2022年7月17日日曜日

外人よりも外人



 このブログに書いてあるような話を、本当なら誰かと直接

話したい。けれども残念ながら、こういうラディカルな話を

受け止めてくれるような人間が私の周りにはいない。まぁそ

れで当たり前だと思うので特に不満はないけれど、つまんな

いと言えばつまんない。

 「しようがないのでこんなブログを書いている」というの

も、ブログを書く理由の一つなんだろうなと思っている。欲

求不満の解消ですね。

 読んでくれる人が、ただの欲求不満の解消に付き合わされ

るだけでは申し訳ないので、「せっかくだから何かお土産に

なる言葉でも書いておかなくちゃ」という気持ちで、いつも

書いてはいる。


 人の話に耳を傾けるというのは、一種の旅ですね。見慣れ

た(聞き慣れた)場所から出て、上手くすれば、自分の意識

に好ましい刺激や気付きを得られる。

 実際の旅でも、これまでの自分に変化が起きることを避け

ながらならば、たとえ地の果ての秘境まで足を運ぼうとも、

世界をくまなく訪れようとも、得るところは何も無いでしょ

う。ただ好奇心を満たし、「そういうことをした」という自

己満足が得られるだけ。

 人の話に耳を傾ける時も、自分が変わることを受け入れる

覚悟や、あらたな世界観が開ける期待を持っていなければ、

「話を聞いた」だけのこと。

 もちろん、四六時中そんな意識で人の話を聞いたりするこ

とはできないし、必要もないけれど、時折りそういう耳の傾

け方をしながら生きていなければ、ほんとうにつまんないん

じゃないかと思う。



 たとえすべてのひとから みはなされた

 ひとがいても そのひとに

 こころやさしい ぬのきれが一まい

 よりそっていないとは しんじにくい


 前に、まど みちお さんのことを書いた時に、まどさんのこ

の詩を紹介したことがありますが、この詩を見た時に、私は

本当に「うわっ!」と思ったんですよね。その当時の自分の

価値観の一部がぶっ飛ばされた気がした。そして嬉しかっ

た。目が開かれる思いがした。

 その喜びは、知識が得られたというようなものではなく

て、自分のハートを覆っていた知識の一部が取り払われて、

ハートの窓が開いたというような感覚だったんです。


 “自分” だと思っている、この “知識と記憶の集積” が打

壊されたり、吹き飛ばされたりする言葉に出会う時、人は

「うわっ!」と思う。その驚きの積み重ねが、表面上の自分

から、深い所の自分へと意識を押しやってくれる。それはと

てもとても幸運なことだと私は思っているけれど、普通、人

はそれを嫌がりますね。アタマが嫌がる。せっかくまとめ上

げている “自分” が壊れるから。

 「この “自分” でそれなりにうまく世の中を渡っているんだ

から、余計な事をしたら損だ」ということなんでしょう。そ

のくせ、誰もが悩みを抱えていて不満たらたらのくせにね。


 私みたいに「世の中と上手くやれないのは、世の中に問題

がある」なんて傲慢なことを思っている人間からしたら、

「世の中に不満や怒りが普通に転がっているのは、世の中に

問題があるからでしょう?後生大事にするほどのものです

か?」と言いたいんですけどね。


 世の中と上手くやれない人間は、多かれ少なかれ世の中か

ら外れているわけですから、自然と考え方やものの見方がラ

ディカルになるものです。それを「いけないこと」のように

思ってしまう “外れた人” も多いのでしょうが、「いけないこ

と」ではありません。自然なことです。

 いっそのこと、世の中の周辺でウロウロするようなラディ

カルさにとどまることなく、そのまま世の中から外れ、さら

に人間からも外れ  意識の上での話ですよ  生(なま)

の命にたどり着くほどにラディカルに徹すれば、生きること

を極めることになるように思います。


 書いているうちに、自分が “外人(外れた人)” だというこ

とが判明してしまった。なるほどな、ある意味私は「外人」

だ。

 こんな話がそこそこ面白いと思ってもらえるとしたら、あ

なたも “外人” でしょうね。


   Where did you come from ?

   I'm from Lifeside.


 世の中の外に私たちはいますが、ここは命の世界ですよ。


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