『最後の審判』に備え〈「自由意志」によって、「選択」

して、自分の運命を決めて行く 〉という意識が深層心理に深

く刷り込まれているのだろうけど、それは〈 「選択しなけれ

ばならない」という運命によって、「選択しない自由」が許

されない 〉ということで、「なんとも不自由で選択肢の無い

社会だなぁ」と思う。

(ちょっと、イジワル過ぎるかな?こういう宗教的な話を茶

化すと、どこかから脅迫文が来そうで怖いけれど、まぁ、こ

こはネットの辺境だから大丈夫だろう・・・、ということで

先へと進みます)


 日本人の欧米コンプレックスもかなり長いので、今では

「自分で選ぶ」とか「自分で運命を切り開く」みたいなこと

を考えてる日本人がほとんどなのだろうけど、それは「自

由」ということではない。くどいけれど、わたしたちに「自

由意志」は無い。


 「選択する」ことも、「選択しない」ことも、世界の働き

によってそのようにさせられているというのが事実です。そ

こに選択の余地は無い。

 選択の余地など無いのです。人生は1mm の隙間もなく

「さだめ」で埋めつくされているのです。1秒たりとも自分

の時間は無いのです。


 そんなことを言われると「それじゃぁ、生きている意味が

無い」とか人は思う。牢獄に閉じ込められているような思い

になるかもしれません。けれど、人生が「さだめ」に埋め尽

くされているのなら、こんな気楽なことはありません。だっ

て完璧に至れり尽くせりなんだから。


 随分前に〈 自由とは、何もしたいことが無いということだ 

と書いたことが有ります。「何もしたいことが無いという

のは、満たされているからだ」と。それは「何もする必要

無い」ということでもあります。

 人生が「さだめ」に埋め尽くされていれば、何も気に病む

必要は無い。気を揉んでも意味が無い。「気に病む」ことも

「気を揉む」ことも、それも「さだめ」だと心得ていれば、

何の気遣いも要らない。すべて「お任せ」で、心は解放され

ます。自由です。それは〈 自由意思 〉です。「自由にできる

意志」ではなくて、「自由である意思」です。

 あらゆる責任も義務も人生からの要求や圧力も、すべては

「さだめ」の中に有って、「さだめ」に任せておけます。こ

んな清々とすることはない。


 「選択の自由」などありません。あるのは「選択できない

という自由」です。

 アタマの語る物語だけに目を向けていては気付けません

が、わたしたちは決定的に自由です。その自由を意識できる

かどうかも選択できないのですが・・・。




 

2024年2月23日金曜日

「嘘か本当か?」 ?



 Open AI の開発した生成 AI が文章から作ったという動画

がリアル過ぎて話題になっているね( “メディアが話題にし

ている” という方が正しいだろうけど)。「何が本当か分か

らなくなる・・・」と問題視する声があるけれど、そもそも

情報に本当のことが有ると思っていること自体が問題だとも

思える。

 本当とはなんなのか?

 嘘とはなんなのか?

 この機会にそんなことを考えてみるのも良いんじゃない

か?


 たとえば、ウクライナやガザで起きている戦争についてい

ろいろな報道がされ、ネット上に情報が入り乱れるけれど、

そんなことを頼りにして、事の真相を知ろうなんてバカげて

る。たった一つの情報でも、その真偽を知っているのは当事

者だけで、情報としてそれを受け取った側に出来るのは、信

じるか信じないかだけだ。

 時間的・距離的に一番近い人であってもそうなのだから、

メディアやネットを通じて情報を受け取った人間が「信じ

る」「信じない」なんて、もはや信仰レベルだろう。

 「信じる」「信じない」ではなくて、「関係ない」という

のが本当でしょう。情報というものは「関係ない」ものだと

わきまえておくのが健全であるように思う。情報って、ほと

んどすべてはわたしたちの暮らしに関係ないでしょ?


 「この周辺で熊が目撃されました。危険ですので、しばら

く外出は控えるなど注意して下さい」という警察からの情報

みたいなものでもなければ、情報なんて関係ない。

 生活に直接関わるようなものでなければ、情報なんて嘘で

も本当でもどっちでもいいでしょう。


 AI が作った動画でどこかの大統領がしゃべっていようと、

そんなの気にする方がおかしい。ところがわたしたちは骨の

髄まで、情報に関わるように仕込まれているので、いちいち

関係ないことに関係を持とうとする。関係があるかのように

思い込んで、トイレットペーパーを買い溜めしようとホーム

センターに急いだりする。そういうのを “関係妄想” という。


 戦争が起こったり、景気が良くなったり悪くなったりする

のも、元をただせば、ひとりひとりの “関係妄想” から始まっ

ていて、さらにその元は “情報” という刺激です。


 妄想から情報が生まれ、情報から次の妄想が生まれる。

 それが果てしなく広がって世界が実際に変化し、その変化

があらたな妄想と情報を生み、世界は妄想的なものになって

ゆく・・・。

 それを止めることはできないけれど、私はできるだけ巻き

込まれたくない。だから関係ないものは「関係ない」とす

る。世の中なんて、たしなむ程度にする。


 1400年も前に聖徳太子が「世間虚仮」と言っている。

情報を発信している「世間」というもの自体が作り物なんだ

から、情報が嘘か本当かなんて関係ない。


 私は別に聖徳太子を信じているわけではない。単に同意し

ているだけです。「そうですよねぇ」と。

 でも「そうですよねぇ」という私の考えは、これまでに私

が接して来た情報によって出来上がっているものなので、そ

の考えも妄想ではある。人はそれぞれに、それぞれの妄想の

中で生きるしかないけれど、その妄想は人に安らかさをもた

らすものであるべきではないだろうか?

 「世間虚仮」という妄想は私を安らかにしてくれる。


 《 社会は安らぎを嫌う 》と以前書きましたが、社会から発

せられる情報というものは、人を不安にさせ、そわそわと浮

足立たせ、懐疑や憎しみを引き出すものがほとんどですか

ら、「世の中自体が作り物だ」と理解していることは、安ら

ぎに繋がります。


 「そもそもウクライナやガザで戦争なんてやっているの

か?」とも思います。まぁ本当にやっているんでしょうけ

ど、なんで、わざわざ地球の裏側まで心を出張させて気を揉

まなければならないのでしょうか? 当事者が人と仲良くしよ

うとしないせいなんですから、自分たちで何とかすればいい

のです。関係ないですよ。


 こういうもの言いに対しては「人が死んでるんだぞ!殺さ

れてるんだぞ!」と怒る人も普通にいるでしょうけど、たと

えば2021年には、世界で45万8千件もの殺人事件が

きているという情報がある。けれど、そういう話はほとん

メディアが取り上げない。つまり情報として広く報じられ

いないので、わたしたちは知らない。

 それに対して戦争の死者数が逐一報じられたりするのは、

戦争がとても政治的なものであるゆえに、国家間あるいは民

族間などの政争の手段として情報が利用されるからです。そ

のような情報に直接関係のない者が首を突っ込んでも、ロク

なことにはならないでしょう。


 〈ヒューマニズム的思考〉とでも言うような怪しいアプリ

をアタマにインストールされて、妄想のプログラムがすぐに

動き出してしまうようになっているのが、現代人というもの

でしょう。そして関係ないのに関係を持とうとするので、妄

想から生まれた理不尽がさらに増悪してしまう。


 いまわたしたちは、「関係ない」という態度をとることに

ついて、強く規制されている。「関係ある」と何にでも首を

突っ込むことの弊害と不自然さは、不問にされたまま・・。

社会は安らぎを嫌いますからね 💣




2024年2月19日月曜日

完璧主義者に物申す



 世の中には結構「完璧主義」の人がいますよね。「主義」

というよりは、そういう性分だという方が当たってるでしょ

うけどね。

 仕事でもなんでも、きちんとしなければ気が済まない。他

人に対してもそれを求める傾向が強い。

  私も、昔は少しそういう傾向があったけど、この頃はかな

りテキトーになりました。目出度いことです。


 なぜ目出度いかといえば、「完璧主義者」はエゴイストだ

からです。自己中でわがままではた迷惑。困った存在です。

当人がそれを認識していればまだしも、「自分はするべきこ

とをちゃんとやっている。模範的な人間だ」というようなセ

ルフイメージを持っていたりします。イヤな奴ですね。


 仕事なり何なり、物事を完璧にこなすことは良いことです

が、そこに性分や主義を介入させてはいけない。そんなとこ

ろに「性分」だとか「主義」だとか個人の都合を持ち込むも

のではありません。単に物事からの求めに応じて、それに

応えてゆくだけのことなので、没個性な態度が望ましいので

す。

 もちろん誰にでも、それぞれの能力・適正がありますか

ら、それが表れてくるのはそれでいいのですが、「性分」や

「主義」からは、その人の価値判断が出てきます。評価が伴

います。そんなもの邪魔なのです。お呼びでないのです。目

障り、耳障りです。


 「完璧主義者」は、自分がワガママで自己中でエゴイスト

でとても疎ましくはた迷惑な存在だということを肝に銘じる

べきです。役に立つ人でも良い人でもありません。ハッキリ

言ってイヤな人間です。骨の髄まで自覚すべきです!


 と、なぜこんなに私が「完璧主義者」をこき下ろしている

かというと、「完璧主義者」を〈「完璧」という地獄〉から

救ってあげたいからです。

 「完璧主義者」の中には、自分でも薄々気が付いている人

がそこそこいるでしょうけど、「完璧主義者」が居る所は地

獄です。「完璧主義者」は、いつも社会と自分に監視され、

評価され、脅迫されているからです。


 人間がすることに「完璧」などありえません。

 無いものを求め続けるほど虚しいことはありませんよね。

けれど、「完璧主義者」はそれをしている。病気ですよ。

 そのように無いものを求め続けていると、結果が出ないの

ですぐにイヤになりそうなものですが、「完璧主義者」はそ

うはなりません。なぜなら自分の都合の良いところで「ヨ

シ!これでイイ!」と「完璧」を自分で設定します。そうで

なければ何ひとつ終わらせることができないからです。

 そのように「完璧主義者」は自分に嘘をつき続けなければ

なりませんから、意識しているにしろ、していないにしろ、

自分をごまかしているという自己嫌悪の中で生きなければな

りません。その不快感ゆえに、他人の不完全さを指摘するこ

とで「自分だけが不完全なわけではない」と無意識に自分を

正当化しなければいられないのです。「完璧主義」は自他と

もに傷つけるたちの悪い病なのです。


 「完璧主義者」に物申す。

 あなたは出来損ないです。その上に病気なんです。

 人間はみんな出来損ないなのです。

 そして「完璧主義者」ほどではないにしろ、誰もが「自分

や他の誰もが出来損ないである」ことを認められないという

病気なのです。


 完璧は、天のつかさどるところ

 完璧を求めるのは、人のつかさどるところ


 そういう言葉がありますが、私はそこにもう一言付け加え

たい。


 完璧をあきらめるのは、仏のつかさどるところ


 自分と他の人たちの安らぎの為に、「完璧」をあきらめま

しょう。それを「成仏」と言います。「完璧」をあきらめれ

ば救われるのです。


 人は、天によって「出来損ない」として作られています。

 それは、出来損ないのままで「完璧」だということですか

ら、それ以上に「完璧」を求めると「完璧」から外れてしま

うのです。つまり、迷うのです。


 アタマが考える「完璧」なんて、迷いでしかないのです。




2024年2月18日日曜日

環境問題



 今回は環境について。といっても「エコ」方面の話じゃな

くて、そもそも「環境」とは何なのかという話です。


 環境というと、普通は〈 ある任意のモノのまわりの状態 〉

だと考える。 人であれば、その育った状況とか今置かれてい

る状態だとかを考える。けれど、私は自分の身体や心の中の

状態も環境だと考えている。


 例えば、〈 寒いからダウンジャケットを着ようと思った

が、この半年ですごく太ったので着るのをあきらめた 〉とい

う場合。〈 寒い 〉という外的環境と〈 太った 〉という内的

環境が〈 ダウンジャケットを着ようとしたけどあきらめた 〉

という目的と結果を生みだしたわけです。

 また〈 太った 〉という身体的な環境ではなく、〈 ダウン

ジャケットのデザインが流行遅れだから着るのをやめた 〉と

いうのであれば、心理的環境によって同じ結果が生まれたこ

とになります。

 このことで人の目的・行動は、外的環境と身体的・心理的

な内的環境で決まっているのが分かりますが、そうすると重

大な疑いが立ち現れて来ます。

 「自分はどこにいるのか?」ということです。


 外の環境があって、心・身体という中も環境だということ

になれば、いったい「自分」というものは何処に存在できる

のでしょうか?

 目的を持ち、結果を得た「自分」というのは何なのでしょ

うか?「意識」が自分でしょうか?

 けれど、〈 このダウンジャケット、流行遅れだな・・・〉

という想いを持ったのは「意識」ですから、「意識」が自分

だとしたら、環境としての「意識」と、自分という「意識」

の二つの「意識」があることになりますが、そんなものある

のでしょうか?

 「主観」と「客観」ということも考えられますが、〈 流行

遅れでカッコ悪い 〉と思う方と、〈 寒いからダウンを着た

い 〉と思う方のどちらが「主観」なのでしょうか?


 〈 寒いからダウンを着たい 〉というのは身体の求めであ

り、〈 流行遅れだから着れない 〉というのは心の求めです

が、身体と心とどちらが「主」なのでしょうか?


 わたしたちが判断の難しい事に直面すると、「やれ!」と

いう声と「やめろ!」という声がアタマの中を駆けめぐりま

すが、どちらが「主観」だか決まっていないので、葛藤する

ことになるわけです。つまり「主観」も「客観」も無い。わ

たしたちは、その時々に “主観・客観ごっこ” をしているだけ

であって、「自分」というものは無い。


 身体が「自分」なのでしょうか?

 他人の臓器を移植することはできません。移植適合者の臓

器であっても、免疫抑制剤を使い続ける必要がありますか

ら、身体はあきらかに「自分」です。けれど、人は自殺でき

る生き物です。その時には心が主導権を握ります。そういっ

たことを鑑みると、身体が「自分」と言い切るわけにもゆき

ませんし、〈 寒い 〉という外的環境に動かされたりと、外的

環境に主導されますから、外的環境が「主」ということも言

えてしまいます。その上、外的環境と内的環境のすべてが意

識できているわけでもありません。わたしたちの身体と心は

無意識のうちに環境に動かされてもいます。・・・自分はど

こだ・・・。



 ・・・と、ここまで書いて来て先へ進めなくなってしまっ

た。無理して進めると、いわゆる「スピリチュアル」や、い

わゆる「宗教」になってしまう。確信だか妄信だか分からな

いことを書いてしまうことになる。そういうのは最も避けた

いところです。


 ですが、敢えて話を進めてみるなら、「自分」というもの

がどこにあるのか分からないのであれば、「自分」の外にあ

るはずの「環境」というものも、何だか分からないものにな

って来ます。「自分」というものの対概念として「環境」と

いうものがあるからです。それなら「環境」=「自分」とい

うことになるのかもしれません。つまり「世界は自分だ」。


 誇大妄想になってしまいましたね。でも「自分」というの

は、「世界」がやってる “悪ふざけ” か “いたずら” のような

ものかもしれませんよ。

 もしそういうイメージが的外れでないのなら、“いたずら” 

になり切ってみるのは面白そうじゃないですか?





2024年2月15日木曜日

悠々と



 「悠々としていたいなぁ・・」みたいなこと思ったりしま

せんか?「悠々と」という在り方は、人が生きて行く上で最

も望ましい姿だと思いますね。でも、なかなかそんな風には

なれないと誰もが思う。でもホントはそんなことない。悠々

とするのはそんなに難しいことではない。


 誰かが悠々としているのは、ゆとりが生まれる状況が整っ

て、結果的に悠々とした態度になっているということが多い

でしょうけど、「悠々と」というのはその人の在り方ですか

ら、結果ではなく、前提として「悠々と」というのが可能で

す。悠々としてしまえばいいということです。

 《 しあわせになるのに理由はいらない 》と時々書いてきま

したけど、それと同じことです。《 悠々とするのに条件はい

らない 》という感じですね。


 昔、「悠々として急げ」という言葉を目にしたことがある

ように思います。開高健さんの本のタイトルだったように思

いますが、この言葉は「急いでいても、悠々としていること

は可能だ」と言っています。そしてどのような状況でも悠々

としていることはできます。


 道に迷っていても悠々としていることはできます。

 お金に困っていても悠々としていることはできます。

 ヤクザにからまれても悠々としていることはできます。

 ガンで余命一か月でも悠々としていることはできます。

 テロリストに銃を突きつけられても悠々としていることは

 できます。

 引きこもりになっても悠々としていることはできます。

 鬱病になっても悠々としていることはできます。


 ハードルが高い事柄もありますが、いついかなる状況でも

悠々としていることはできます。

 悠々としていることを自分の基本姿勢にする。その上でさ

まざまな出来事を受け止め、ざまざまなことをこなして行

く。それは可能ですし、それほど難しいことではない。

「“悠々と” というのは、結果ではなく、前提だ」という意識

の転換ができれば、結構やすやすと悠々としてしまえるので

す。「メチャメチャあせりながら悠々としている」なんてこ

ともできるのです。


 なぜそんなことができるのかというと、そもそも「悠々と

している」のが、命の在り方のデフォルトだからです。

 ところが、わたしたちはアタマに惑わされて、それが分か

らなくなっている。

 ときおりアタマの目的が達成されて、アタマの活動が落ち

着いて弱まった時に、デフォルトである「悠々と」が表面に

出て来る。そのせいで「悠々と」は結果だと思ってしまって

いるのですが、違うのです。アタマが悪いのです。本来、わ

たしたちは悠々としているものなのです。いつだって、わた

したちの心には悠々たる静けさが満ちている。しかし、絶え

間ないアタマのおしゃべりに注意をそがれてしまい、自分の

中の悠々さが分からない・・・。

 それでも、アタマのおしゃべりの外へ少し意識を向ける

と、それはすぐに感じられる。自分が本当は「悠々と」して

いるのが分かるのです。


 それは、これ以上ない、底知れないような贅沢なことで

す。何が起きようが、命は本来悠々としている・・・。

 感謝感激雨あられ😂





 
 

2024年2月14日水曜日

現実逃避



 このブログで書いている内容は、世の中で上手くやってい

る人間からすると、現実逃避に見えるだろうと思っている。

変な思想や宗教にはまっている人間と同じに思われるだろ

う。本人はそうではないと思ってはいるが、確信は無い。一

応自分でも少し疑っている。


 ところで、この頃、映画やゲームやテーマパークで「現実

逃避する」という表現をよく聞く。こういう使い方はおかし

いように思って違和感を感じるのだけど、もしかして多くの

人が、本当に現実逃避のために映画を観たりゲームをしたり

しているのだろうか? もしそうなら世の中終わってるなぁと

思う。


 私が映画を観たりするのは、非現実を楽しむだけのことで

現実逃避というものじゃない。私は逃避しなければならない

ほど現実に怖れや脅威を感じていない。他の人たちは違うの

だろうか?それとも、意味をよく考えもせず現実逃避という

言葉を使っているだけで、深い意味は無いのだろうか?

 どちらにせよ、現実逃避という言葉を使う人たちは、現実

を「現実だ」と思ってはいるのだろう。


 誰かに「バカ」とか「死ね」とか言われて深く傷付いたり

恨みを持ったりするのは、発せられた言葉を「現実だ」と認

識している証拠です。私もそういうことを言われれば確かに

気分は悪いし「面倒が増えそうだなぁ」と思う。けれど、単

なる言葉でしかないとも思うので、さほどのダメージは無

い。わざわざ逃避しなくとも、私にとって、すでに「現実」

は現実ではない。

 もちろんこちらに車が向かって来たりすれば除けるけれ

ど、それは現実逃避ではなくて、好ましくない現実の回避。


 「映画やテーマパークで現実逃避」なんて、情けなくてみ

すぼらしいこと言わない方がよいと思う。そんなこと言うの

は負け組ですよ。世の中じゃなくて人生のね。

 まぁ、勝ち負けというのはちょっと違うんだけれど、そう

言いたいようなことです。せっかくの人生がもったいない。


 「現実」というお話しから圧力を受けて疲れ、ひと時それ

を忘れるために「娯楽」というお話しに逃げ込む。お話しと

お話しの間で行ったり来たり・・・。ちゃんと生きてもらっ

ていない自分の人生が泣いているよ😢


 パソコンやスマホの画面で、後ろが透けて見えるウインド

ウの設定なんかがあるでしょ?「現実」って、よ~く見てみ

るとそういう感じがするものですよ。現実と自分の間で “お

話しの「現実」” が展開していて、その後ろに現実が見える

みたいな。(分かりにくい?)


 いわゆる「現実」って、人と人との間の約束事とそれから

派生した妄想です。逃避しなければならないほどのものじゃ

ない。真に受けるから脅威に感じてしまうだけです。でもな

ぜ真に受けてしまうのでしょうか?

 「現実」が「約束事と妄想だ」となれば、それと繋がって

いる「自分」も「約束事と妄想でしかない」ということにな

ってしまうので、そんな恐ろしいことは承認できないわけで

す。でも、それは承認した方がいい。お話しから、上っ面の

現実逃避をしているより、お話しから現実回帰するべきなん

です。お話しではない現実へ。


 性格の悪いクラスメートの嫌がらせの言葉が、学校の門を

出てもアタマの中に居座っていたりする。だからゲームで気

をそらして現実逃避しなけれならないんでしょう?

 アタマの悪いパワハラ上司の怒鳴り声が、会社を出て家に

帰ってもアタマの中で響いていたりするから、酒を飲んだ

り、ネットのドラマを見たりしてごまかすのでしょう?

 でも、そんなもの現実じゃありませんよ。自分の部屋にア

タマの悪い上司は居ない。性格の悪いクラスメートもママ友

も居ない。自分のアタマが過去のお話しをループしているだ

け。妄想です。

 そんなことより、今ある現実に目を向ける。耳を貸す。触

れてみる。

 エアコンの効いた部屋で、からだに馴染んだクッションに

もたれて、好きなコーヒーでも飲んでいる。それが現実なん

じゃないですか? 


 アタマは悪さをするのです。アタマが悪いのは上司やクラ

スメートやママ友や親兄弟だけではありません。自分のアタ

マも悪いのです。どちらも妄想を現実だと思い込んで心を乱

しているのです。本当に危害を加えられるような時には逃げ

なければなりませんが、そんなことそうそう起こりません。

もし起こったら、後先構わず逃げればいいだけです。


 「現実逃避」なんて言葉を不用意に使ってると、「現実」

の現実感がさらに強められるような気がします。そしてなお

さら「現実逃避」したくなるんじゃないかと思う。


 出来事に言葉を添えると、わたしたちのアタマにとって、

その出来事はリアルになります。言葉が出来事の輪郭線のよ

うな働きをして、明確に見えるのです。けれど、その添えら

れる言葉によって、出来事に自分の勝手なイメージが与えら

れ、勝手な重み付けがなされます。出来事が脚色されてしま

うのです。アタマにとってはそれが「現実」ですが、脚色さ

れているのですから、それはもう現実ではありません。


 ちょっとした実験ですが、たとえば、パワハラ上司に恫喝

されて、あとでその情景を思い返すとします。その時、アタ

マの中で再生されるその情景の、パワハラ上司のセリフを

〈OFF〉にします。さらに、その情景に自分のナレーション

や解説やキャプションを加えることを止めます。言葉を介入

させることを止めるのです。そして、音声なしの情景だけを

アタマの中で再生してみます。サイレント映画を見るよう

に・・・。その情景はあなたにとってどのような「現実」に

見えるでしょうか?

 たぶん、自分から離れたところで起きていることのような

感じがするだろうと思います。

 現実というものは、言葉で脚色されなければ本来ニュート

ラルなものなので、わたしたちの意識の中で暴れたりはしな

いのです。言葉を介入させるから、「現実」というお荷物

なってしまうのです。

 まぁ、好ましい「現実」なら、そのお荷物も「お宝」に思

えるのでしょうけど、それだって、ちょっと状況が変われば

やっぱりお荷物なのです。


 過去の出来事だけではなく、リアルタイムに起きている出

来事であっても、言葉を介入させなければニュートラルなも

のなのです。言ってしまえば、本来、出来事はほとんど無意

味です。わたしたちが逃避したくなるような力は持っていな

いのです。なので、言葉を外せば出来事に圧力を感じたり、

心を乱されることはありません。


 けれど、生活の中で、暴力的な出来事や下品な出来事、醜

悪な出来事が目の前に現れた時、言葉を介入させることを完

全にストップして対応すると、周りからは精神に異常を来た

したかのように思われてしまうので、それはそれで面倒なこ

とを引き起こしかねません。なのでそういう時は、音声を

〈OFF〉にして字幕だけで You Tube を見るような感覚で出

来事に関われば、出来事が重たい「現実」になることをかな

り回避できます。


 「現実回避」に慣れれば、「現実逃避」なんてしなくて済

みます。

 「現実」を上手くあしらう手管を身に付ければ、人生はず

っと気安いものになるでしょう。