2022年7月29日金曜日

死刑が生み出すもの・・



 十数年前に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした男の死刑が

執行されたというニュースがあった。

 私は条件付きの死刑反対派(容認派だろうか?)だ。その

条件や、死刑に関する私の考えは、以前『なぜ人を殺しては

いけないか』(2017/3)という回で述べているので、気が向

けば見てもらえればなと思う。死刑に反対する人で、私のよ

うな理由を述べる人はまずいないだろうから、興味深いだろ

うと思うし、きっと「そう言われればそうだよなぁ」と感じ

てもらえると思うのでおすすめしておきます。で、この度の

ニュースをきっかけに、私の中から出て来る話を綴っていく

ことにしましょう。


 無差別殺傷事件や妄想に囚われての理解しがたい殺人事件

というのは、私の生きて来た間に起きたものでも、かなりの

件数になることだろうと思う。しばしば、そういう「異常」

が起きることは、少なくともこの半世紀程の日本では「通

常」だと言える。


 アメリカだとか、ましてや中南米だとかの殺人件数と比べ

れば、日本の「通常」は平和過ぎると言ってもよいぐらい

だ。ただ、それは出来事としてわたしたちが意識できる部分

の話であって、内面的な状況はまた別だろう。


 殺人がよく起こる国に住んでいれば、それなりの精神的な

負担があり、穏やかな気持ちを持つことは難しくなるだろ

う。一方で、殺人があまり起こらない国に住む人に精神的負

担が少ないかと言えば一概にそうとも言えないと思う。「殺

人があまり起こらない社会を維持するための負担」というも

のが有るだろうから、そこでもやはり、穏やかさを保つのは

難しいだろう。日本で、自殺や過労死や引きこもりなどが多

いのはそれを物語っているように思う。


 「殺人がよく起こることの精神的負担」と「殺人があまり

起こらないようにする精神的負担」が、同じだけの重さを持

つかどうかは分からないけれど、どちらにせよその負担は、

個人からその社会へ、社会からまた個人へと還流して行くは

ずだ。人の意識のエネルギーにも、熱力学の法則は適用でき

るだろうと私は考える。どのようなものであれ、エネルギー

の総量は変わらず、この世界を巡り続けて行くのだ。


 どのような社会でも、そこを循環するエネルギーには「解

放的エネルギー」と「抑圧的エネルギー」が有るだろう。

 社会の表層で、人のポジティブで発散的なエネルギーを受

け取って行く流れと、社会の暗部で人のネガティブに停滞し

たエネルギーを受け取って行く流れとがあるだろう。

 社会の表層の流れは、スポーツやエンターテインメントや

ビジネスの場に流れ込み、それぞれの場所でヒーローやアイ

ドルを生みだしたりする。一方で、暗部の流れは、今回死刑

に処されたような人間や、自殺者を生んで行く・・・。

 それは程度の違いはあるとしても、どんな社会でも避けら

れないことだろうと思う。わたしたちのアタマの総和である 

“社会” というものは、当然ながら、アタマの性質を反映して

しまうから。


 どんな人でも、自分を誇らしく頼もしく感じることが有る

だろうし、逆に自分を情けなく頼りなく感じたり、「死にた

い」とか「あいつを殺してやりたい」と思ってしまうことが

有るだろう。

 そのようなポジティブな思考・感情やネガティブな衝動

を、社会のエネルギーの流れが受け取りながら濃縮してゆ

き、それが閾値を迎えた時、そのタイミングでそこに居た人

間を通して、そのエネルギーは社会に溢れ出す。ヒーローが

誕生したり、むごたらしい事件を起こすものが現われた

り・・・。


 今回の死刑執行に具体的に関わった人たち、特に、執行し

た刑務官の精神的負担はどれほどだろう。その人たちにもた

らされた「抑圧的エネルギー」は、社会へ還流して行き、あ

らたな無差別殺人を生み出す “負のエネルギー” の一部になる

かもしれない・・・。
 

 物理的なものであれ、精神的なものであれ、わたしたち人

間は、この世界のエネルギーの循環を止めることはできな

い。流れを変えることはできるかもしれないが、そのエネル

ギーが行き着く先で、何が起こるかを知ることは出来はしな

いし、かえって大きな災いを生むかもしれない。


 遠くない将来に、不可解で痛ましい事件のニュースがまた

流れることだろう。自ら命を絶った人のニュースを目にする

ことだろう。が、“それ” を引き起こす力の一部が、“それ” 

を忌み嫌うことで生まれているのだとしたら?


 裁くこと、評価することの先に何が生まれるのか?

 残念ながら、そこに目を向ける人は多くはない。


 今回の死刑執行にあたった刑務官の嘆き苦しみを聞いてく

れる人はいるのだろうか?

 ご縁があるのなら、私は聞いてあげたいと思う。本気

で・・・。



2022年7月24日日曜日

それで気が済むのなら・・・



 以前にも書いたような気がする話だけど、今から二十年ぐ

らい前のシャンプーのCMで、外国人のヘアスタイリストの女

性(有名な人なのだろう)が登場して、そのシャンプーを使

えば「スタイリングが思い通りにキマる髪になる」というこ

とをアピールしていた。その最後のセリフが「なんでも思い

通りにしたいのよ。女性は」というものだった。

 そのセリフが、女性一般の最大の特徴を言い表していると

思ってとても気に入った。

 JT の山崎努の「ひとまずはお幸せに」や、キンチョールの

大滝秀治の「おまえの話はつまらん!」と並んで、私の好き

なCMのセリフの一つになっている。


 「思い通りにしたい」。それを女性自身が言っているとい

うことが貴重なCMだったが、今そんなことを言おうものな

ら、性差や社会的な役割分担の違いなど認めない “女性” か

ら、バッシングの嵐になることだろう。けれど、その言って

いることは、現在でも一般論としては変わっていないだろう

と思っている。


 「何でも思い通りにしたいのよ。女性は」というのは本当

だと思う。じゃぁ男は「何でも思い通りにしたい」と思って

いないのかと言えば、もちろんそんなことはない。女も男も

「何でも思い通りにしたい」と思っている。ただ、その欲求

が出て来るシチュエーションが、女と男では異なるようだ。

それは「ここでそんなことを言っても仕方がない」と考える

シチュエーションに違いがあるということで、ある程度万国

共通のように思う。なぜなら、外国の昔話やことわざ、ジョ

ークの中に、その男女の違いを感じさせるようなものが結構

あるから。「結構、普遍的な男女差なんだなぁ」と思わせら

れる。


 とはいえ、さっき言ったように、女も男も「思い通りにし

たい」と思っていることに違いはない。社会的な自己認識の

違いで、それを表に出すかどうかの自己規制が係るところが

違うだけの話で、「何でも思い通りにしたいのよ。人間は」

という方がさらに適切だろう。


 わたしたちは「思い通りにしたい」。つまり「気の済むよ

うにしたい」。わたしたちの言うこと成すことはそれに尽き

る。その為に、涙ぐましい努力や、呆れるようなバカなこと

や、口にするのも憚られるようなことまでも、飽くことなく

続けている。ほとんど例外はないだろう。

 で、それで「気が済んだ」のならまだいいのだろうが、果

たしてみんなの「気が済んだ」のだろうか? どう見てもそう

は思えないね。「気が済んだ」としてもほんのひと時のこと

だろうというのは、素直に世の中を見ていればごく自然に感

じられること。そして、それはそうならざるを得ない。「気

が済む」の “気” というのは「気分」のことだから。


 「気分」というのは、あらためて言うまでもなく「(自分

の中の)雰囲気」のことだから、実体も確固たる根拠もな

い。たまたまその時に自分の意識が乗っかっている “流れ” 

の、それもある一部に則しているかどうかということに過ぎ

ない。だからこそ、次から次へと「気が済まない」ことが出

て来てしまい、わたしたちは周りを変えようとする。「そう

じゃないから!」と。


 けれど、みんな自分の在り方を誰かから変えさせられるの

は、当然「気が済まない」。なので当然揉める。「なんでお

前の気が済むように、こっちの気が済まないようにしなけれ

ばならないんだ!」と思うのはごく自然である。にもかかわ

らず、わたしたちは周りを変えようとする。ケンカが絶えな

いわけです。戦争までやる。


 “気が済まないから、自分を変えよう” という発想を、普通

はしない。

 で、「気が済まない」原因の何かと闘って、首尾よく自分

の「気が済む」ようにできたとしても、先ほども書いたよう

に、次の「気が済まない」はすぐに現れる。それどころか、

闘った相手からの反撃があったり、「いつか同じことが起き

るのではないか?」という不安を持ち続けることになるのも

よくあるケースだろう。ぜんぜん「気が済んで」ないじゃ

ん。


 そういう展開になることは、少し考えれば分かることだろ

うけど、なかなかそういう発想にはなれない。こんなことを

私が言えるようになったのも、結構歳をとってからの話だ

し、今でもつい周りを変えようとしてしまう。コスパが悪い

と知っているのにね。残念ながら、持ったが病で治らない。


 そうやって、自分の「気が済むように」わたしたちは動き

続ける。それを業(ごう)という。

 ほんの小さなことから、人生の大問題、果ては地球の大問

題まで、わたしたちは自分の「気が済むように」しようとし

続ける。業なんだから仕方がない。それこそ「気が済む」ま

でやればいい。それで「気が済む」のなら・・・。

 でも、それで本当に誰か気が済んでいるのかな?


 私は意地悪く、「フフン!」と笑ってしまうが・・・。


 《 足りないものは、「満足」だけ 》






2022年7月18日月曜日

「おまえはおかしい!」



 ネットのニュースの見出しやさまざまなコメント、発信を

見ると、毎日々々、誰かを批判したり蔑んだりしている。日

本だけに限っても、一日にどれぐらいこういう言葉が使われ

ているのだろうか?

 「自分は正しい。あいつはおかしい」

 人間の言っていることは結局それだけ。

 それ以外の言葉は、話の前提になる情報の提示なので、人

間の言うことはそればっかりだというのは(ほぼ)過言では

ないだろう。


 「自分は正しい」と「あいつはおかしい」は大抵セットに

なって使われるけれど、「あいつはおかしい」と言いたがる

のは、「あいつがおかしいのだから、それと反対の考えの自

分は正しい」という自己肯定感を得たいが為なので、つまる

ところ、人間の言いたいことは「自分は正しい。自分は正し

い・・・」それだけ。それが普通で普遍的。多分、人類が滅

びるまでそのままなのだろう。それにしても、なんでそんな

に自分の「正しさ」が欲しいのかねぇ。正しかったら何か良

いことでもあるのだろうか?
 

 良いことなんか有りはしない。

 自分が正しかったとして、それは「自分は正しい」という

だけのことだ。

 「うん、分かった。あなたは正しい。それで?」なんて言

われたりしたらどうするのだろう?

 「なんだ、その言い方は! “それで?” なんてことを言うの

は余計だ!おかしい!」などと怒り出しそうな気がする。ま

たまた「おまえはおかしい」モードに突入するのだろうな。


 結局のところ、「自分は正しい。あいつはおかしい」と言

いたいのは、世の中(他人)が「おかしい」からそう言いた

くなるのではなくて、世の中(他人)を「おかしい」ことに

することで、「自分は正しい」と思いたいからなんだろう。

だから四六時中「おかしい」と言えるネタを探していて、自

分に扱いやすいネタがあるとすぐに飛びついてスマホの入力

画面を開く。「おまえはおかしいぃぃぃぃ!」・・・。救い

がないね。


 自分が正しくなくてもいいじゃないか。正しくないことを

言った聞いたりしたら心臓が止まるというわけでもなし。心

臓は「正しさ」なんて知らないけど、その心臓は、わたした

ちのあたま(脳)ができる前から動いている。自分が「正し

い」かどうかにこだわることが正しいのかどうか、「自分の

心臓に尋ねてみたら」などと思う。


 「おまえはおかしい!」ボカッ!

 「おまえはおかしい!」グサッ!

 「おまえはおかしい!」ズドン!

 「おまえはおかしい!」ポチッ(送信)!


 世界中で、朝から晩まで、路上で、家庭で、ネット上で、

夢の中まで、飽きることなく、無限に繰り返される、「自分

は正しい。あいつはおかしい」。

 「“正しい” ことは、おかしい」とでも言いたくなるほど

だ。


  《 「正しい」とは、

    そういうことにしておけば気が済むということ 》


 スマホやPCを開いたら最初にこの言葉が出るようにしてお

いたらいいのにな、と思ったりする、今日この頃。


 私は「人間(世の中)はおかしい」と思っているが、この

考察は正しいだろうか?

 一応、私の気は済む。
 

 

2022年7月17日日曜日

外人よりも外人



 このブログに書いてあるような話を、本当なら誰かと直接

話したい。けれども残念ながら、こういうラディカルな話を

受け止めてくれるような人間が私の周りにはいない。まぁそ

れで当たり前だと思うので特に不満はないけれど、つまんな

いと言えばつまんない。

 「しようがないのでこんなブログを書いている」というの

も、ブログを書く理由の一つなんだろうなと思っている。欲

求不満の解消ですね。

 読んでくれる人が、ただの欲求不満の解消に付き合わされ

るだけでは申し訳ないので、「せっかくだから何かお土産に

なる言葉でも書いておかなくちゃ」という気持ちで、いつも

書いてはいる。


 人の話に耳を傾けるというのは、一種の旅ですね。見慣れ

た(聞き慣れた)場所から出て、上手くすれば、自分の意識

に好ましい刺激や気付きを得られる。

 実際の旅でも、これまでの自分に変化が起きることを避け

ながらならば、たとえ地の果ての秘境まで足を運ぼうとも、

世界をくまなく訪れようとも、得るところは何も無いでしょ

う。ただ好奇心を満たし、「そういうことをした」という自

己満足が得られるだけ。

 人の話に耳を傾ける時も、自分が変わることを受け入れる

覚悟や、あらたな世界観が開ける期待を持っていなければ、

「話を聞いた」だけのこと。

 もちろん、四六時中そんな意識で人の話を聞いたりするこ

とはできないし、必要もないけれど、時折りそういう耳の傾

け方をしながら生きていなければ、ほんとうにつまんないん

じゃないかと思う。



 たとえすべてのひとから みはなされた

 ひとがいても そのひとに

 こころやさしい ぬのきれが一まい

 よりそっていないとは しんじにくい


 前に、まど みちお さんのことを書いた時に、まどさんのこ

の詩を紹介したことがありますが、この詩を見た時に、私は

本当に「うわっ!」と思ったんですよね。その当時の自分の

価値観の一部がぶっ飛ばされた気がした。そして嬉しかっ

た。目が開かれる思いがした。

 その喜びは、知識が得られたというようなものではなく

て、自分のハートを覆っていた知識の一部が取り払われて、

ハートの窓が開いたというような感覚だったんです。


 “自分” だと思っている、この “知識と記憶の集積” が打

壊されたり、吹き飛ばされたりする言葉に出会う時、人は

「うわっ!」と思う。その驚きの積み重ねが、表面上の自分

から、深い所の自分へと意識を押しやってくれる。それはと

てもとても幸運なことだと私は思っているけれど、普通、人

はそれを嫌がりますね。アタマが嫌がる。せっかくまとめ上

げている “自分” が壊れるから。

 「この “自分” でそれなりにうまく世の中を渡っているんだ

から、余計な事をしたら損だ」ということなんでしょう。そ

のくせ、誰もが悩みを抱えていて不満たらたらのくせにね。


 私みたいに「世の中と上手くやれないのは、世の中に問題

がある」なんて傲慢なことを思っている人間からしたら、

「世の中に不満や怒りが普通に転がっているのは、世の中に

問題があるからでしょう?後生大事にするほどのものです

か?」と言いたいんですけどね。


 世の中と上手くやれない人間は、多かれ少なかれ世の中か

ら外れているわけですから、自然と考え方やものの見方がラ

ディカルになるものです。それを「いけないこと」のように

思ってしまう “外れた人” も多いのでしょうが、「いけないこ

と」ではありません。自然なことです。

 いっそのこと、世の中の周辺でウロウロするようなラディ

カルさにとどまることなく、そのまま世の中から外れ、さら

に人間からも外れ  意識の上での話ですよ  生(なま)

の命にたどり着くほどにラディカルに徹すれば、生きること

を極めることになるように思います。


 書いているうちに、自分が “外人(外れた人)” だというこ

とが判明してしまった。なるほどな、ある意味私は「外人」

だ。

 こんな話がそこそこ面白いと思ってもらえるとしたら、あ

なたも “外人” でしょうね。


   Where did you come from ?

   I'm from Lifeside.


 世の中の外に私たちはいますが、ここは命の世界ですよ。


2022年7月16日土曜日

ゴロゴロ・・・



 10分ほど前から、外でカミナリが鳴っている。まだ雨は

降りだしていないけど・・・。

 私は雷が好きで、空が「ゴロゴロ」いい出すとウキウキし

てしまう。稲妻がよく見えるような時などは、ベランダで1

時間ぐらいながめていたりする。もちろん、だだっ広い所で

そうなったら、急いで安全な所へ向かいますけどね。


 雷は、日常の生活を過ごしながら、自然の脅威を感じられ

る素晴らしいイベントだと思っている。稲妻は美しいし、あ

の音に心は揺さぶられるし、雷の音と稲妻の閃光を浴びる

と、自分が生きている実感のようなものを感じる。


 「かみなり」は「神鳴り」だし。「稲妻」は「稲の妻」

(昔は「夫」のことも「妻」と表現した)なので、田んぼに

雨を降らし、稲を実らせるものだと捉えられた。どちらも、

人が生きることに大きな影響を与える「天の力」として畏れ

敬ったことから生まれた名前でしょう。

 神社のしめ縄は、本体が雲を表し、そこから下がるギザギ

ザの紙垂は稲妻を、藁のふさは雨を表しているのでしょう

が、そのように神社のシンボルとなるぐらい、雷は日本人に

とって意味深い自然現象なのだと思う(私なりの見方です

よ)。けれど、そのような自然現象に対する畏敬の念を、い

まの人たちがどれぐらい持っているのだろうか? 大多数の人

にとって、雷は単に「恐いだけ」。激しい雨はただ「迷惑な

だけ」なのかもしれない。そうだとすればもったいない話だ

と思うし、生意気だとも思う。


 人間が生まれるはるか昔からずっと続いて来た自然の営み

を、人間というちっぽけな存在が、「迷惑なだけ」と思うな

ら生意気でしょ?

 雷や大雨が人の命を奪うこともあるから「恐い」のは確か

だけども、恵みももたらすし、自然の巨大な力と不可思議

に、生命力が鼓舞される面も有るだろうから、「恐いだけ」

ではもったいない。


 人間がまだ思考することがなかった太古の昔、思考するよ

うになってからもかなりの間、人々はただ雷を恐れるだけだ

ったことだろう。けれど、いまは雷とはどういうものかと理

解し、安全な場所を確保することが容易くなった。おかげ

で、雷鳴が轟いても、稲妻の閃光が目の届く限りを照らし出

しても、ただ恐がるだけではなく、ポジティブな精神の揺さ

ぶりを受け取ることもできる。私はそれが有り難く、うれし

い。


 アタマは悪さをする。けれど「善悪」「良否」を関わらせ

ることのない、世界のニュートラルな理解は、「命」を実感

できる場面を持たせてくれたりする。

 頭がアタマに乗っ取られないように、時折り「雷鳴」に揺

さぶられてちっぽけな自意識を振り落としてもらうのも良い

んじゃないだろうか。


 などと書いていたら、雨は降らず、雷鳴も止まって静かに

なってしまった・・・。残念。




2022年7月10日日曜日

母なる「死」



 わたしたちは「死」から生まれてきた。

 このブログを書いているうちにそう思うようになって、そ

のことをブログにも書いた。  “「死」は「生」の母体だ” と

も書いたけれど、それは私にとって大きな収穫だった。


 “「死」は「生」の母体”  その意識は私をとても安心させ

る。

 「死ぬことは奈落の底へ落ちるようなことだ」とでもいう

ようなイメージを追いやってくれる。

 「恐ろしい事に怯えていたが、母親に抱かれながら怖い夢

を見ていただけだった」というような安堵感を持たせてくれ

る。ありがたいことだと思う。


 「死」を恐れるのはわたしたち人間のエゴだけだ。それ

は、エゴが「死」からも「生」からも浮いているからだ。

 エゴは「自分」という夢の中に居る。それは一見「生」の

中にあるように見える。けれど、真相は違う。

 「生」は「死」から続く命の流れの中の一コマなので、本

当に生きていれば「死」を拒む理由は無い。それは自然な流

れだからだ(暴力による死はまた少し違うけど)。けれど、

エゴはその自然な流れから浮いてしまっている。ズレてい

る。だから「死」が了解できない。「生」を感得する事さえ

できない。エゴは命の循環からはぐれ、迷子になっている。

 迷子なので、常に不安で怯えている。その不安から逃れよ

うと、その場しのぎの仮の宿を探し求めてはしばし安堵する

けれど、すぐにその自己欺瞞を隠し切れなくなり、また不安

にかられる。そして、する必要のない事、しなくていい事を

して気を紛らわし、不安から逃れようとする。迷っていない

だと信じ込む。けれど、そんなことをしてもムダだ。


 「死」を受け入れない限り、人は迷い続ける。

 「死」を恐ろしいものとして拒み続ける限り、人は迷子の

ままだ。


 「生」にとって「死」が母であると気付くことは、我が家

の場所を思い出すことだ、我が家に帰ることだ。

 「死」という我が家の中で、しばしのあいだ「生」を経験

すればいい。本当に〈命〉の流れを感じればいい。


 「ああ・・。もしかしたら〈命〉のほんの一かけらかもし

れないし、ほんのつかの間の ”生” かもしれないけれど、疑

うことなく、私は〈命〉そのものなんだ・・・」と。


 この世界の誰がそう感じようとも、それを否定できる者は

いない。それは絶対に間違いではない。だって、誰もがそれ

ぞれに、いまここに在るのだから。




 

2022年7月9日土曜日

また、アタマが悪さをした。



 昨日、安倍元総理が銃で撃たれて亡くなってしまった。

 昼に速報を見て、 “頭のあたりを至近距離から撃たれて、

心肺停止状態” ということだったので、「それでは助からな

いなぁ・・・」と思い、同時に京アニの放火事件を思い出し

た。今回の犯人も、たぶん「関係妄想」を肥大させた人間だ

ろうなと。

 なので、政治的・思想的に犯行に及んだのではなく(相手

が安倍さんだから、まったく政治的ではないとはいえないだ

ろうが・・・)、妄想に憑りつかれたのだろうなと思う。け

れど世間は「暴力で言論を封殺することは許せない」などと

言うのだろうなと思ってたら、案の定、岸田総理をはじめ、

キャスター・コメンテータ・評論家・政治ライターなどが、

異口同音にそう言う。街頭での選挙活動の警備をどうすべき

かなどとも言い出す。


 「いや、違うだろ!」と私はひとりで不満を募らせる。

 いまのところ、こんなことが次々と起こるとも思えない。

 一つの特殊な例を引き合いに出して、この国で異常な管理

意識が首をもたげるのは何度も見てきた。安心安全原理主義

者によって、わたしたちの活動(生活)はどんどん制限され

てせせこましくなっている。その抑圧が、却ってこのような

事を起こす人間を生んでいる可能性は高いと他の人は思わな

いのかね? 私なんぞはそう思ってしまうんだけどね。


 出来事の上っ面の印象だけで自分の観念に合うように出来

事を仕分けして、「暴力で言論を封殺することは許せない」

などと、型通り、教科書通りの発言をするのは浅すぎるだろ

う。ちゃんとものを見なさいよと思う。自分の立場、意見を

表明して見せるために安倍さんの死をダシにするのは、安倍

さんに対しても親切じゃない。悪気は無いのだろうが、結果

的にそうなっているのだ。

 現時点の事件の情報からすれば、犯人は「言論封殺」の為

ではなく、勝手に恨みを募らせ、殺意を抱いたように思える

じゃないか。いまのところ、テロだとか、暴力による政治介

入だという材料は無い。なにを先走って血迷っているのか? 

海外の要人のコメントや報道の方がずっと適切だ。


 「暴力に屈さない」とか言うけど、私にはよく意味の分か

らない言葉だ。

 「脅迫に屈さない」というのなら分かる。けれど、暴力が

実際に振るわれる時にそれに「屈さない」とはどういうこと

なのか?よく考えもせずに決まり文句を言う人間は信用しな

い。


 有名人や言論人に脅迫状が届くなんて日常茶飯事だろう。

その中には本当に行動に出る者もいる。芸能人や政治家が被

害に遭うことはこれまでも度々有ったけれど、そういうのは

特殊な事で、たまにしか起こらないという認識が、最近は本

当に無くなっている。一切のイレギュラーを無くそうという

意識が大手を振っていて、全体主義的な愚行につながりそう

で、私はそっちの方が不気味だと思う。


 「山が崩れると困るからと山を固めたら、海に砂が流れな

なって砂浜が痩せてしまう」というのに似たようなことが

人間の中でも起こる。考えの浅い、度の過ぎたコントロール

はわたしたちの社会を痩せたものにし、人々に精神的な飢え

を感じさせる。





 私が安倍さんに掛ける言葉があるとすれば、「不運でした

ね」ということぐらいしか思いつかない。夫人には「お気の

毒に」としか言えない。


 この世界では “魔が通る” というようなことは起きてしまう

ものだ。それを防ぐ手立ては無い。それがたまたま自分の身

に起きていないというのが大多数の人だ。

 この国で、昨日3~4000人の人が亡くなっただろうけ

れど、その中には安倍さん以外にも “魔” に出会ってしまった

人が幾人もいることだろう。「不運」というものは、あるも

のだ。そこから「不幸」が芽吹かないようにするために、不

用意な言葉は慎んだ方がいいだろう。メディアはまたぞろ不

安を煽るのだろうけど、それで、日本にイヤな雰囲気が広が

ったりしたら、それこそ安倍さんとしては不本意だろう。

 大きな不運に見舞われてしまった人に対する礼儀として、

その出来事に尾ひれを付けて語るべきではない。世の中には

それを心得ていない下品な人が多いと、私は感じるんだけど

ね・・・。
 


 
 

2022年7月8日金曜日

清き一票



 只今、参議院選挙の期間中ですが、「この候補者の言って

いることは自分にとっては不都合だけど、筋が通っていて国

の為になると思うので、私の一票を入れる」という有権者が

いると思いますか?

 いないでしょうね。そんな奇特な(奇妙なというべきか)

人がいたとしても、10万人に1人ぐらいだろうと思う。


 《 「正しい」とは、そういうことにしておけば気が済むと

いうこと 》なので、 選挙でそれぞれが票を入れるのは、自分

にとって都合がいい人であるというだけ。なので、当選した

顔ぶれを見れば、いまこの国に暮らしている人間たちの、エ

ゴの最大公約数のようなモノがそこはかとなく見てとれる。


 そもそも、みんなわけが分かって生きているわけではない

ので、この国や世界とって何が本当に良いことかなんて誰も

知らない。

 いまの世の中を鑑みて、「こうするのが良いはずだ」とそ

れぞれに思っているけれど、それが “いま” 本当に有効なこと

でも、半年後にとんでもない形で世の中が変わったら、裏目

に出てしまうかもしれない。政治もバクチである。特に人間

相手の度合いが増すほどそうなる。 


 「清き一票」と言ったりする。

 何が「清き」なのか? 金をもらって一票を入れたりしない

のが「清き」なのだろう。けれど、みんな自分に都合の良さ

そうな人間に入れるだけなのだ。それは直接的にではないに

せよ、自分の「欲」からの一票なので、「清き一票」と言え

るのかどうか・・・。


 より多くの有権者の「欲」を満たすことを言い、信用させ

た人間が当選するのが選挙というものだということを、わた

したちは認識しておくのが望ましいと思う。


 いったい何が正しいのか? 何が良いことなのか? そんなこ

と誰も知らない。知らないくせに政治をやろうとし、知らな

いくせに投票する。

 まぁ、致し方ないことではあるので批判する気は無い。た

だ、誰もわけが分かっているわけじゃないということは、分

かっていて欲しいと思うのです。


 ヒトラーを、ナチスを、怪物にしたのは当時のドイツ国民

です。

 群衆の力  「自分たちは正しい」という信念が集約した

時には、得てして怖ろしいことが起こるのは歴史上疑いが無

い。大きな、絶対的な「正しさ」が現われる時、その「正し

さ」は、「正しくない」と見なされるものを徹底的に排斥す

る。それだけの力を持ってしまう。“数” の力は、倫理も合理

性も人間的で本質的な感性もなぎ倒す。“数” が「正義」とな

る。


 独裁や専制主義では、軍事や政治的な数が力となる。

 民主主義では、賛同の数が力となるけれど、結果的に一部

の考えに集約され、専制や独裁の様相を呈することになる。

 資本主義では、金の数が力となり、経済的影響力を持つ者

が社会を動かす経済専制になる。

 社会主義・共産主義では、力が均等に配置されるようなシ

ステムが作られ、数は平準化されるが、そのシステムを管理

する者に力が集まってしまい、結果的に独裁・専制になって

しまう。
 

 人が集まれば、その “数” の力はどうしてもある場所に集中

し、権力が生まれる。それは避けることができない。それは

社会というものの宿業だ。

 エゴは、自分を「(他者より)価値がある存在」であると

思いたいものだし、自分の在り方を揺るがすような存在は受

け入れない。

 社会というものは、エゴの肥大化したものであるから、ど

んなに理想を目指そうと、「平等な社会」は存在し得ない。

「多様性を受け入れる社会」も、あるレベルを越えると壁に

ぶちあたる。


 私が選挙に出るなら、「みなさん、あきらめてね」と言い

たい。


 あきらめた上で、わたしたち人間の、わたしたちのエゴの

どうしようもなさを徹底的に意識しながら、おっかなびっく

りで社会を動かしてゆくのが良いだろうと。

 「理想」という、エゴが語る美辞麗句を真に受けたりしな

いで、エゴが語りたがらない、わたしたちの「出来の悪さ」

を噛みしめながら、「出来の悪さ」にこそ寄り添いながら、

満足を求めるのではなく、「満足すること」を一人一人が身

に着けてゆくのであれば、社会が人の為のものになる日が来

るかもしれない。あくまでも、「かもしれない」というだけ

なんだけど・・・。


 私の「理想」はどこかの誰かの邪魔になるだろう。

 私の「望み」はどこかの誰かが嫌がるものになるだろう。

 私の「一票」は、社会の何百万分の一かを不快にさせるだ

う。それは「清き一票」といえるのか?


 「理想」を語る人たちを前にして、私の「一票」はいつも

虚空をさまよう。