2017年12月15日金曜日

不老不死のお馬鹿さん


 《見るべき程のことは見つ》という平知盛の言葉にからめ

て前々回のブログを書きましたが、彼は享年三十四歳。もし

も、八十まで生きていたら、退屈で仕方なかったかも知れま

せん。

 私も「もうそんなに驚くような事はないなぁ」と思ってい

るのですが、世の中には「不老不死」なんてことを本気で望

んでいる人も居る様で、それには驚いてしまいます。(ほん

とは、「驚く」のではなくあきれているのですが)

 人間は、たぶん100年も生きたら、もう飽きてしまうだろ

うと思うんですが・・・、そう思いません?


 時代が変わって、世の中の出来事が変わって行けば、新鮮

な経験が出来ると思いますか?


 どんなに新しい経験をしたとしても、それを受け取るわた

したちの感覚と意識には、受け取る形式の限界がある様に思

うのです。


 気持ちよさも、驚きも、怖さも、その他の情動も、それぞ

れに感じるパターンの数に限りがある様に思います。

 気持ちよく感じるメロディーや和音のパターン、怖さや悲

しさを感じさせるシチュエーションの数。

 そういったものには、数に限りがあって、100年も生き

れば、ほとんど経験してしまっていて、どんなに新しい事が

起ろうが、過去に経験した事の類型の一つに過ぎず、新鮮味

が無くなっているだろうと思うのです。


 わたしたちの意識は、経験したことをどんどん整理してい

きます。カテゴリーに分けたり、さまざまにランク付けした

り、関連を記録したり・・。

 その結果、経験したすべては類型化されてゆき、歳をとれ

ばとるほど、新しい経験もそれまでに経験した事の類型とし

て、たいした刺激をもたらさずに処理されてしまうでしょ

う。その様になっているからこそ、わたしたちは経験を積む

程に、仕事でもプライベートでも、新たな出来事に落ち着い

て対処することが出来る様になります。


 ほんとうに「不老不死」になって、200年も生かされた

ら、心底飽きてしまって、「頼むから、もういいかげん死な

せてくれ!」と叫ぶのではないでしょうか。

 200年生きて飽きが来ない様なら、その人間の感受性は

ルの様に出来ていて、飽きない代わりに、喜びも感じられな

い事でしょう。そのような感受性なら、1000年生きよう

が、100000000年生きようが石ころが転がっているのと変

わりません。「『不老不死』をお求めなら、お好きにどう

ぞ!」と思いますね。


 「長生きしたい!」と切実に思う様な人は、自身の感性を

“閉じて” 生きて来た人ではないでしょうか。

 “何か” を怖れて、それを見ない様に、聴かない様に、触

れない様に、感性を “閉じて”生きて来た。

 その “何か” とは、〈生の真実〉というべき事で、それを

避けてきたために、「生きた」という実感が無い。だから、

長生きがしたい。長生きして、ほんとに「生きたい」か

ら・・。

 でも、そういう人が長生きしても、結局、感性は “閉じ

た” ままでしょうから、失望の時間が引き伸ばされるだけ

で、「ああ、長生きして良かった!」とは思えないままに死

ぬ事になる様な気がします。


 《見るべき程のことは見つ》というのは、出来事の数だけ

ではなくて、出来事の深さの事でもあると思います。


 《見るべき程のこと》とは何か?

 テーマパークや観光地やスマホの中にあるでしょうか?

 (おっと!自爆ネタだ
 

 どこにあるかではありませんね。

  “《見るべき程のこと》を見る目” があるかどうかですね。




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