2022年7月10日日曜日

母なる「死」



 わたしたちは「死」から生まれてきた。

 このブログを書いているうちにそう思うようになって、そ

のことをブログにも書いた。  “「死」は「生」の母体だ” と

も書いたけれど、それは私にとって大きな収穫だった。


 “「死」は「生」の母体”  その意識は私をとても安心させ

る。

 「死ぬことは奈落の底へ落ちるようなことだ」とでもいう

ようなイメージを追いやってくれる。

 「恐ろしい事に怯えていたが、母親に抱かれながら怖い夢

を見ていただけだった」というような安堵感を持たせてくれ

る。ありがたいことだと思う。


 「死」を恐れるのはわたしたち人間のエゴだけだ。それ

は、エゴが「死」からも「生」からも浮いているからだ。

 エゴは「自分」という夢の中に居る。それは一見「生」の

中にあるように見える。けれど、真相は違う。

 「生」は「死」から続く命の流れの中の一コマなので、本

当に生きていれば「死」を拒む理由は無い。それは自然な流

れだからだ(暴力による死はまた少し違うけど)。けれど、

エゴはその自然な流れから浮いてしまっている。ズレてい

る。だから「死」が了解できない。「生」を感得する事さえ

できない。エゴは命の循環からはぐれ、迷子になっている。

 迷子なので、常に不安で怯えている。その不安から逃れよ

うと、その場しのぎの仮の宿を探し求めてはしばし安堵する

けれど、すぐにその自己欺瞞を隠し切れなくなり、また不安

にかられる。そして、する必要のない事、しなくていい事を

して気を紛らわし、不安から逃れようとする。迷っていない

だと信じ込む。けれど、そんなことをしてもムダだ。


 「死」を受け入れない限り、人は迷い続ける。

 「死」を恐ろしいものとして拒み続ける限り、人は迷子の

ままだ。


 「生」にとって「死」が母であると気付くことは、我が家

の場所を思い出すことだ、我が家に帰ることだ。

 「死」という我が家の中で、しばしのあいだ「生」を経験

すればいい。本当に〈命〉の流れを感じればいい。


 「ああ・・。もしかしたら〈命〉のほんの一かけらかもし

れないし、ほんのつかの間の ”生” かもしれないけれど、疑

うことなく、私は〈命〉そのものなんだ・・・」と。


 この世界の誰がそう感じようとも、それを否定できる者は

いない。それは絶対に間違いではない。だって、誰もがそれ

ぞれに、いまここに在るのだから。




 

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