2024年2月11日日曜日

ただの人



 「気楽に生きられない人へ」と題した昨日の話は、タイト

ルにそぐわない大袈裟な話になってしまった。アタマが悪い

ね。

 けれど、気楽にしていられるようになるには、一度徹底的

に真剣になってみる必要があるのでしょう。例えば、仏教の

歴史の中でいわゆる「悟り」をひらいたような人は、大抵大

きな不幸に遭っている。その苦悩から解放されたいと、生き

ることや世界というものを徹底的に考え抜き、感じ取ろうと

した結果「悟り」をひらいた。ようするに「気楽になっ

た」。


 私は以前まで「悟り」というものを大袈裟に考えていまし

た。なにやら高尚で、人の到達し得る最高に格の高い境地の

ような・・・。努力を重ね、妥協を排除し、ほとんど命懸け

のように真剣に取り組んで到達し得るものだというような。

けれど、いまは違っている。ほとんど真逆に考えている。

 努力をやめ、妥協しまくり、ほとんどテキトーに、ゆるゆ

ると、なりゆきにまかせることで「ああ、なんだぁ、そうか

ぁ😀」と思い当たるものだと考えている。それは、ある意味

「徹底的に・・」ということではあるけれど。


 「悟りを得る」「悟りをひらく」という “求める心” が、努

力に繋がるわけですが、「悟る」ためには “求める心” はどう

考えても邪魔でしょう。それはエゴだから、どんなに努力し

ても、“求める心” が最後に障害として残ってしまう。だから

悟りたいのならば悟ることを放棄した方がいい。

 立派な人になろうとか、徳を積もうとか、「自分を良い人

間と思いたい」という欲求を投げ出して、「自分はひとりの

人間で、だから当然出来損ないで、良くなり切るなんてこと

は不可能なんだから、カッコつけてもしょうがない」と、い

まのまま、あるがままにまかせてしまう。努力をやめ、妥協

しまくり、ほとんどテキトーに、ゆるゆると、なりゆきにま

かせる・・・。


 「そんなことしてたら落伍者(古い言い方ですけど)にな

ってしまう・・・」と思われるかもしれないですけど、そう

なったとしても、それは「カッコつけようとしている人々の

中での落伍者」ということなので、むしろ地に足の着いた、

落ち着きのある状態でしょう。


 落伍すればいいのです。落ちればいいのですよ。

 「悟り」とかいうと、誰でも「上にある」というようなイ

メージを持つことでしょうけど、「悟り」は下にある。

 上がろうとしないで、望みにしがみつかないで、手を放し

て落ちて行ったところに「悟り」はある。

 落ちるといっても 1 mmもない距離です。いま、ここで、

いま、ここに落ちる・・・。

 努力をやめ・・・と書きましたが、「上がろうとするのを

やめる」「手を放す」というのは「努力」のうちに入るのか

もしれません。でも、まぁそれぐらいはしましょう。一歩歩

く程度のことです。


 はじめの方で書きましたが、「悟る」とは「気楽になる」

ことです。それだけのことです。昔の人たちがもったいぶっ

て大袈裟に考えてしまっただけのことです。

 まぁ、昔の人には昔なりの事情があったでしょうから、責

める気もバカにする気もありませんが、気楽になればいいの

です。

 どうせ生きて死ぬだけです。何をしたって、済んでしまえ

ば何ということもないのです。世界を征服したってしばらく

したら寿命は尽きる。それだけのことでしかないのです。何

ものかになる必要なんてないのです。ひとかどの者になった

ところで、それはそれだけのことです。聖人も極悪人も、つ

まるところ「人」です。一番望ましいのは「ただの人」であ

ることのように思います。徹底的に「ただの人」を謳歌する

ことだと。


 もしかすると、なりゆきで立派な人になるかもしれませ

ん。聖人とあがめられるようになるかもしれません。それは

それで悪いことでもありませんが、「それだけのことだ」と

気付いていなければなりません。つまるところ「ただの人」

なんだと。

 まぁ、極悪人にはならないようにした方がいいでしょう

が、もしなってしまっても気楽に極悪人をやったほうがいい

でしょうね。





 

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