2017年12月22日金曜日

自分の身体は誰のもの?


 〈自分〉とは、わたしたちの〈身体〉のことでしょうか、

〈意識〉のことでしょうか?
 

 病気やケガをした時、わたしたちは「自分の身体の具合が

悪くなった」と考えます。〈身体〉は〈自分〉の一部だと考

えているんですね。何がそう考えているかというと、〈意

識〉が考えているわけです。もっと言えば、〈意識〉は〈身

体〉を所有物だと思っていたりします。ですから、風邪をひ

いたら風邪薬を飲んで風邪を治そうとします。〈身体〉は

〈意識〉の所有物なので、〈意識〉の管理下に置きたいので

すね。

 〈意識〉が〈身体〉の上位に居て、“〈自分〉にまつわる

すべての事は〈意識〉がコントロールするのだ” というの

が、わたしたちの〈自分〉の方針です。



 一方、〈身体〉の方は考える事が出来ません。その為、

〈意識〉のやりたい放題にやられっぱなしです。

 じつは、〈身体〉も神経や筋肉や皮膚や内臓と連携しなが

ら、化学物質のやり取りや、電気信号や、組織の緊張などを

使って考えています。しかし、その考えは言語化出来ない。

 〈意識〉に対して反対を表明したくても、〈意識〉に通じ

る言葉を持ち合わせていないので、唯々諾々と従うしかない

のが〈身体〉の日常です。



 “疲れてみせたり” 、“眠くなってみせたり” 、“胃が痛く

なってみせたり” と、言葉にならない言葉で〈身体〉の立場

を表明したりしますが、大抵無視されてしまいます。その結

果、病気で倒れたり、鬱病になったり、何かの依存症になっ

たりしてしまいます。



 本当は〈身体〉の方が、〈意識〉より上位の存在であるの

は明らかなんです。

 どんなにやりたいことがあっても、〈身体〉の求めに応じ

て毎日眠らざるを得ません。(「眠るのがもったいない」な

んて言う、アタマのおかしい人も時々いますね。)

 トイレに行きたくなっても、我慢し続ければどんな事にな

るかは、誰でも知っています。

 ところが、そういう “当たり前の事” は当たり前過ぎるの

で、〈意識〉は〈身体〉の優位性を忘れて、〈身体〉を支配

しようとします。ですが “〈身体〉という現実” は、 “〈意

識〉の生み出す妄想” に対応しきれず、頻繁に動きを止めて

しまいます。安全の為にリミッターが働いたり、本当に故障

してしまったりします。どこが〈意識〉上位なんでしょう?

 〈意識〉は、〈身体〉の声にならない声に耳を傾けて、

〈身体〉のサポート役になるべきなんです。


 〈意識〉は、本当は必要ない事、本当はやるべきでは無い

事を、必要だと言って〈身体〉に強います。

 〈身体〉は、本当に必要なこと、本当にやるべき事を知っ

ています。

 “〈意識〉の横暴” を強力に助長する現代の社会は、やが

てわたしたち人間の〈身体〉を亡き者にしようとするでしょ

う。(AIとロボットが社会に行き渡った時、人は何処で何

をしているのでしょうか?)
 

 わたしたちは、まず〈身体〉として生まれ、遅れて〈意

識〉が物を考え始めます。

 「はじめに〈身体〉ありき」なんですね。

 わたしたちを苦しめるのは、“〈意識〉の横暴” です。

 “〈アタマ〉が悪い” のです。

 〈意識〉に、「おまえは〈身体〉の僕(しもべ)だ」と言

い聞かせ続けて、〈意識〉に自身の立場を分からせる事が、

本当の安ぎへの道だろうと私は確信しているのです

が・・・





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