2020年3月1日日曜日

「何ごとも無きぞ」



 今回のタイトルの「何ごとも無きぞ」というのは、昔のお

坊さんの残した言葉です(誰だったか憶えていない。確かめ

るのも面倒過ぎて・・・)。


 前々回、『何も起こっていないんだ』という話を書いてか

ら、この言葉を思い出して考えてる。


 「何ごとも無きぞ」


 この言葉は、「この世で起こっていることは、別に “何で

もない”」と受け止めるのが普通でしょうね。もう一つの受

け止め方が、「何も起こっていないぞ」ということでしょ

う。


 私はこれまで、この言葉を「この世で起こっていること

は、別に “何でもない”」というように捉えていましたが、

今回のことで変わりました。「何も起こっていない」とね。

(「別に “何でもない”」というのも、それはそれでいい)


 前にも書いたことがありますが、私の考えることにオリジ

ナリティなんかない。

 私の考えつく程度のことは、昔の人がとうに考えてる。私

は、それをどこかで聞きかじったか、昔の人の影響でそう考

える方へ動かされて行っただけのことです。


 ならば、昔の人がそんなに偉いのかと言えば、それもまた

違う。昔の人(最初に考えた人)は “世界” によってそこへ

導かれて行った。その結果として、その言葉を残したので

す。“世界” によって考えさせられた。さらに言えば、“世

界” が考えたのです。そしてその考えの一端が、今、私から

析出している。(かなり図に乗ったことを言っていますが、

それが「価値あること」だという保証は無いし、つまるとこ

ろ「何ごとも無い」のです)


 ”世界” は「何」を考えているのでしょう?


 今朝、玄関を出ると、春の匂いがした。

 ほのかに甘い香りもする。たぶん我が家のビオラとスイー

トアリッサムの香りだろう。日差しはまぎれもなく春の日差

しで、「ああ、春が来たんだ」と思う。そこかしこで木の芽

や草の芽、花のつぼみが膨らみだしていて、心が湧きたつよ

うな感じになる。「自分は本当に花が、植物が好きなんだな

ぁ」と改めて感じる。私は植物なんだろう。


 と、そんなことを考えていたけれど、私をそう考えさせた

のは、“春の匂い” と “春の日差し” だ。

 それは「私を使って “世界” が考え、自らの “春” を楽し

もうとしている」のかもしれない、などと思う。


 木々の若葉がどんどんと開き、次々にさまざまな花が咲き

だすこれからの季節を思うと、「何ごとも無きぞ」なんて気

にはならないね。「何ごとも在り過ぎ」ぐらいの気分だ。


 まったくもって矛盾した話だけれど、この世界では「何も

起こっていない」、と同時に「出来事が無限に起こり続けて

いる」んですね。言葉の上では破綻しているけれど、私の感

覚としてはそれで納得できるのです。



 そうそう、前にも書いた『バジル氏の優雅な生活』(坂田

靖子)の「スキャンダル・クラブ」というエピソードのラス

トシーンで、明るい日差しを仰ぎながらバジルがこう言う。

 「   いい天気だ。嫌な事など何ひとつ考えられやしな

いよ」


 『バジル氏~』の中でも好きなシーンの一つですが、わた

したちが考えなければ、「嫌な事」など世界に存在しないん

ですよ。そうは思えないのが普通ですがね。


 「何ごとも無きぞ」




   ノースポールとカレンデュラ(キンセンカ) 





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