2017年12月30日土曜日

しゃぼん玉飛んだ・・


 シャボン玉 とんだ 

 屋根まで とんだ

  屋根まで とんで   

 こわれて 消えた


 シャボン玉 消えた

 飛ばずに  消えた

 生まれて  すぐに

 こわれれて 消えた


 風 風  吹くな

 シャボン玉 飛ばそ


 あまりにも有名な、唱歌『シャボン玉』の詞です。

 作者の野口雨情が、生まれて間もなく死んだ自分の子供を

想って書いたと言われます。


 私も子供の頃から好きな歌でしたが、大人になり、雨情の

悲痛な想いが詞に込められていると聞き、ショックを受けま

した。

 「雨情の子供の事ではない」とか、「たんにシャボン玉遊

びの情景を描いただけだ」とか諸説あるようですが、詞を読

むと、子供の儚すぎる一生を歌ったものだと、受けとめてお

いたらいい様に思います。


 ほんとに、人生はシャボン玉のようなものだと思います。

 屋根まで飛ぶにしろ、空まで飛ぶにしろ、「壊れて消え

る」さだめです。

 屋根だとか、他のシャボン玉だとか、他に較べるものがあ

ると、「高く飛んだ」とか「永く飛んだ」とか、「すぐに消

えた」とか思えるのでしょうが、一個のシャボン玉それ自身

からすれば、「生まれて、消えた」だけのことで、距離とか

時間の長さは関係ないことです。


 シャボン玉の、うすいうすい儚い膜は、わたしたちの命

(肉体としての身体)でもあるでしょうし、それぞれのエゴ

でもあるでしょう。

 この世界に生み出されて、ひととき漂いますが、その実態

はとても頼りなく、儚い、薄っぺらな被膜です。その中に

〈自分〉という実態があるわけではなく、中身はまわりと同

じ空気です。


 仏教では、〈山川草木 悉皆成仏〉「山も川も草も木も 悉

(あまね)く 、皆  仏(ほとけ)成り」と言い。この世界の

全てが〈仏〉だと言います。



 日本人は、死ぬと〈仏〉になるわけですが、シャボン玉が

はじけて、まわりの空気とひとつになるのと同じように、人

も死んで、身体とエゴが無くなると、まわりとひとつになっ

て〈仏〉になるわけですが、これを “生きている内にやろ

う” というのが〈仏教〉ですね。


 身体は、自然の要素を集めて作られていて、この世界の一

部のまま、世界の理(ことわり)のままに在りますが、わた

したちのエゴは世界の理から外れた在り方を求めたりする。

その為、世界との間に齟齬を生み出し、苦しむ事になる。

 わたしたちは〈自分〉というものを、あたかも “虹色に輝

くシャボン玉” の様に考えていて、その脆く頼りないものを

必死で守ろうとします。

 ですが、それは薄っぺらで儚い、すぐに消えてしまうもの

であり、それ故に「いつ壊れるか分からない」という不安を

持ち続けなければなりません。

 「そんなものは、さっさと壊してしまいなさい」というの

が、お釈迦さまの教えということです。

 「壊してしまって、世界に溶け込みなさい。溶け込んで、

世界とひとつになりなさい。エゴに区切られた小さな小さな

〈自分〉でいることが、苦しみを生み出すのです」と。


 〈 風 風 吹くな 〉と願っても、風は吹くのです。

 〈 生まれてすぐに 壊れて消えた 〉としても、風の吹く

中で、脆く頼りないエゴを守ろうと、苦しみ続ける日々が長

く続くことと、どちらが良いかは分からないのです。いや、

仏教からすると、どちらも同じなのです。


 虹色に輝いて見えるシャボン玉。

 でも、その虹色は光の当たり具合でまったく違うものにな

ります。

 平和な社会で「反戦」を唱える者は “虹色” ですが、戦争

中に「反戦」を唱える者は、“真っ黒” でしょう。

 世の中の状況しだいで、その色は変わります。

 世の中に翻弄され、拭いきれない不安を抱きつつ、“「虹

色であるはずの」自分のエゴ” を守り続ける・・・。

 「そんな、苦しい、自己満足でしかないこと、止めなさい

な」と、お釈迦さまは言う。


 野口雨情自身は、どこまで飛んだのでしょうか?

 二階の屋根まででしょうか?

 私は、どこまで飛ぶのでしょうか?

 誰も彼も、虹色に見えたり、暗く翳ったり。

 みんな、大して飛べずに、壊れて消えます。
 

 シャボン玉は、日々止めどなく生まれて来ます・・・。

 シャボン玉は、日々止めどなく消えて行きます・・・。
 

 シャボン玉の、中と外は同じです。

 シャボン玉の、薄い膜だけが、自己を主張し、異質なまま

であり続けようと望みます。けれど、それは必ず消えます。

 そもそも、この世界に相容れない異質なものであるからこ

そ、脆く儚いのですから。

 

 子供の口先のストローから生まれ出る、無数のシャボン

玉・・・・。それは、素直に美しく、愛らしい。

 それを作りだし、喜ぶ子供の姿も愛らしい。

 その情景は、この世で見られる最も美しいものの一つかも

知れない。

 虹色に輝くシャボン玉に魅せられ、無心にストローに息を

吹き込む子供の姿に、エゴの不安も強硬さも無い。


 私はシャボン玉が好きです。

 『シャボン玉』という歌も好きです。

 シャボン玉に魅せられる人も好きです。

 普段のわたしたちとは違い、シャボン玉に喜び、シャボン

玉を無心に作る時のわたしたちからは、エゴは消えていま

す。

 〈生まれてすぐに消える儚いシャボン玉〉を愛しく思う

時、わたしたちのエゴというシャボン玉ははじけて消えま

す・・・。


 風 風 吹くな  シャボン玉とばそ・・・・・。


  





 

2017年12月29日金曜日

12月のカマキリに。


 お昼頃、家の横に置いてある野菜のプランターの中に、一

匹のカマキリを見つけた。この時期にまだ生きているカマキ

リが居るとは思わなかったが、寒いし、寿命も尽きかけてる

だろうから、歩く事もできず、指で触れてもほんの少しカマ

を動かすぐらいだ。たぶん、今日中に死んでしまうだろう。



 命というのは、不思議なものだ。当たり前だが、どの命に

も限りがある。

 限りがあるのに生まれて来る。

 いや、限りがあるから生まれて来る。

 限りがなければ、〈命〉とは言えない。

 限りがあるからこそ〈命〉なのだが、その「限り」を目の

当たりにすると、人は理不尽さや不思議さを感じてしまう。

「限りがある必要があるのか?」というような・・。



 なぜ、〈命〉というものがこの世に生まれたか?

 科学者や宗教家たちが、その謎について答えを出そうとす

るが、そんなもの永遠に分かるはずが無い。(「答えを知っ

ている」という者もいたりするが)

 分からないまま、わたしたちはこの〈命〉を生きて行く。


 面白い話があります。

 クマムシという虫をご存じでしょうか?

 土の中にいる 1mmほどの小さな虫ですが、乾燥状態など

置かれると、カラカラになってしまい、生命活動を止めて

まう。つまり干物になってしまうのですが、水を掛けてや

ると復活して動き始める。仮死状態というより、一度死んだ

ものが、生き返ると考えた方がよい様な現象です。

 もしも将来、科学技術がさらに進んで、乾燥状態のクマム

シの身体を、そっくりそのまま人工的に作れるようになった

としたら、それに水を掛けると動き出すのだろうか?

 もし動き出せば、人類は生命を作りだした事になる。

 どう思います? 

 人造クマムシは動くでしょうか?


 これは〈楽しい話〉でしょうか?

 それとも〈気味の悪い〉話でしょうか?


 人造クマムシが動き出したとしたら、この宇宙の中に生命

が一つ増える事になるのですが、なにやら「宇宙のバランス

が壊れてしまうのではないか」という不気味さを、私は感じ

てしまいます。もし、そんな事が出来る技術が生み出されて

も、「止めておいて欲しいな」と思いますが・・・。


 私は、“生命の点数” みたいなことがあるんじゃないかと

思ってるんです。地球上の生命の量には限りが有ると。

 “生命の点数” というのは「評価」ではなくて、例えば大

腸菌一つが “1点” として、アリが十万個の細胞で出来てい

るとしたら、アリは “10万点” 。人間であれば、細胞の数が

37兆個といわれるので、“37兆点” という具合です。

 そういう風に、「細胞の数に換算して、地球上に存在でき

る生命の量には上限があるんじゃないかな?」と。

 クマムシが、(たぶん)死んでも復活するように、生命の

休止状態というのはあるのでしょうが、ある限界量を越えて

生命が存在することは、出来ないんじゃないかという感じが

するんです。だから、人間が生命を作りだすなんて話には、

なにやら不気味さと不安を感じてしまいます。

 ある生き物が増えれば、ある生き物が減る。

 そんなの当たり前の事ですが、地球規模で精緻で絶妙な

「命の平衡状態」が保たれている様な気がするのです。

 

 こういうオモチャが有ります

ね。片方の玉を持ち上げて手を

離すと、残りの玉にぶつかっ

て、反対側の玉が動く。

 そんな風に〈命〉の総量は一

定で、ある一つの〈命〉が止まると

同時に、別の〈命〉が動き出す。


 動いているのが一つの個体ということですが、その動きは

ほんの短い間でしかなく、すぐに別の個体の活動に代わって

しまう。なので、個体の動きは全体の活動の、“ある一面” 

として観るべきだろうと・・・。


 私は〈命〉をそんな風に捉えていて、個体ではなく、全体

としてのエネルギーの動きを、ひとつのものとして観るよう

にしています。全体でひとつの〈命〉だと。

 個体の死は、わたしたちの “まつ毛” が一本抜ける様な事

であって、全体の〈命〉の活動の “ある場面” でしかないの

だろうと考えています。


 そんな風に考えると、地球全体としての〈命〉が滅びない

限り、「命に限りは無い」ということになります。

 もちろん、個体の〈命〉は姿を変えますよ。でも、〈個〉

にこだわらなければ、わたしたちは「永遠の命」に近いもの

を生きていることになる。

 さらに、〈命〉が物質とエネルギーの循環で成り立ってい

る事を考えれば、〈命〉というものは宇宙全体の活動と観る

ことだって出来てしまう。

 〈命〉は「無限で永遠のものだ」と・・・。(話が飛び過

ぎですね。でも、“東大寺の大仏さん” とかは、そういう考

えを象徴したものですけどね)
 

 カマキリ一匹から、とんでもなく話をふくらましたもんで

すけど、「じっ」と死期を待ってるあの姿を見てると、愛し

くなってしまう。

 ひと夏を生き切って、「自分を終える」。

 他人事じゃない。

 一匹のカマキリの生涯に想いを馳せる。

 命は不思議・・・。




2017年12月28日木曜日

生きなければならないか?


 「もう生きていたくない」

 今この瞬間にも、そう思っている人が世界中に大勢いるだ

ろう。

 『生きることは苦である』とはお釈迦さまの言葉だけれ

ど、それなら「生きていたくない」と人が思うのは、ごく自

然なことだね。だから、昔から自殺する人が絶えない。それ

は自然な成り行きだろう。だって、苦しいだけなんだから。

 でも、自殺する人より、しない人の方が圧倒的に多いの

は、「苦しくとも生きたい」、「生きなければならない」と

いう思いが強い人の方が多いという事ですね。(もちろん、

「生きているのは楽しい。苦しくなんかない」という人もい

ますよ)

 「生きていたくない」と思う人と、「苦しくとも生きた

い」・「生きなければならない」と思う人の違いは何なの

か? 



 ひとことで言うと、〈生きることへの衝動の差〉でしょう

ね。

 「もう死にたい」・「もう生きていたくない」と思い、実

際に死んでしまう人の場合、〈生きることへの衝動〉が無く

なってしまっている。いや、むしろ逆向きになっていて〈生

きないことへの衝動〉が生まれてしまっているのでしょう。

 この世に生を受け、身に付けたはずの〈生きることへの衝

動〉が消えてしまったという事ですが、考えてみれば『生き

ることは苦である』というのですから、もともと〈生きるこ

とへの衝動〉というものを、持ち続けられることの方が変で

す。



 生まれたばかりの赤ん坊は、生物として〈生きることへの

衝動〉を持っています。生きようとしています。

 しかし物心が付いてしまうと、『生きることは苦』です。

意識の上では、〈生きることへの衝動〉は無くなるのが自然

です。ですが、普通はそうならない。なぜなら、『苦』でし

かないはずの『生きること』の中に、〈希望〉を見るからで

すね。その〈希望〉にすがって、〈生きることへの衝動〉を

保つわけです。

 ですが、『生きることは苦である』のに、なぜそこに〈希

望〉があるのでしょう? お釈迦さまが間違っているのでし

ょうか?



 お釈迦さまは間違っていないと思います。

 『生きることは苦である』からこそ、そこに〈希望〉を見

るわけですから。「生きることは楽」であれば、〈希望〉な

んて出る幕がありません。苦しいからこそ〈希望〉が欲しく

て、〈希望〉を見てしまうのですね。



 実のところ、〈希望〉を持つという事は『苦しみ』が存在

している事の証明です。『苦しみ』と言うのがオーバーなら

ば、『不満』と言っておきましょう。「満たされない」から

こそ、〈希望〉を持つのですね。〈希望〉を持っている人

は、「満たされてない」わけです。

 《「満たされていない」にも関わらず、〈希望〉にすがっ

て、何とか〈生きることへの衝動〉を保ち続ける》という、

涙ぐましい努力を続けているのが、大多数の人間です。

 そうした涙ぐましい努力を続けながらも、その僅かな〈希

望〉さえ見失ってしまった時、人は〈生きることへの衝動〉

を失い、〈生きないことへの衝動〉に満たされてしまう。

 何故そんな事になるかというと、そもそも〈希望〉という

ものが仮りそめの物だからですね。だって、「希れな、望

み」であって、そもそも無いものなんです。

 自分のことを振り返れば分かりますが、〈希望〉が100%

完璧に叶う事はまずありません。

 ある程度のことが叶えられたら、〈希望〉が叶ったと思う

ものです。ほとんど叶えられていなくても、『苦しみ』をや

り過ごすことが出来たら、「良しとしておこう」なんて思っ

て、元々の〈希望〉の事など忘れてしまいます。すぐに次の

『苦』が現れますからね。終わった事に関わってる暇はあり

ません。

 そんな「希れな、望み」ですから、運命がちょっと過酷な

方に動いてしまえば、跡形もなく消えてしまいます。新たな

〈希望〉を抱く余地さえ失ってしまえば、自分の周りには

『苦』しかありません。そんな状況に置かれたら、誰だって

〈生きることへの衝動〉を失ってしまうでしょう。

 〈生きることへの衝動〉を持ち続けられるかどうかは、ち

ょっとした運命の差によるものです。「心の強さ」というよ

うな下世話なものを持ち合わせているかどうか、という事で

はないのです。



 〈生きることへの衝動〉を失ってしまった人は、「苦しく

とも生きたい」とは思えません。その様に思えない状態が、

〈生きることへの衝動〉を失っているということですから

ね。その様な、〈生きることへの衝動〉を失ってしまった人

であっても、「生きなければならない」のでしょうか?


 そんな事は無いと私は思います。

 「生きなければならない」というのであれば、生きること

は “義務” になりますが、そんな義務はありません。


 「生きること」は義務ではありません。

 人に限らず、どんな生き物も、自然に生まれて来て、自然

に生きて行くだけの事です。「生きなければならない」なん

て、〈拳を握りしめて決意する〉ような大袈裟な事ではない

はずです。人だけが、血迷って余計なことを考えて、大袈裟

にしているだけです。そして、その大袈裟さが「生きるこ

と」を難しくしてしまって、弱い立場に立たされた人を〈絶

望〉させてしまう。

 どこかの誰かから吹き込まれた〈お話〉を、よく考えもせ

ずに “もっともらしく” 人に伝える人間ばかりなので、それ

があたかも〈真理〉であるかのように扱われている。

 世の中にはそんな〈お話〉がいっぱいです。



 「生きること」は、本来そんな大袈裟な事ではないので

す。



 「生きなければならない」ことも、「死ななければならな

い」こともありません。



 「生きられる」なら、生きて行くでしょう。

 「死んでしまう」のなら、死ぬでしょう。



 そんな風に考えるなら、それは〈生きることへの衝動〉と

〈生きないことへの衝動〉の間に立つことになります。



 〈生きることへの衝動〉が行き場を失った時、その衝動が

跳ね返って来て、〈生きないことへの衝動〉に姿を変えてし

まうので、「生きよう」と力まない方が良い。 


 人が生まれた時に持っている、“生き物としての〈生きる

ことへの衝動〉” は、物心が付くにしたがって “人としての

〈生きることへの衝動〉” にすり替わってゆきます。

 それは〈希望〉にすがる事で維持しなければならないもの

だし、世の中の変化によって失われたりしてしまいます。

 そんな不安定なものにすがっているからこそ、『生きるこ

とは苦』になるのですね。いつでも、グラグラです。だから

〈拳を握りしめて決意する〉ような努力が必要になります。

 そんな不安定な〈生きることへの衝動〉から離れると、自

動的に〈生きないことへの衝動〉も生まれなくなります。


 《力むことなく、ニュートラルな状態で「生きること」を

受けとめて行く》

 それが、お釈迦さまが『中道』と言った在り方でしょう。


 「生きなければならない」ことも、「死ななければならな

い」こともない。

 わたしたち一人一人の〈生〉には、何の “義務” もない。

 “成功” も “失敗” も無い。

 “達成” も “挫折” も無い。 

 力を抜いて、〈生〉の流れに気楽に付き合って行けばい

い。

 どこかの誰かから聴かされた〈お話〉は、〈お話〉に過ぎ

ないんですよ。





 

2017年12月27日水曜日

65Kg の身の程知らず 

 
 随分前、友達の I と話していたら、『65Kg理論』とい

自説を話してくれた。

 理論という程の事でもないのだが、〈人間の体重をだいた

い65Kgとして、人間は65Kg以上の重さが持つ “動き” だ

とか、“位置エネルギー” だとかいうものを理解できない〉

という話だ。

 65Kgというのは平均的な重さを言っていて、要するに

「自分の身の丈の程を越えた事は、本当には実感出来ず、理

解できず、イメージも出来ない」ということです。


 普通のわたしたちには、体重150Kgの相撲取りが、立ち

合いで、全力でぶつかって来る時のパワーを実感できない

し、イメージも湧かない。「死ぬかも知れない・・・」と想

像するぐらいだろう。

 重量 1 t の車を時速 60Kmで走らせていても、それが何

かにぶつかった時の破壊力を実感しているドライバーはいな

い。

 20 t の荷物を吊り上げるクレーンのオペレーターが、ク

レーンと一体化して、アームに掛かる重さまで感じながら見

事なアーム操作をして見せても、本当に 20 t という重さを

分かっているわけではない。あくまで、エンジンやモーター

やクレーンの強度・重さに助けられての能力だ。

 「重さだけではなく、大きさ、小ささ、速さ、遅さ、熱

さ、冷たさなどについても、わたしたちは自分の身の丈の感

覚からはみ出てしまう様な事については、本当の理解を持つ

事は出来ない」

 I は、その様なことを言って、私も即座に同意した。


 科学が、さまざまな資源を利用する道を拓き、テクノロジ

ーによって、人間が出来なかったはずのありとあらゆる事が

可能になり、人は自分の身の丈を忘れてしまった。

 65Kg ぐらいの体重しかなく、自分で目いっぱい走っても

せいぜい時速 30Km で数十秒しか走れないことを忘れて、

速 100km でクルマを乗り回し、悲惨な事故を起こす。

 木の棒をこすり合わせて火を起こしていたことなど忘れ、

爆弾を爆発させ、ミサイルを飛ばしてみせる。

 山の峠で、山の民と海の民が出会い、物々交換をしていた

ことなど知る由もなく、コンピューターのネットワークを使

い、AI に為替のトレードをさせて、悪ふざけとしか思えな

い様な額の 金(だとされる数字)を奪い合う。

 世界中のあらゆる所で、身の丈の感覚を知らない人間たち

が、水と大地と空と世の中を引っ掻き回している。田んぼを

ブルドーザーで耕すような調子で・・。


 〈昔は良かった・・〉とか、〈昔に返れ〉とか言う気は無

い。でも、人間のしている事を見ていると、「やり過ぎだ

ろ・・。正気じゃないよ・・」とは言いたくなる。

 そこに、十代の子供たちが、悪ふざけして警察の世話にな

るような事との、本質的な違いは無い。


 私と友達の I は、「これから先、人間はもっともっとバ

カな事を仕出かしながら、バカ丸出しで滅びて行くんだろう

な」と笑い合った。 笑うしかないので。


 物理的な例えを挙げたが、それだけではない。

 “働く” といった事でも身の丈を忘れている。


 「縄文人の一日の労働時間は、三時間ぐらいだったろう」

という研究結果があるそうだ。

 一日三時間働いて、生き、火焔型土器や土偶を作るような

精神的な余裕も持っていた。寿命は短かったろうし、大きな

ケガなどすれば苦しんだだろうが、高齢化社会の問題や、尊

厳死や臓器移植の問題で悩むことはなかった。

 寿命は短くても自由時間は長く、短い寿命ゆえに、人生の

密度は濃かったかも知れないし、バカな上司やノルマに悩ん

だり、町内会の揉め事やママ友との見栄の張り合いでウンザ

リするような事も無い。誰かと較べて、頭が良いとか悪いと

か、給料が多いとか少ないとかに気を揉むことも無い。


 時代が進む程に、わたしたちは活動量を増やし、エネルギ

ッシュに(石油や電気を利用してだが)働き、遊び、何をし

ているかと言えば、ひと時の興奮と自己満足を得たいだけ

で、〈悪ふざけ〉と言っても間違ってない様な事だ。挙句の

果てに、疲れ果てて愚痴を言い合ったり、病気になったりす

る・・。


 ほんとに、人間は〈身の程知らず〉になってしまった。


 自分の身の丈に合った生き方をすれば、それでいいはずな

んだ。

 私は、私の身の丈に合った生き方を・・。

 あなたは、あなたの身の丈に合った生き方を・・。

 誰かは、誰かの身の丈に合った生き方を・・。



 私が、成人してから読んだ数少ない小説のひとつに、リチ

ャード・バックの『イリュージョン』(村上龍 訳 集英社文

庫)がある。

 今までに、何度も読み返しているが、《わたしたちは社会

の見せる〈イリュージョン〉に惑わされて、自分の本質を忘

れ、“自分じゃない誰か” になって生きている》ということ

を書いている。(そういえば、フレデリック・バックのアニ

メにも『イリュージョン』という短編があった。テーマはや

はり〈社会の見せるイリュージョン〉だった・・)

 本当は自分にとって価値の無いものを、「価値が有る」と

思い込まされ、自分の身の丈を忘れてそれに関わり、気が付

けば  気が付かないままの方が多いが  社会に時間とエ

ネルギーを吸い取られている。


 自分に素直に、自分の身の丈に合った、気持ちよく居られ

る生き方を・・、して行きたいね。邪魔ものは多いけど。




2017年12月26日火曜日

「神の体内」で・・。


 今日、カフェチェーンの窓際の席で、コーヒーを飲みなが

ら外を行き交う人を眺めていたら、「神の体内」という言葉

が浮かんだ。人の流れが、あたかも赤血球の流れの様に見え

たのです。



 私は特定の宗教を信仰していないし、〈神〉という言葉

は、あまりにも手垢にまみれているので使いたくはない  

これまで、数え切れない人間が〈神〉の名の下に暴力をふる

い、〈神〉の言葉として自身の迷いを正当化してきたから。

〈神〉なんて言葉を使うと、何処から石が飛んでくるか分か

ったもんじゃない。

 けれど、人の流れが赤血球の流れの様に見えてしまったも

のだから、ほかの言葉で表現したのでは、どうもしっくりこ

ない。

 〈宇宙〉とか〈存在〉とか〈道(タオ)〉という言葉で、

同じものを指し示す事もできるけれど、それだと「人が赤血

球の様に、この世界の中の構成要素のひとつとして動いてい

る」といったイメージに繋がらない。仕方なく、リスクが大

きいけれど、〈神〉という言葉を使うしかなくなった。

 わたしたちは「神の体内」でうごめいている細胞の様だ。



 わたしたちの身体の中で、数え切れない種類の、無数の細

胞達が、それぞれの役目を果たしている。

 赤血球は脳の神経細胞が何をしているのか知らないし、肝

臓の細胞は毛根の細胞の役割を知らない。免疫系の細胞は、

侵入してきた細菌などを殺すだけでなく、もう不要となった

自分の細胞を破壊したりもする。

 それぞれが、どんな意味があるのかは知らないまま、各々

の役割を果たしてるのに、それでいてわたしたちの身体は絶

妙にコントロールされて、こうして生きている。



 この身体全体の活動をコントロールしているのは、DNA

に書き込まれたプログラムだと言っても良いのだろう。

 卵子が精子と受精した瞬間、生命の〈Enter〉キーがおさ

れ、プログラムが始動する。それは、日本全体のコンピュー

ターを一つのミッションに使う様な、想像を絶する、壮大な

仕事だ。

 それぞれのセクションは何が行われているのか知らない。

知りようもない。では、DNAは知っているのか?

 DNAも、そのミッションが何かを知らない。

 前のステージで〈Enter〉キーを押され、自身のプログラ

ムを実行してきただけなのだから。そして、前のステージの

DNAも、その前のステージで〈Enter〉キーを押されて動い

て来ただけなのだ。



 気の遠くなるような階層で、フラクタルなシステムが組み

上げられていて、それぞれがミッションをこなしているのだ

が、最終的な(「最初の」というべきか・・)目的はどのセ

クションも知らない。ましてや、末端の取るに足りない程の

端末には知るよしもない。

 人間というのは、その〈取るに足りない端末〉が〈自我〉

に目覚めてしまったものの様だ。

 〈自我〉に目覚めて、「このミッションの意味は何か?」

と問い続けている。



 しかし、赤血球が自身の役割を知ったところで何になる?

 赤血球が自身の役割が分からないとか、気に入らないとい

って、仕事を放棄したら? 身体は死ぬ。

 身体が死ねば、赤血球も死ぬ。

 赤血球は、赤血球として生きればいい。

 自身の役割をこなせばいい。



 ところが不幸にも〈自我〉に目覚めてしまった細胞たち

が、本来の役割以外のことをやり始める。

 余分なものを分泌したり、無限に増えようとしたり、別の

細胞になろうとしたり、他の細胞を攻撃したり・・・。

 赤血球が、肝臓細胞にも、神経細胞にも、免疫細胞にもな

らなくていいのに。ましてやガン細胞にならなくていい。そ

れぞれが、それぞれに、それぞれのことをやっているのだ。

 何も知らないまま、そのままでいいのに・・・。



 世界という〈身体〉の中でも、人間という〈細胞〉がそん

なことをやっている。『何か』が分からなくて・・。



 分からないままでいいのだ。

 分かろうとしない方がいいのだ。

 世界という〈生命〉の中で、自分という〈生命〉を生きれ

ばいいのだ。

 もちろん、それは個人や社会のエゴ(自我)にエネルギー

を注ぐ事ではない。

 もっともっとシンプルに、出来るだけ〈生命〉の働きに寄

り添って生きることだけれど。



 「神の体内」で〈自分という生命〉を生きる。

 何も知らないまま、ただ生きる。
 

 そんなイメージは、あなたの心を少し安らかにしないだろ

うか?
 

 生まれた時から、わたしたちは「神の体内」に生きている


 その理由は知らない。

 知らなくても生きている。

 知らなくてもいいのだ。

 知ろうとしない方がいいのだ。

 何も知らず、何も知ろうとせず、「神の体内」に居ること

に安んじて、ただ生きる。

 宗教の違いや、宗派や思想の違いなど超越して、本当の

〈信仰〉とは、そういうものだろう。



 (どうやら、私も〈信仰〉を持ってしまったようだ。

  れがどんな〈神〉か、どう呼ぶのかは知らないが・・。

  ・・・まぁ、そんなことも知らない方がいいのだろう)


 そういえば、《理由を知ろうとすることは、無限に続く

望と不安です》と、だいぶ前に書いたんだった。

 自分で忘れちゃうんだよね。

 でも、そんなもんでいいんだろうね。





2017年12月24日日曜日

「コミュニケーション」?


 窓の外のキンモクセイの木で、メジロがミカンを食べてい

る。

 キンモクセイにミカンが生っているのではないですよ。キ

ンモクセイの木に、私がミカンを置いているのです。

 毎年、冬になるとメジロが街中に出て来るので、メジロの

為にミカンを置きます。

 去年の春先、家の外にいる時に、メジロが「チューン、チ

ューン」と鋭く鳴きました。いつもと違って、その声が「今

年はもう山に帰るよ」と言っているように思えたので、「あ

あ、また冬にね」と答えたら、次の日からパタッと姿を見せ

なくなりました。

 バカみたいに思われるかも知れませんが、あれ以来メジロ

と友達になったような気がしています。アタマが悪いのかも

知れませんが・・。



 生き物に感情移入して、勝手なストーリーをでっち上げる

のは、結構多くの人がする事だと思います。

 自分の都合の良い様に、「アイツはわたしを気に入ってる

だろう」なんてことを考える。あるいは勝手にネガティブに

なって「アイツはわたしを嫌っているみたいだ」とか考え

る。

 ほんのちょっとした表情や仕草を見て、さまざまに思いを

めぐらせる。でも、それが的を得ているかどうか、本当のと

ころは分からない  聴くわけにいかない。それと同じこと

を人に対してもやる。



 なんだかんだと相手の考えを想像する。でも、それが的を

得ているかどうか、本当のところは分からない  聴いても

本当のことを答えるかどうかは、分からない。

 わたしたちは、ひとりで勝手に喜んだり悲しんだりしてい

る。子供の頃からずっと、年寄りになって死ぬまで。ほんと

にご苦労さんな事です。



 私は、出来るだけ「額面通り」に言葉を使います。(もち

ろん、笑いを取るとか、わざと持ってまわるとかいう時は別

ですが)

 人の言った言葉は、そのまま受け取る。

 自分が言う言葉は、そのままの意味で言う。



 誰でも〈本音と建て前〉とか、〈含みを持たせる〉とかい

った言葉の使い方をしますが、みんなが「額面通り」に言葉

を使うのなら、物事は随分とスッキリすることでしょう。

 けれど、人が「額面通り」の言葉を使う事はそんなに多く

はありません。かなり親密で気の置けない関係でなければ、

遠慮やごまかしや駆け引きや忖度などから、本心とは違う表

現を使う事が多くなる。

 誰でも、自身がその様な〈本心では無いこと〉を言う事が

多いので、他人も「〈本心では無いこと〉を言うものだ」と

知っている。その結果、人の考えをあれやこれやと想像する

ようになってしまう。そこには、誤解・曲解が生まれ、思い

込みや思い過ごしや、決め付ける・見くびる、といったトラ

ブルの種が生まれる。「額面通り」であれば、そんな問題は

起きないのだけれど・・。

 日本人が「コミュニケーション」という言葉をよく使うよ

うになったけれど、あの言葉を聞くと笑いたくなっちゃう。

 「みんながやってるのは、『コミュニケーション』じゃな

くて、大抵『駆け引き』でしょ?」

 いつもそう思う。



 夫婦で、親子で、兄弟で、学校や職場や遊びの仲間との間

で、『コミュニケーション』という名の〈駆け引き〉が行わ

れる。


 言葉で押したり、引いたり、ひねったり。

   少しでも自分が有利になるように。



 誘導したり、肩をすかしたり、煙に巻いたり。

   できるだけ自分が不利にならないように。



 そういうのがすごくメンドウで疲れるし、トラブルの元な

ので、私はなるべく「額面通り」に言葉を使う。

 「額面通り」に言葉を使えない場面なら、もう話さない。

 相手が言った言葉は、「額面通り」にしか受け取らない。

 それで相手が機嫌を悪くしても、「オレの知ったこっちゃ

ない」と思ってる。だって《機嫌の悪い奴はバカ》であっ

て、機嫌が悪いのはその人の責任だから。(こちらは〈本

心〉から話しているのだし、相手は勝手に配慮を期待して

いる  怠慢・手抜き・ズボラです  だけだから、こち

らに否は無い)



 お互いに〈駆け引き〉して、お互いに憶測し合って、確証

もなく喜んだり、悲しんだり、悩んだり、恨んだり、嫉妬し

たり・・・。「気の済むまでやってれば」とか思う。(そう

いう人に、気の済む時は来ないだろうけど)

 「メジロと友達になれた!」なんて言って喜んでるのは罪

が無くてイイ。バカだと思われるけど。



 《青天白日悞人多》   *悞=誤

 (せいてんはくじつ ひとを あやまること おおし)


 大智禅師という人の言葉ですけど、「人は何でもないのに


余計な詮索をして自分で苦しむ事が多い」と言う。



 《遍界不曾蔵》

 (へんかい かつて かくさず)


 これは道元禅師の言葉ですが、「この世界は、何にも隠し

ていない」と言って、〈人の計らいが物事の本質を見えなく

している〉と諭している。


 ほんとに、人は余計なことを考えて、余計なことをして、

ひとりで勝手に苦しんでる。ああ、アタマが悪い。

 メジロを見習ったりするのが、いいのかも。

 彼らが、余計なことを考えていないのは確かだ。







2017年12月22日金曜日

自分の身体は誰のもの?


 〈自分〉とは、わたしたちの〈身体〉のことでしょうか、

〈意識〉のことでしょうか?
 

 病気やケガをした時、わたしたちは「自分の身体の具合が

悪くなった」と考えます。〈身体〉は〈自分〉の一部だと考

えているんですね。何がそう考えているかというと、〈意

識〉が考えているわけです。もっと言えば、〈意識〉は〈身

体〉を所有物だと思っていたりします。ですから、風邪をひ

いたら風邪薬を飲んで風邪を治そうとします。〈身体〉は

〈意識〉の所有物なので、〈意識〉の管理下に置きたいので

すね。

 〈意識〉が〈身体〉の上位に居て、“〈自分〉にまつわる

すべての事は〈意識〉がコントロールするのだ” というの

が、わたしたちの〈自分〉の方針です。



 一方、〈身体〉の方は考える事が出来ません。その為、

〈意識〉のやりたい放題にやられっぱなしです。

 じつは、〈身体〉も神経や筋肉や皮膚や内臓と連携しなが

ら、化学物質のやり取りや、電気信号や、組織の緊張などを

使って考えています。しかし、その考えは言語化出来ない。

 〈意識〉に対して反対を表明したくても、〈意識〉に通じ

る言葉を持ち合わせていないので、唯々諾々と従うしかない

のが〈身体〉の日常です。



 “疲れてみせたり” 、“眠くなってみせたり” 、“胃が痛く

なってみせたり” と、言葉にならない言葉で〈身体〉の立場

を表明したりしますが、大抵無視されてしまいます。その結

果、病気で倒れたり、鬱病になったり、何かの依存症になっ

たりしてしまいます。



 本当は〈身体〉の方が、〈意識〉より上位の存在であるの

は明らかなんです。

 どんなにやりたいことがあっても、〈身体〉の求めに応じ

て毎日眠らざるを得ません。(「眠るのがもったいない」な

んて言う、アタマのおかしい人も時々いますね。)

 トイレに行きたくなっても、我慢し続ければどんな事にな

るかは、誰でも知っています。

 ところが、そういう “当たり前の事” は当たり前過ぎるの

で、〈意識〉は〈身体〉の優位性を忘れて、〈身体〉を支配

しようとします。ですが “〈身体〉という現実” は、 “〈意

識〉の生み出す妄想” に対応しきれず、頻繁に動きを止めて

しまいます。安全の為にリミッターが働いたり、本当に故障

してしまったりします。どこが〈意識〉上位なんでしょう?

 〈意識〉は、〈身体〉の声にならない声に耳を傾けて、

〈身体〉のサポート役になるべきなんです。


 〈意識〉は、本当は必要ない事、本当はやるべきでは無い

事を、必要だと言って〈身体〉に強います。

 〈身体〉は、本当に必要なこと、本当にやるべき事を知っ

ています。

 “〈意識〉の横暴” を強力に助長する現代の社会は、やが

てわたしたち人間の〈身体〉を亡き者にしようとするでしょ

う。(AIとロボットが社会に行き渡った時、人は何処で何

をしているのでしょうか?)
 

 わたしたちは、まず〈身体〉として生まれ、遅れて〈意

識〉が物を考え始めます。

 「はじめに〈身体〉ありき」なんですね。

 わたしたちを苦しめるのは、“〈意識〉の横暴” です。

 “〈アタマ〉が悪い” のです。

 〈意識〉に、「おまえは〈身体〉の僕(しもべ)だ」と言

い聞かせ続けて、〈意識〉に自身の立場を分からせる事が、

本当の安ぎへの道だろうと私は確信しているのです

が・・・





2017年12月20日水曜日

ビットコイン~また、やってら。


 ビットコインのことが、しばしば話題になる。

 私には全然関係ない話で他人事だけど、まぁ、人は歴史か

ら学ばないということを改めて確認する事柄ではあります。

 日本でバブルがはじけたのは、たった三十年ほど前だし、

リーマンショックはついこの間。ほんの少し歴史を振り返れ

ば、ビットコインの盛り上がりは “狂乱” だと分かるはずな

んだけど、やってる連中は自分のアタマの中のアドレナリン

やらドーパミンやらに陶酔して、もう後戻りが出来ないんだ

な。乱痴気騒ぎが終るのは、もうすぐだろうけど。


 金を儲けるということについて、随分昔(平成6年)に新

聞に投書したものが採用された事がある。今読み返しても古

くなっていないので、ちょっとここに載せてみよう。


 相変わらずの不況で、誰もが物価が下がること、収入が増

える事を望んでいるが、よく考えてみるとそんなことはあり

得ない。

 そもそも物には値段はなく、物の値段とはそれに関わった

人の手間賃だから、ある人の給料が上がればその人の関わる

物の値段が上がり、それを買う人は値上がりした分だけ自分

給料が上がらねばならない。そうなると、その分また物価

上がる。そうして物価と給料は同じだけ上がり続ける。

「ご苦労さん」のいたちごっこだ。

 もし物価の上昇より収入の上昇の方が大きいというのな

ら、それは誰かが搾取されているからだ。日本が富むために

アジアが、欧米が富むためにアフリカや南米が、人間が富む

ために自然が、というように。

 他人を食ってでも物質的に栄える方が好きだと言うなら仕

方ないが、その強がりの裏で、われわれは疲れ切っていると

言うのが、正直なところではないだろうか。


 という文章だけど、人が他人より儲ける為には、誰かか

ら・何かから搾取しない限りはまず不可能だ。


 先日、ネパールの奥地の不毛の土地で稲作などの農業を成

功させ、貧しい地域を救った日本人のエピソードをテレビで

観たけれど、搾取せずに豊かになった奇跡的な例だろう。

 普通に農業を始める場合、田畑を広げても、果樹園を広げ

ても、もともとそこに棲んでいる生き物から、生息場所を奪

う事になる。それは搾取です。

 例えば、焼畑農業には二種類あって、ひとつは森を焼いて

畑にし数年使った後に別の場所へ移動して、畑は森へ還すと

いうやり方で、ただ人間が移動して行くだけで、そこに搾取

は無い。

 もうひとつは、森を焼いて畑をどんどん広げて行く  

マゾンなどで行われている  やり方で、ひたすら森から搾

取し続けて行く。そして、人が増えるか、経済的に富を増や

すかしてゆく。そして同じ事が、人間同士の間で行われるの

が、いわゆる経済活動。


 権力や武力を握った者や、世渡りの上手い者が立場の弱い

人間の〈本来性〉を食い広げて、一方的に富んで行き、弱い

者は物理的に経済的に、あるいは精神的に住処を奪われてゆ

く。

 しかも、これは人間同士の間だけでは収まらず、必ず自然

破壊を伴う。

 「豊かになりたい!」という欲求は、〈余剰〉を生み出す

ことの陶酔に他ならないから。

 自然から収奪しなければ、〈余剰〉は生み出せないから。

 (先のネパールの例などを除いて)


 人間はエゴイスティックな喜びを得たいが為に、数千年前

から相も変わらず余計な事をして、自然と同胞を引っ掻き回

している。


 ビットコインで儲けて、ヘラヘラ笑っている連中をテレビ

で観ながら、「あぁ。人間だなぁ」と、こちらは「フッ」と

笑う。

 「ご苦労さん!」

 (ほんとの「ご苦労」はこれからだろうだけどね)