2024年2月10日土曜日

気楽に生きられない人へ



 今日たまたま、テレビから「気楽に生きられない・・」と

いう言葉が聞こえて、「あっ、これでブログを一つ書こう」

と思ったのですが、まだ何も考えていない。書きながら考え

てゆきます(気楽だ)。


 「気楽に生きられない人」とは、どんな人か? 当然、その

ような人は物事を大袈裟に、深刻に捉える人なわけですが、

物事が本当に大ごとで深刻なら、誰でも気楽にはしてられな

いので、「気楽に生きられない人」というのは、大したこと

ではないことを大ごとに感じてしまっている人ですね。尚且

つ、自分が気楽にしていられないことに対して問題意識を持

っている人のはずです。自分が気楽にしていられないという

ことを気楽に受け止められるなら、その人は結構気楽な人で

しょうからね。


 で、ここまで話が進んで来ると、“「気楽に生きられない」

ことを「気楽に受け止められない自分」に問題を感じている

人” が、問題意識を払しょくして「気楽に生きる」糸口が見

えてきます(面倒くさくてゴメンナサイ)。

 「気楽でない」のは、問題意識を持ってしまうからです

ね。様々なことをむやみやたらに「問題」にしてしまうわけ

です。ならば「問題」にしなければよいということになりま

すが、その為には「なぜ、問題にしてしまうのか?」という

ことがあきらかにされなければなりません。そもそも「問

題」とは何か? 

 「問題」とは、「こうあるべきだ」「こうなってほしい」

という欲求と、現実との落差に対する不満・危惧が、その解

消を求めて来ているということでしょう。

 よく似たものに「課題」というものもあります。こちらは

「問題」よりも少し現実的で、自分の欲求というより、状況

からの要求という部分が強いでしょう。まぁ、完全に区別す

るのは難しいでしょうけど、基本的には「自分発」のもので

はないでしょうね。なので、ここでは「課題」はスルーしま

しょう。問題は「問題」の方です。


 「問題」を生むのは、欲求です。語弊を怖れずに言えば、

欲です。

 我が家は築五十年で、阪神淡路大震災にかなり揺さぶられ

てもいるので、能登の地震のようなのが来たら本当にヤバ

い・・。問題です。けれど、「壊れてほしくない」と私が思

わなければ、問題ではありません。「そうなったらしようが

ない」と私が肚を括ってしまえば、たんなる想定のひとつに

過ぎません。「壊れてほしくない」というのは、私の欲で

す。そんなことを考えて「問題」にしているのなら、「壊れ

ないように耐震補強をしよう」と「課題」にして解決を図る

のが大人の態度でしょう。


 和尚(ラジニーシ)の本の中にある小話でこういうのがあ

ります。


 ある夜、夜中に妻が目を覚ますと夫が起きてそわそわして

いる。

 「どうしたの?」と妻が訊くと、

 「明日、借金の返済日なのに返す金が用意できてなくて眠

れないんだ」と夫が言う。

 「アンタ馬鹿なの?お金が返してもらえなくて困るのは向

こうの方じゃない。さっさと寝なさい!」

 それを聞いた夫は「ああ、そうか!」と安心して眠った。


 これはジョークですけど、わたしたちの「問題」というの

は、大なり小なりこういうものです。さしあたり有効な打つ

手のない現実に対して、わたしたちの欲求が「望ましいスト

ーリー」を盛ろうとするので、自分で落差を生んでしまい、

実際には無い壁が立ちはだかることになる。


 ずっと前に書いたような気もしますが、「脳」という字と

「悩」という字には「月偏」と「立心偏」の違いがあります

けど、ものを(脳で)考える時に、そこに「心」を介入させ

ると「悩」になるわけです。そのように「課題」に「心」

(欲)を介入させると、「問題」になるわけですね。「こう

あるべきだ」「こうなってほしい」と。ようするに自分で考

えて大ごとにするわけです。

 まぁ、実際に大ごとだったりすることもあるのでしょうけ

ど、さしあたり有効な打つ手が無いのであれば、それが大ご

とであっても肚を括るしかないというのが現実でしょう。


 さて、わたしたちがいろいろなことを「問題にしてしま

う」のは、欲があるからであり、現状を受け入れようとはし

ないからだということが見えてきました。であるのなら、

「気楽に生きられない」という、むやみやたらと物事を「問

題」にしてしまう人は、欲の強い人だということになりま

す。普段は結構気楽に暮らしているという人でも、気楽にし

ていられなくなるような時には、欲が出ているわけです。


 人間の最も強く、根本的な欲は「死にたくない」というこ

とでしょうけれど、「明日死んだって別にかまわない」とい

う人ならば、死さえ「問題」にしていないのですから、それ

以外のことなど、はなから「問題」になりません。そこから

逆算すると、気楽に生きられない人というのは、「死にたく

ない」という欲が強いのだろうと考えられます。( ”「死に

たくない」というのが欲か?” という、反論がありそうです

けど・・・)


 むやみやたらに「問題」を作り出してしまう人は、常に意

識下に「死にたくない」という想いを強く持っているのでし

ょう。

 些細な変化、イレギュラーも、心の底で死の想念と繋げて

しまって不安になる。そいう状態は “死を振り払いながら生

きている” ようなものでしょうから、気楽にしていられるわ

けがない。


 『「死」から生まれて来た』(2019/2)という話を前に書

きましたが、あらゆる生命は「死」から生まれて来る。生命

のベースは「死」です。ですから、「死」を振り払おうとす

ば、生命は「死」から浮いてしまいます。拠り所を失って

まう。

 生命は、「死」という海の表面にひととき現れるさざ波か

渦のようなものです。鴨長明は「泡のごとし」と言いました

が「死」を離れて生命は存在しない。


 「死」がそういうものだと理解してしまえば、“死を振り払

いながら生きる” というようなことは、徒労どころか愚行で

しかないと思えるはずです。


 「死」に身をまかせてしまえば、それ以上に気楽なことは

ないでしょう。ようするに、死ねばいいのです。

 首をくくる必要も、ビルから飛び降りる必要もありませ

ん。自分を「死」にあずけてしまえばいいだけです。


 〈 死せよ、成れよ 〉とゲーテは言いました。生きているう

ちに自分を死なせてしまえば、それ以上穏やかな生き方はな

いと悟ったからでしょう。


 死ねば、楽に生きられる・・・。そりゃそうでしょうね。

「生きよう」と頑張る必要がなくなりますからね。





0 件のコメント:

コメントを投稿