2024年2月14日水曜日

現実逃避



 このブログで書いている内容は、世の中で上手くやってい

る人間からすると、現実逃避に見えるだろうと思っている。

変な思想や宗教にはまっている人間と同じに思われるだろ

う。本人はそうではないと思ってはいるが、確信は無い。一

応自分でも少し疑っている。


 ところで、この頃、映画やゲームやテーマパークで「現実

逃避する」という表現をよく聞く。こういう使い方はおかし

いように思って違和感を感じるのだけど、もしかして多くの

人が、本当に現実逃避のために映画を観たりゲームをしたり

しているのだろうか? もしそうなら世の中終わってるなぁと

思う。


 私が映画を観たりするのは、非現実を楽しむだけのことで

現実逃避というものじゃない。私は逃避しなければならない

ほど現実に怖れや脅威を感じていない。他の人たちは違うの

だろうか?それとも、意味をよく考えもせず現実逃避という

言葉を使っているだけで、深い意味は無いのだろうか?

 どちらにせよ、現実逃避という言葉を使う人たちは、現実

を「現実だ」と思ってはいるのだろう。


 誰かに「バカ」とか「死ね」とか言われて深く傷付いたり

恨みを持ったりするのは、発せられた言葉を「現実だ」と認

識している証拠です。私もそういうことを言われれば確かに

気分は悪いし「面倒が増えそうだなぁ」と思う。けれど、単

なる言葉でしかないとも思うので、さほどのダメージは無

い。わざわざ逃避しなくとも、私にとって、すでに「現実」

は現実ではない。

 もちろんこちらに車が向かって来たりすれば除けるけれ

ど、それは現実逃避ではなくて、好ましくない現実の回避。


 「映画やテーマパークで現実逃避」なんて、情けなくてみ

すぼらしいこと言わない方がよいと思う。そんなこと言うの

は負け組ですよ。世の中じゃなくて人生のね。

 まぁ、勝ち負けというのはちょっと違うんだけれど、そう

言いたいようなことです。せっかくの人生がもったいない。


 「現実」というお話しから圧力を受けて疲れ、ひと時それ

を忘れるために「娯楽」というお話しに逃げ込む。お話しと

お話しの間で行ったり来たり・・・。ちゃんと生きてもらっ

ていない自分の人生が泣いているよ😢


 パソコンやスマホの画面で、後ろが透けて見えるウインド

ウの設定なんかがあるでしょ?「現実」って、よ~く見てみ

るとそういう感じがするものですよ。現実と自分の間で “お

話しの「現実」” が展開していて、その後ろに現実が見える

みたいな。(分かりにくい?)


 いわゆる「現実」って、人と人との間の約束事とそれから

派生した妄想です。逃避しなければならないほどのものじゃ

ない。真に受けるから脅威に感じてしまうだけです。でもな

ぜ真に受けてしまうのでしょうか?

 「現実」が「約束事と妄想だ」となれば、それと繋がって

いる「自分」も「約束事と妄想でしかない」ということにな

ってしまうので、そんな恐ろしいことは承認できないわけで

す。でも、それは承認した方がいい。お話しから、上っ面の

現実逃避をしているより、お話しから現実回帰するべきなん

です。お話しではない現実へ。


 性格の悪いクラスメートの嫌がらせの言葉が、学校の門を

出てもアタマの中に居座っていたりする。だからゲームで気

をそらして現実逃避しなけれならないんでしょう?

 アタマの悪いパワハラ上司の怒鳴り声が、会社を出て家に

帰ってもアタマの中で響いていたりするから、酒を飲んだ

り、ネットのドラマを見たりしてごまかすのでしょう?

 でも、そんなもの現実じゃありませんよ。自分の部屋にア

タマの悪い上司は居ない。性格の悪いクラスメートもママ友

も居ない。自分のアタマが過去のお話しをループしているだ

け。妄想です。

 そんなことより、今ある現実に目を向ける。耳を貸す。触

れてみる。

 エアコンの効いた部屋で、からだに馴染んだクッションに

もたれて、好きなコーヒーでも飲んでいる。それが現実なん

じゃないですか? 


 アタマは悪さをするのです。アタマが悪いのは上司やクラ

スメートやママ友や親兄弟だけではありません。自分のアタ

マも悪いのです。どちらも妄想を現実だと思い込んで心を乱

しているのです。本当に危害を加えられるような時には逃げ

なければなりませんが、そんなことそうそう起こりません。

もし起こったら、後先構わず逃げればいいだけです。


 「現実逃避」なんて言葉を不用意に使ってると、「現実」

の現実感がさらに強められるような気がします。そしてなお

さら「現実逃避」したくなるんじゃないかと思う。


 出来事に言葉を添えると、わたしたちのアタマにとって、

その出来事はリアルになります。言葉が出来事の輪郭線のよ

うな働きをして、明確に見えるのです。けれど、その添えら

れる言葉によって、出来事に自分の勝手なイメージが与えら

れ、勝手な重み付けがなされます。出来事が脚色されてしま

うのです。アタマにとってはそれが「現実」ですが、脚色さ

れているのですから、それはもう現実ではありません。


 ちょっとした実験ですが、たとえば、パワハラ上司に恫喝

されて、あとでその情景を思い返すとします。その時、アタ

マの中で再生されるその情景の、パワハラ上司のセリフを

〈OFF〉にします。さらに、その情景に自分のナレーション

や解説やキャプションを加えることを止めます。言葉を介入

させることを止めるのです。そして、音声なしの情景だけを

アタマの中で再生してみます。サイレント映画を見るよう

に・・・。その情景はあなたにとってどのような「現実」に

見えるでしょうか?

 たぶん、自分から離れたところで起きていることのような

感じがするだろうと思います。

 現実というものは、言葉で脚色されなければ本来ニュート

ラルなものなので、わたしたちの意識の中で暴れたりはしな

いのです。言葉を介入させるから、「現実」というお荷物

なってしまうのです。

 まぁ、好ましい「現実」なら、そのお荷物も「お宝」に思

えるのでしょうけど、それだって、ちょっと状況が変われば

やっぱりお荷物なのです。


 過去の出来事だけではなく、リアルタイムに起きている出

来事であっても、言葉を介入させなければニュートラルなも

のなのです。言ってしまえば、本来、出来事はほとんど無意

味です。わたしたちが逃避したくなるような力は持っていな

いのです。なので、言葉を外せば出来事に圧力を感じたり、

心を乱されることはありません。


 けれど、生活の中で、暴力的な出来事や下品な出来事、醜

悪な出来事が目の前に現れた時、言葉を介入させることを完

全にストップして対応すると、周りからは精神に異常を来た

したかのように思われてしまうので、それはそれで面倒なこ

とを引き起こしかねません。なのでそういう時は、音声を

〈OFF〉にして字幕だけで You Tube を見るような感覚で出

来事に関われば、出来事が重たい「現実」になることをかな

り回避できます。


 「現実回避」に慣れれば、「現実逃避」なんてしなくて済

みます。

 「現実」を上手くあしらう手管を身に付ければ、人生はず

っと気安いものになるでしょう。




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