2020年3月31日火曜日

闘いたがる人たち コロナ ⑲



 「あたまが悪さをすることを、“アタマが悪い” という」

 このブログの初回にその説明をして、その中にこんなこと

を書いた。



 〈わたしたちのアタマは、四六時中悪さをしているといっ

いいでしょう。そして、わたしたち自身を苦しめていま

す。それは時に想像を絶する恐怖として、時には巨大な怪物

なって、わたしたちを押し潰しさえします。〉 


 その意味合い通りのことが、いま世界規模で起きている。

 「新型コロナウイルスが人を死に至らしめる」というスト

ーリーが、“巨大な怪物” となって人々を恐怖に陥れ、わた

したちの暮らし・人生を押しつぶそうとしている・・・。

 その “怪物” は、いま書いたように、「新型コロナウイル

ス」そのものではなく、それが「人を死に至らしめる」とい

う “ストーリー” の方で、それはわたしたちのアタマが自ら

作り出したものです。いま、わたしたちの多くが「自家中

毒」を起こしている。


 こういうことを言うと、「現実に人が死んでるじゃない

か!」「人が肺炎になって苦しんでるじゃないか!」と詰め

寄られたりもするわけですが、「新型コロナウイル」が存在

しなくても、これまでも同じように人は肺炎になり、これま

でも同じように人は死んで来た。それなのに今回は、その

「これまでと同じような」事に、なぜか「異常事態」とか

「人類の緊急事態」といったストーリーが与えられ、人々が

恐怖している。

 この “恐怖を増大させようとするストーリー” を、なぜ世

界中の人が共有してしまうのだろうか? 私はずっと、それ

が不可解でしょうがないのだが、人というものは、ずっと昔

からそういうものなんだろうなとは思う。


 情報がリアルタイムで世界に広がる時代になって、昔から

起こってきたことの規模が世界レベルになっただけなんだろ

うな。テクノロジーは発達したけど、わたしたちのアタマは

相変わらずで、その「悪さ」も世界規模になったということ

なんだろう。


 それにしても、なぜこうも「恐怖」が好きなんだろう?

 私自身も「終末論」みたいな話があると、すぐに聞き耳を

立ててしまう。

 「スーパーボルケーノ」だとか「太陽のスーパーフレア」

だとか、「氷河期の到来」だとかいう話には引き込まれてし

まう。どうも、人間は「恐怖」に惹かれるようだ。


 「怖いもの見たさ」という慣用句があるね。なぜわざわざ

「怖いもの」を見たいのかというのは、たぶんもう心理学や

脳科学的な考察が有るだろう。それがどんなことか、的を得

ているかどうか知らない。人間の生存欲求や脳の報酬系の働

きが関係していそうだが、それがどういうことかはここでは

探らない。ここではもう少しいかがわしい所に答えを探って

みたいので。


 基本的に、マゾなんだろうなと思うね。人が。わたしたち

のアタマが。

 こういう自虐的な思考が好きなんだろう、アタマは。


 自虐的といっても、今回の騒動は、もちろん個人レベルの

ことではない。社会を一個の人格と捉えての話。

 自分たちが酷い目に遭い、それを耐え抜くことで達成感や

自己肯定感を得たいのではないだろうか。その為に、“事” 

を実際以上に重大だと演出したがるのでは?


 ウソをつくといういう意味ではない。本気でそう思い込

み、現実をその視点からしか見られなくなるんじゃないかと

いうことです。


 イタリアの新型コロナウイルスでの死者は10000人を越え

たそうだけど、それをどう見るかということです。イタ

の人口は日本の約半分。そして日本に次ぐ高齢化社会。

 それなら、イタリアでの年間の死者数は日本の半分ぐら

いだと考えていいだろう。


 60~70万人。

 イタリアでは毎年それぐらいの人が死んでいて、その八

割ぐらいが病死だろうから、今回のコロナウイルスでのイタ

アの死者数が、イタリアの年間死者数を特に押し上げるこ

は無いのではないか? もちろん、現段階ではわからない

れど、コロナウイルスによって、このペースで今年いっぱ

人が死に続けるとは思えない。ここ二週間ぐらいで鈍化

だろうと、私は見ている。


 “専門家” でもないのに、なぜそんなことが言えるかとい

うと、イタリアの「感染症弱者」の割合、「感染蔓延度」

(そんな言葉無いでしょうが)などを考えると  「考え

る」ではなく、「当てずっぽう」ですけど  、もうそろそ

ろ、イタリア国内では感染が行き渡って、死亡リスクの高い

人は淘汰されてしまうだろうと思うから(薄情な言い方でご

めんなさい。あえて、そういう表現をしています)。常識的

に考えて、そうならざるを得ないと思う。

 そして、その後半年ぐらいは、イタリアでの死者数(コロ

ナだけではないすべての死者数)は例年より低く推移するだ

ろうと思う。そして、最終的に、2020年の死者数は例年と

大差ないということになるだろうと思われる。


 よその国のことで「他人事だから」とこんな予測をするの

は品が悪いけど、ヨーロッパ・アメリカなどの動きがどうに

も気持ち悪いので、書き残しておきたい。そして、騒動が沈

静化したら確かめたい。私は「冷静」にものを見ていたの

か、「正常性バイアス」によって、見誤っていたのかを。


 新型コロナウイルスへの最善の対処法は、「それは無いこ

とにする」ということだと思ってる。

 去年までと同じように、「風邪っぽい人」はそれなりに行

動し、「肺炎」の人には、「肺炎」即した治療をする。たぶ

ん、それで大過なく済んでしまうことだろうと、私は思い続

けているのだ。だって、そもそも自然現象なんだから、来た

ら、去って行くんですよ。人が余計なことをしなければね。


 「恐怖」の対象を設定して、それを克服して自身(社会)

のヒロイズムを満足させるという、マゾヒスティックな欲求

に支配されて、しなくていいことをしているじゃないだろう

か?

 ヨーロッパ・アメリカなどで行われていることは、「余計

な事」なんだろうと思うね。





2020年3月29日日曜日

「ロックダウン」と「かすみ提」 コロナ ⑱



 ちょっと前に、『ウイルスと「移民・難民」』というタイ

トルで、「日本はなぜヨーロッパの国のようにコロナウイル

スで大混乱を起こしていないのか」という話(思い付き)を

書いたのだけれども、それに加えて、こういうことも考えた

(思い付いた)。


 昔からよく言われることだが、ヨーロッパ人は「自然は克

服するもの」と考えるが、日本人は「自然と折り合いを付け

る」ように動く。その違いが、日本とヨーロッパ・アメリカ

との状況の差を生んでいるのだろうと。感染症は自然現象だ

からね。


 「政府の初動が遅かった」などと言われるが、日本人は自

然の様子をうかがいながら、上手くやり過ごそうとするもの

だ。少なくとも今まではそうして来たし、その習性は深く根

付いているので、なんだか「ダラダラ」と動いているように

見える(実際そうだけど)。けれど、今回はそれが功を奏し

て、ヨーロッパの国などから「なぜ日本は、感染者・死者の

急増が抑えられ、社会活動をある程度維持できているん

だ?」といった驚きの声が出ることに繋がっているのだろ

う。


 日本人は「まず自然有りき」「自然には逆らえない」とい

う考えで生きてきた。

 「こちら(人)が、自然に合わせる」と。

 一方ヨーロッパの人は「自然は克服するもの」「自然の方

を変えて、こちら(人)に合わせる」というやり方で生きて

きた(中国もね)。

 言い換えれば、日本人は「現実的」で、ヨーロッパ人は

「観念的」なんだね。


 ヨーロッパの国は「観念的」でイデオロギーの力が強いの

で、「感染症」などという “不要な自然” は完全に排除しよ

うとする。

 イデオロギーの前には、人の暮らしだとかの “現実” は二

の次で、だから「ロックダウン」などということがすぐやれ

てしまう。もともと、「城郭都市」なんて作って、敵を排除

しようとしてきた人たちなのだから、ああいうやり方を選ぶ

のは自然なんだろう。それで上手くゆくのならいいけど、相

手の正体も状況もよく分かっていないまま強引なことをする

ので、あんなふうになってしまう。


 かたや日本では、様子をうかがいながら「のそのそ」「じ

わじわ」と「その場しのぎ」を続けている。「あんまり酷い

ことにならなければ、まぁいいか」というような感覚が根底

にあるのだろう。それが、日本がある程度の平静を保ってい

る理由じゃないだろうか。

 この感じで、「のそのそ」「じわじわ」と「その場しの

ぎ」で “いなし続けて” ゆけばいいと思うね。


 ところが、安倍総理などはヒロイズムが好きで、欧米風が

お好みなので、「コロナウイルスとの闘いに、完全に勝利す

る!」などと言ったりしてるし、小池百合子というお調子

のオバサンも「ロックダウン」とか「感染爆発」「オーバ

シュート」などとか言いたがる。

 総理大臣や首都の首長が、ああいう「観念的」な発言をし

ていては、この先不安だね。まぁ、そう言わざるを得ない事

  「安心安全原理主義者」どもが見張ってる  という

のもあるのは分かるんだけどね。


 極端な施策をとらずに、ある程度の発症者・死者は容認し

ながら、「のそのそ」「じわじわ」と事態をやり過ごすのが

日本的だし、かえって良い方向に向かうんではないだろう

か?そもそも、大した「感染症」でもないんだし。


 中国やヨーロッパ・アメリカのやり方は、「観念的」で強

引だよ。自分たちの世界に、「感染症」などという “自然” 

が断りも無く入り込んでくることが許せないんだろうな。だ

からこの程度の「感染症」でも、ヒステリックに排除しよう

とする。でも、その結果があの状況ではね・・・。


 武田信玄は洪水対策として「かすみ提」というものを作っ

た。

 洪水を完全に封じ込めようとするのではなく、堤が決壊し

て大被害にならないように、溢れた水を田んぼなどに流すよ

うに、わざと堤の一部を低くした。そのように、自然をいな

すのが、日本的で、かつ、賢いやり方だと思うね。受け入れ

つつ、「のろのろ」「じわじわ」とやり過ごす・・・。
 

 それで、日本がヨーロッパより優れてるとは言わないけれ

ど、自然との関わり方においては、上手なんじゃないかな。

まあ、経済に踊らされて、酷い失敗も沢山してきたわけだけ

どもね。


 「観念(アタマ)」が前面に出てくると、物事はロクな方

に進まない。



 

2020年3月28日土曜日

「恐怖」で死ぬのか? コロナ ⑰



 コロナウイルスでのイタリアの死者数の多さを見ている

と、「人は、過度な不安や恐怖によっても、死ぬのだろう

か?」などと考える。


 今回の死者の年齢層などを考えると、私はどうしても、こ

のウイルスが恐ろしいものだとは思えない。ただ、イタリア

の死者の増加スピードは少し早すぎるように思う。

 私が思うように「ウイルスはさほど恐ろしいものではな

い」という前提に立つのならば、イタリアの死者の増加スピ

ードは何故か?


 ストレスが身体的に大きな影響を及ぼすことは、今や誰も

否定しないだろう。自律神経の乱れや、免疫系への悪影響な

ど、さなざまな研究がなされ、心療内科などもすでに社会的

に認知されている。

 そもそも免疫力が低下している高齢者の場合、極度の「不

安・恐怖」によって、それがさらに低下し、炎症系の疾患を

発症して、さらに増悪することは十分に考えられる。

 さらに、イタリアの場合、パニック下で早くから医療機関

の機能が低下し、十分な医療が提供できず、それがさらにパ

ニックを増大させるということが起きているのかもしれな

い。

 また、ニュース映像にあるように、患者を裸でベッドに寝

かせるといった処置を見ていると、イタリア特有の医療慣習

のようなものがあって、それがかえって死者を増やしている

のかもしれないなどと思う。


 が、私の考えはさらに先へ進んでしまって、こんなことを

考えてしまった。


 「“恐怖” と “不安” により呼吸が浅くなる状態が続くと、

肺が委縮し、免疫活性が低下している人の場合、炎症反応が

極端に過剰になり、間質性肺炎にまで至るのではないか?」

 つまり、「恐怖によって、死に至る」のではないかと。


 もちろん、これは何のエビデンスも無い私の妄想ではある

けれど、第一次世界大戦中に「スペイン風邪」が猛威を振る

ったこととも考えあわせると、「あるかもしれない」ぐらい

には思う。当時、ヨーロッパは「恐怖」が蔓延していただろ

うからね。


 こんなことを書いていたら、映画の『リング』を思い出し

た。

 貞子の呪いを受けた者は、「恐怖」によって死んでしま

う。

 ヨーロッパやアメリカは、何か呪いを受けているのだろう

か?


 この前書いたような、「ナショナリズム」や、「個人主

義」や、「競争原理」などの反作用が、〈呪い〉となって

人々の「恐怖」を増大させて死に至らしめているのかもしれ

ない・・・。

 とはいえ、死んでいるのは平均寿命前後の人がほとんどな

ので、これはやっぱりヨタ話なんだろうな。


 遠くの国の、見知らぬ人とはいえ、そこには家族も友人も

いるのだから、死んだ人をネタにヨタ話をするのは下品だ

ね。

 ごめんなさい。


 ただ、「恐怖を起こさせるもの」より、「恐怖そのもの」

の方が人を不幸にし、死に近付けるのだとは思うね。

 恐怖すべきは、“「恐怖」という感情そのもの” なんだと

ね。



2020年3月27日金曜日

当たり前に死ねる世界を! コロナ ⑯



 ここのところ、コロナウイルスの話題をスルーしていたの

ですが、今回はまたそっちの話で・・。


 小池百合子という人は、相も変わらずお調子者で、「ロッ

クダウン」などという言葉を使いたがる。「都市封鎖。ロッ

クダウン」などと言う。「都市封鎖」で言い終えているの

に、そこに「ロックダウン」という同じ意味の言葉を被せ

る・・・。

 自分が「排除」という言葉を使って墓穴を掘ったのに、相

も変わらず、刺激の強い、きつい言葉を使いたがるのは、自

治体の首長としては相応しくないだろう。


 明るい話題の時に、盛り上げるための印象的な言葉を使う

のはいいだろう。けれど、今回のような時に、ネガティブな

強さをもつ言葉を使うことには慎重であるべきだと思うんだ

がね。

 「ロックダウン」どころか「都市封鎖」でもキツイ。

 こういう時には、もっとやんわりと表現するのが、リーダ

ーとしての心構えではなかろうかと思うのは私だけ?


 お調子者のオバサンの話はさておき、連日「コロナウイル

スに感染した70代の男性が亡くなりました」とか「80代の

男性が死亡しました」とか「90代の女性がコロナウイルス

に感染して亡くなりました」とかいう報道があるのだが、日

本の「平均余命」は83歳なのだ。70代・80代・90代の人

が亡くなるのは、平均的な事なんじゃない?

 マスコミというのは、異常な事や特異な事を報道するのが

信条なんだろうと思うのだが、なんだって平均的な年齢で死

ぬ人の事を一々報道するのだろう? 70~90代の人は、毎日

死んでますよ。癌や脳卒中や肺炎や心筋梗塞やらでね。なん

でコロナウイルスで死んだ人だけ特別扱いなの?


 日本では、平均すると毎日3500人位の人が死ぬのだが、

「平均余命83歳」というのは、その3500人の平均年齢が

「83歳」だと捉えてよいということだろう(いろいろと面

倒な理屈もあるようですが)。ならば、今回のコロナウイル

スで亡くなる人のほとんどが、70~90代だということは、

このウイルスが蔓延したところで、日本人の「平均余命」を

あからさまに引き下げることはないだろうと思われる。それ

ならば、いま起きていることは、「平均的な」ことなのでは

ないのか?どこが「緊急事態」なのか?

 70~90代の人が病気で死ぬことがニュースになるのな

ら、心筋梗塞や脳卒中や癌で死ぬ人のことも報道しなさい

よ。テレビは毎日5~6時間それを流すだけになるでしょう

がね。


 今回の騒動の報道などを見ながら、「気持ち悪いなぁ」と

思い続けてきたけど(ウイルスではなくて、人間の行動

が・・・)、今日になって、「なぜこんなことになるのか」

というのがやっと分かってきたように思う。


 わたしたちは、個人的には「死にたくない」。それで当然

です。それが「個人」としての当然の見方だ。けれど、社会

という枠で考えると、その見方は違ってくる。


 人というのは死ぬものなのだ。日本であれば、83歳ぐら

いで死ぬのが一般的なのだ。

 社会の状況・在るべき姿を考え、それがどうあるのが「普

通」か、「望ましい」かを考えるときに、個人の価値観を持

ち込むのは筋が違う。社会を見る時に、そこに個人の “情” 

や “理想” を持ち込むと、社会は機能不全を起こしてしま

う。日本だけでなく、今、世界で起きていることは、「“個

人の価値観” が “社会の価値観” を排除した」ということの

表れだと思うね。


 私は〈反社会的な人間〉で、「社会が個人を喰い潰す」な

どと言って社会を目の敵にしている人間だけど、今回のよう

な狂騒を見ると「社会全体の安定を考えようよ」と言いたく

なる。だってアタマが悪過ぎるんだもの。そもそも、社会と

いうものは狂っているけども、これ以上の「狂い過ぎ」は勘

弁してほしいものだ。


 「高齢者が死んでゆく」

 それは当然のことでしょ?

 高齢になるということは、「死に近づく」・「死にやすく

なる」ということでしょ?

 「重い基礎疾患を持つ」ということも、「死に近くなる」

ということでしょ?

 「その人の免疫力が低下している」のなら、一見健康で

も、本人も周りも知らないだけで、その人も「死に近付いて

いる」のでしょ?

 いつでもどこでも、ある割合で、“死に近付いている人” 

がいるのが当たり前です。「当たり前」のはずなんです。け

れど、今回の騒動を見ていると、その「当たり前」を受け入

れない人間が世界中に “蔓延” している。


 「病原性ウイルス」も「感染症」も自然現象です。それで

亡くなる人のほとんどが高齢者だというのも自然な事です。

それは「当たり前」のことです。でも、その「当たり前」を

受け入れたくないのです。わたしたちのアタマが、エゴ

が・・・。
 

 『都市封鎖』なんて言うけれど、それは、「熱中症で人が

死ぬから、東京を屋根で覆って日差しを遮ろう」とするよう

なものです。今回行われていることは物理的に見えにくいか

ら、その「異常さ」が無視されてしまうけれど、「ウイル

ス」や「感染症」よりも、それを「完全に排除しよう」とす

ることの方が “異常” なのです。アタマの妄想・暴走なので

す。

 人間にとって最大の脅威は、「ウイルス」でも「感染症」

でもなくて、わたしたち自身の “アタマ(エゴ)” です。


 このウイルスのせいで、十代・二十代の子がバタバタ死に

出したら・・・、私も深刻になってみます。





2020年3月26日木曜日

「いま、ここ」ばっかり。



 スピリチュアル系の本や、ネット上のその手のサイトなど

を見ても、その話の中心になって、やたらと出てくる言葉が

ある。「いま、ここ」。


 このブログでも、「いま、ここ」を結構使ってる。上の

〈ラベル〉にも、「いま、ここ」がある。

 そう言うしかないし、間違ってもいないと思う。加嶋祥造

さんの代表作も『タオ~ヒア・ナウ』だし、仏教では「即今

当所」という言葉があるし、自分や世界の本質を突き詰める

と、「いま、ここ」ってことになってしまう。


 けど、「いま、ここ」はこのごろあまりに使われ過ぎて、

言葉が安っぽくなってしまったように思う(こんなブログで

も使われるぐらいに・・・)。このままでは、「いま、こ

こ」という言葉が胡散臭いものになりそうな気がしている。

何とかしといた方がいいんじゃないか? と思って、これを

書き始めた。何とかなるかどうか知らんけど。


 このブログでは、これまでに、「いま」や「ここ」につい

て何度か書いてきた。

 「今、この瞬間は、全宇宙どこでも、今なんだ」とか、

「この瞬間は、すべての過去とすべての未来が、重層的に存

在している」とか「ここは、そこだ」とか・・・。

 そういったことをまとめると、「いま、ここ」は「全時間

(永遠)、全宇宙」と言えるのだ。


 う~ん。大袈裟なことになってしまった。


 実のところ、「いま、ここ」には、その伝えたいことがあ

まりにも微妙過ぎ、かつ、あまりにも壮大過ぎて言葉にでき

ないので、そのギリギリの表現として「いま、ここ」という

言葉ぐらいしか使えないというやむにやまれぬ事情がある。

「いま、ここ」を使わないとなると、黙っているしかないと

いうことにもなりかねない。まぁ、黙っていてもいいんだけ

ど、それじゃぁ親切心が足りない。命の本質は「慈悲」なの

で、黙っているわけにもいかない・・・。で、結局「いま、

ここ」などと言わざるを得ない・・・。


 その昔、倶胝(ぐてい)という坊さんがいた。彼は、悟り

や仏教の本質のようなことを尋ねられると、いつも黙って指

を一本立てたという。


 仏像の定番の一つに “釈迦誕生仏” というのがあるが、そ

の姿は右手で「天」を、左手で「地」を指している。それで

すべて。他には何も無いので、他にする事も言うこともな

い・・・。


 倶胝の指の先の極小の一点と、釈迦の示した「天」と

「地」の無限は同じもの。それを言葉にすれば、どうしても

何かを取りこぼしてしまう。仕方がないので「いま、ここ」

などと言うしかない羽目になる。

 他の言い方を考えても、「この、ここ」とか、「これ」と

か、「その、そのまま」などという言い方になってしまっ

て、大した違いはない。それどころか、もはや、「いま」も

要らないんじゃないかとは思う。なぜなら、「いま」が存在

するかどうかも怪しいものだから・・・。だって、「いま」

は常に過ぎ去り続けてるのだからね。さらに、「ここ」も怪

しい。前に書いたように、「ここ」は「そこ」でもあるし

(『そこは、どこ?』2019/10)宇宙全体でもある。「こ

こ」はあまりにも曖昧過ぎる。

 ということで、「いま」も「ここ」も出番は無くなってし

まった。

 やはり、倶胝のように指を一本立てるしかなさそうだ。


 はて? 私はいったい何を言わんとしているのだろうか?

 「いま、ここ」という言葉の値打ちを下げないようにしよ

うとしていたはずが、その「いま、ここ」はどこかに行って

しまった。いま、ここには、「いま、ここ」は無い。


 どうやら、「いま、ここ」という意識を持つこと

は、“「いま、ここ」さえ、無い” という「無」あるいは

「空」に目覚める最後のステップなのだろう。

 究極の、ギリギリの、「言葉」の最後の一段から、「言葉

の外」へ最後の一歩を踏み出すための・・・。

 

 「いま、ここ」から、「いま、ここ」へ。



 (最後、ちょっとカッコ良かったんじゃない?)







2020年3月24日火曜日

不幸になれない



 この前、『意識は青空』という話を書いて、「それって結

局、本質的にしあわせってことだな」と考えたりしていた。

 これまでも、《不幸な人もしあわせです》とか言ったりし

ていて、おなじことを違う角度から見て話しているわけなん

だけれど、究極のところ、こういうことなんだろう。


 《 わたしたちは、不幸になれない 》


 これが人気ブログなら、いろんな所から雨あられと石が飛

んできそうな気もするけど、幸いにもここはネットの辺境。

心配はいらない。


 不幸になったり、しあわせを感じたりしているのは、わた

したちのアタマであって、わたしたちそのものではない。

 アタマの「から騒ぎ」から離れたところにある “わたした

ちそのもの” は、常に安定状態。常に平静。いついかなる時

も、落ち着き払っている。「いかなる時」どころか、そもそ

もそこには時間が存在しないので、変化しようが無い。宇宙

の始まりから何も変わることなく “そのまま” のまま。変化

することがないので、アタマの生み出す不幸なども、何の影

響も与えない。だから不幸になりようが無い。不幸になれな

い。


 さっき、このブログを「ネットの辺境」と表現したけど、

ウソと噂と憎しみと妬みなどの生み出す罵詈雑言が溢れかえ

っているネット上のメインストリームは、アタマ達の世界。

それにひきかえ、この辺境は、アタマの「バカ騒ぎ」から遠

く離れていて落ち着いたものだ。ここには不幸は無い。(あ

らまあ、なんとしあわせなんでしょう)


 とうこわけで、いまここ(このブログ上)には「不幸は無

い」ということがあきらかになったので、今これを見ている

あなたも、“あなたそのもの” というしあわせに浸っている

のです。


 「しあわせだなんて思えない!」

 ですか?


 しあわせだと思う必要はないんですよ。

 しあわせかどうかなんてこともどうでもいい。
 

 あなた自身に対する、あらゆる形容詞や修飾語を取り払っ

て、“自分そのもの” を感じ取ってみれば、そこには、「無

意味」で「無価値」で、それ故に、“何にも乱されることの

ない自分” がある。


 “わたしたちそのもの” は、不幸になれないんです。





2020年3月21日土曜日

「音霊」



 「春宵一刻値千金」


 去年の春にそんな話を書いた。いまも、どこからかほのか

に甘い香りが漂ってくる。春の匂いがする。そんな匂いもさ

ることながら、「しゅんしょういっこくあたいせんきん」と

いう言葉の響きにも春を感じる。

 同じ漢字を中国人が読めば「ちんしょういーくーちーせん

くぉん」などという感じなんだろう(知らんけど)。


 人が言葉を生んだ時、その物(事)の印象が音となったは

ずだ。やがて、その音が逆に物事の印象を生むようになって

いっただろう。

 日本には「言霊」という考えがあって、それは言葉の持つ

「意味」に、魂なりエネルギーが宿っているということだろ

うけど、それと共に「音霊」というものもあるだろう。その

「音」の持つ印象やエネルギーというもの・・・。


 いまこれを書きながら、YouTube でケルトハープの音楽

を流しているが、そこに言葉はないし、外国の楽器で奏でら

れる、外国の音楽だ。けれど、私はそこからさまざまな気分

や感情を引き起こす印象を感じ取っている。たぶん、私が感

じるそれと同じものを、イギリスやアイルランドの人も感じ

るだろう。そのあたりの普遍性は何千年も前から変わっては

いないだろうと思う。人というものは、本質的に同じもの

だ。そこが「音楽は人種や国境を越える」と言われるところ

だろう。ならば、その “越えなければならない” 「人種」や

「国境」というものは何なのか?


 「種」であるとか「境」であるとかいう言葉は、ようする

に「区分け」なんだけど、人は言葉(文字・記号を含む)を

使うと、どうしても世界を分けてしまう。逆に言えば、「世

界を分ける為に」言葉を使う。

 それはしようがないことで、人の “必然” というものでも

あるけれど、「言霊」は世界を分けるけれど、「音霊」は、

世界をハッキリと分けはしない。


 楽譜を見ると、そこには一音一音分かれた音が書かれてい

るけれど、それを演奏する時には、それぞれの音に境目は無

い。音は言葉ではない。だから「人種」や「国境」という言

葉で規定した「区分け」を越える。


 この前、ルーシー・トーマスというイギリスの女の子のこ

とを書いたけれど(2/16)、彼女の唄を聴いていると、

「音楽は “バイブレーション” なんだ」と改めて思う。


 と、ここまで書いたところで、家の外を久しぶりに暴走族

(今もそう呼ぶのかな?)が通って行った。あれも一種の

「バイブレーション」ではあるけれど、「ノイズ」の部類に

入る(ちなみに彼らはちゃんとヘルメットをかぶり、赤信号

で止まっている。それはなおさら、彼らのバカさ加減を際立

たせる)。


 話を戻そう。音楽以前に、「音(音霊)」は「バイブレー

ション」だ。

 当たり前ですね。「音」は「振動」なんだから。


 カミナリの「ドーン!」という音。

 吹き荒れる風の音。

 木の葉のざわめく音。

 鳥のさえずり。

 小川のせせらぎ。

 浜辺に寄せる波音。


 それらの振動は、言葉を介することなくわたしたちの身体

に “何か” を伝える。

 それらは、世界の出来事を、「思考」を介することなく、

ダイレクトにわたしたちに伝える。出来事の「バイブレーシ

ョン」が、そのままわたしたちの中に入って来る。

 そこには「空気」(水や金属だったりもするが)の振動

が、肉体の振動に変わるという少しの変化はあっても、本質

的な違いは無い。世界と身体は分かれてはいない。「バイブ

レーション」が、世界と自分が「繋がっていること」を証明

する。

 音楽や自然の音に、心を躍らせたり、癒されたりするの

は、世界と自分が繋がっていることを感じられるからじゃな

いだろうか?
 

 「しゅんしょういっこくあたいせんきん」という言葉の

「音」を、イギリス人やアイルランド人に聞かせた時、そこ

にどんな「感じ」を持つか? その「音」から何をイメージ

するか? 訊いてみたい気がする。


 ああ。また、ルーシー・トーマスを聴こう。





 

2020年3月20日金曜日

意識は「青空」



 昨日「深刻さ」についてのブログを書いた後も、その話が

自分の中で続いて、重要なことに気が付いた。
 

 わたしたちは「深刻」になろうとしたら、かえって「深

刻」になれない。

 それだけではなくて、「悲しく」なろうとしても悲しくな

れないし、「怒ろう」としても怒れない。「不安になろう」

としても不安になれないし、「淋しく」なろうとしても淋し

くなれない。そういったネガティブな気分・感情というもの

を自分から生み出すことはできないようです  昨日も書い

たように「そういう事柄を考える」のではなくて、「直接、

そうなろうとする」場合ですよ。


 ところが、その一方で、「楽しい」とか「嬉しい」とか

「おだやか」といった、“いい気分” にはなることはでき

る!(もしかして私だけだろうか? 試して下さい)


 これは、大きな発見でした。

 どうやら、ネガティブな気分・感情と、“いい気分“ は、

同じ次元の感情ではないようです。

 ネガティブな気分・感情は、「思考」の働きで生まれるも

のであるのに対して、「楽しい」「嬉しい」といった “いい

気分” は、もともとわたしたちの意識に備わっているもの。

“意識の在り方そのもの” なのではないか? だから、そこ

意識を向けるだけでそれを感じられるのではないか?


 ネガティブな気分・感情は、それを喚起させる事柄に紐付

けなければ生み出せないけど、“いい気分” は「生まれる」

のではなくて、元々そこに在るものなのだ。


 “いい気分” は青空のようなもので、ネガティブな気分・

感情は、雨のようなものなのだろう。「出来事」という雲を

刺激して、自分で雨を降らせてしまうのだ。だから「空(く

う)」がしあわせのキーワードなのだ。

 そんな風にひとりで納得して、しあわせになってしまっ

た。


 「苦しく」なったら、自分から「もっと苦しく」なろうと

して下さい(くれぐれも「苦しいこと」を考えないよう

に)。

 そうして「苦しさ」を見失ったら、自分の中に「おだやか

さ」や「楽しさ」を探して下さい。必ず在ります。見つかり

ます。そして、それが自分の本質であることを確かめて下さ

い。


 わたしたちは、本来「おだやか」で「嬉しく」て「楽し

い」、“いい気分” の存在なのに、そこに流れてくる “出来

事という「雲」” を思考で刺激して、自分で雨を降らせてい

るようです。


 雲の周りには青空が広がっているし、雲自体も青空のアク

セントです。

 実際の雲はそれ自ら雨を降らせますが、思考の「雲」はそ

れ自ら雨を降らせない。


 本当ですよ。わたしたちの本質、意識の基本状態は「青

空」なんです。






2020年3月19日木曜日

「深刻さ」が、 “深刻な事態” を生み出すんだよ  コロナ ⑮



 新型コロナウイルの騒動が世界的に深刻な状況になってき

ているのだが、その深刻さとコロナウイルス本来の深刻さは

かなり違うものになっていると思う。

 コロナウイルスそのものの深刻さに比べてみると、それぞ

れの国の深刻な状況は、その五十倍ぐらいではなかろうか?


 「五十倍」というのは、コロナウイルスの感染を放置して

起こる社会的不利益に比べて、感染を防ごうとすることで起

きている社会的不利益は、その「五十倍」ぐらいあるだろう

ということです。(「五十倍」というのは、単なる雰囲気で

す)


 この騒動が起きて以来、私が注視し続けているのはその

「死者数」だけど、今に至っても、「死者数」を見る限り、

このウイルスは “雑魚” だと思う。それに比べて、社会の対

応の異常さが引き起こす害悪は途轍もないものになり始めて

いる。それは、「死者数」でもコロナそのものを越えると思

われる。なぜこんなことになるのか? それは、わたしたち

「深刻さ」による。


 “生まれつきボクたちは悩み上手にできている” (©井上

陽水)ので、ネガティブにもポジティブにも、すぐに「深

刻」になる。

 今回のような「目に見えない」ものが相手だと、なおさら

そうなりやすいけれど、「深刻」なのはウイルスでも病気で

もなくて、わたしたちのアタマの方です。ウイルスや病気が

「深刻さ」を伴っているのではなくて、ウイルスや病気とい

う情報を受け取ったわたしたちのアタマが、「深刻さ」とい

う心理的劇薬を産生して、心の中を、恐れや不安でいっぱい

にしてしまい、苦しむのです。


 本当は、この世界には「深刻な事」は何も無い。

 「深刻さ」はわたしたちのアタマの中にあるもので、

「事」の方が「深刻さ」を持っていることは無い。わたした

ちのアタマが「深刻さ」を産生しなければ、誰一人として不

幸になることはないし、社会の問題のほとんどすべては消え

てなくなる。「深刻さ」ほど害のあるものは他にないでしょ

うね。


 例えば、「コロナウイルスに感染した・・。死んじゃうか

もしれない・・・」というのと、「コロナウイルスに感染し

ちゃった! 死んじゃうかも~💛」というのでは、かなり違

う。出来事は同じでも、その受け取り方でその後の展開は大

きく違うだろう。

 前者も後者も、共に死んだとしても、どうせ死ぬなら、そ

れまで気楽に過ごした方がいいに決まってるし、明るくして

た方が免疫力が高まるとかいうので、病気自体も重くならな

いかもしれないでしょ?「深刻さ」は百害あって一利なし。

(ダイヤモンドプリンセス号に乗ってて亡くなった人も、不

安の中に押し込められるような状況にならなければ、助かっ

たかもしれないよ)


 わたしたちは、ネガティブな事だけでなく、ポジティブな

事に対しても「深刻」になるように思いこまされている。

 病気や失業などを「深刻」に捉えるのは当然ながら、遊び

さえ「深刻」に捉えて、「『春のセンバツ』が中止になっ

た・・・」と泣いたりする。野球は本来 “遊び” でしょ?


 「深刻」って、「深く刻む」ってことですけど、 何を

「深く刻む」のか?

 「価値あることだ」という思いを「深く刻む」のです。深

く刻み過ぎて、それが自分や社会による恣意的なものだとい

うことが忘れ去られてしまう。

 そして「深刻さ」は、本当に「深刻」なものになり、それ

ゆえにさらに「深刻」に感じられるようになり、いよいよ

「“深刻に” 深刻な」ものになる! 

 「深刻さ」は一旦産生されると、外からそれを止める働き

が入ってこないと、自己増殖してどんどん深くなってしまう

のです。怖いねぇ~。(怖いでしょ?)


 さて、ここへ来て、「なぜ、今日、この話題か?」という

ことなんですが、私は、今日、しなければならないことがあ

ったのですが、それがなかなか上手く出来ずに、ちょっとし

た「敗北感」というか「挫折感」のようなものを感じたので

す。

 それで、しばらく気が滅入ってしまったのですが、そのう

ちに「なんでこんなことで深刻になってるんだ?」と思い始

めて、ふと、こう思ったんです。

 「ホント、人間は “深刻” が好きだな。それなら、いっそ

のこと自分から “深刻” になってやれ!」

 そんな開き直りのいたずら心が湧いてきて、自分から「深

刻になろう!」としてみたんだけど・・・、これが面白いん

ですよね。自分から「深刻になろう!」とすると、「深刻」

になれないんですよ。

 「深刻になろう!」とすると、「深刻」が見当たらなくな

る。「深刻」が捕まえられない。何か「深刻になろう!」と

いう意識が壁になって、「深刻さ」が意識の外に追いやられ

てしまうようなんです。


 だいたい「深刻になろう!」なんて考え自体に「深刻さ」

は無い。むしろ「深刻さ」をなめてる。バカにしてる。「深

刻jさ」は、そんな態度が嫌いなようです。

 「深刻さ」は、「大変だ」と感じて、「なんとかしなくて

は」とか「逃げなくては」というように、その事を「重く」

扱かってもらえなければ、存在意義を失って消えてしまうの

です。


 軽いノリで書いてきましたが、これは結構「重要」なこと

ですよ。

 「深刻」にならなければ、“生きてゆくこと” はどうって

ことはない。


 今すぐ試せますよ。やってみてください。なんでもいいか

ら、自分から「深刻になろう!」としてみてください。「深

刻な事」を考えたりするのじゃなくて、直接「深刻に」なろ

うとしてみてください。絶対、なれませんから。

 「深刻」って、その程度のものだったんです。

 「深刻」って、浅かったんですよ。