2024年2月25日日曜日

選択という不自由



 欧米人は何かといえば「選択」という言葉を使う。なんで

も自分で決めて、自分で選ばなければ気が済まないらしい。

「おかげさま」とか「ご縁」とか「その場の空気」なんてこ

とを口にする日本人からしたら、「なんかキツイなぁ」とい

う感じがする。


 私なんかは、この世界は「縁起」によってできていると思

っているので、自由意志なんか無いという立場だし、《 世界

は惰性で動いている 》なんてことも口走る人間なので、欧米

人がやたらと「選択」と言うのには、いつも鼻白む。「ちょ

っとは深く考えてみろよ」などといつも思いながら、かれこ

れ20年以上にはなるだろう。「個人主義だからなぁ」なん

て思っていたのだけど、最近、彼らが「選択、選択」と口走

る理由に思い当った。彼らには『最後の審判』があるのだ。


 『最後の審判』において、善い行いをして来た者は天国

へ、悪い行いをして来た者は地獄へと振り分けられるそうな

ので、善い行いをするように自分で「選択」をしなければな

らないのだろう。彼らにとっては、何を選びながら生きてい

行くかはとても重要で、毎日々々がテストのようなものなの

だろう。なので「どっちでもいい」なんて無責任なことはで

きないということのようだ。

 私の考えのように、人がどのような生き方をするかは「縁

起」によるもので「自由意志」など無いとなれば、どんな生

き方であれ自分のせいではないことになるので、『最後の審

判』が成り立たなくなるから、彼らはそんなこと考えもしな

い。そんなことを考えてしまうと、彼らの社会の根幹が揺ら

ぐ。なので、なんでもかんでも「選択、選択」・・・。


 『最後の審判』に備え〈「自由意志」によって、「選択」

して、自分の運命を決めて行く 〉という意識が深層心理に深

く刷り込まれているのだろうけど、それは〈 「選択しなけれ

ばならない」という運命によって、「選択しない自由」が許

されない 〉ということで、「なんとも不自由で選択肢の無い

社会だなぁ」と思う。

(ちょっと、イジワル過ぎるかな?こういう宗教的な話を茶

化すと、どこかから脅迫文が来そうで怖いけれど、まぁ、こ

こはネットの辺境だから大丈夫だろう・・・、ということで

先へと進みます)


 日本人の欧米コンプレックスもかなり長いので、今では

「自分で選ぶ」とか「自分で運命を切り開く」みたいなこと

を考えてる日本人がほとんどなのだろうけど、それは「自

由」ということではない。くどいけれど、わたしたちに「自

由意志」は無い。


 「選択する」ことも、「選択しない」ことも、世界の働き

によってそのようにさせられているというのが事実です。そ

こに選択の余地は無い。

 選択の余地など無いのです。人生は1mm の隙間もなく

「さだめ」で埋めつくされているのです。1秒たりとも自分

の時間は無いのです。


 そんなことを言われると「それじゃぁ、生きている意味が

無い」とか人は思う。牢獄に閉じ込められているような思い

になるかもしれません。けれど、人生が「さだめ」に埋め尽

くされているのなら、こんな気楽なことはありません。だっ

て完璧に至れり尽くせりなんだから。


 随分前に〈 自由とは、何もしたいことが無いということだ 

と書いたことが有ります。「何もしたいことが無いという

のは、満たされているからだ」と。それは「何もする必要

無い」ということでもあります。

 人生が「さだめ」に埋め尽くされていれば、何も気に病む

必要は無い。気を揉んでも意味が無い。「気に病む」ことも

「気を揉む」ことも、それも「さだめ」だと心得ていれば、

何の気遣いも要らない。すべて「お任せ」で、心は解放され

ます。自由です。それは〈 自由意思 〉です。「自由にできる

意志」ではなくて、「自由である意思」です。

 あらゆる責任も義務も人生からの要求や圧力も、すべては

「さだめ」の中に有って、「さだめ」に任せておけます。こ

んな清々とすることはない。


 「選択の自由」などありません。あるのは「選択できない

という自由」です。

 アタマの語る物語だけに目を向けていては気付けません

が、わたしたちは決定的に自由です。その自由を意識できる

かどうかも選択できないのですが・・・。




 

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