2020年2月29日土曜日

コロナウイルスには殺されなくても、社会に生殺しにされる コロナ ⑦



 思い出したのだった。前に『安心・安全原理主義』

(2017/5)というタイトルで書いたとき、最後にこういう

ことを書いたのを。 




〈そのうち、そう二十年ぐらい先。時の、総理大臣か厚生労

働大臣が、こんなコメントを出すかも知れません。


 「生きていると、さまざまなリスクがあり、これらをすべ


て避けることは容易ではありません。ですから、国民の皆様


におかれましては、なるべく生きない様にして下さい」と。


 もうすでに、国民の何割かは、「生きていない」と思いま


すけどね。今。〉




 今回、安倍総理の打ち出した「休校」要請や、厚労省が出

している「なるべく出かけず、できるなら仕事も休ん

で・・・」とかいう公共広告は、まさに上に書いたことです

ね。二十年先ぐらいと書いたのに、三年足らずで現実化して

しまった・・・。ああ、怖い。


 私は「若くて健康な人がバタバタ死んでるわけじゃないん

だから、こんなウイルス感染、放っておけばいい」と思って

る人間なので、安心安全原理主義者に殺されないように外国

へでも逃げたいところだが、各国のコロナウイルス対応を見

ていると、日本と変わらない・・・。どうなってるんだ。


 私は、「安心安全原理主義」は日本で特に強い力を持って

いるのだろうと思っていたけど、もはやそういうことではな

いんだね。どこも一緒なんだ。

 今回のコロナ騒動は、みんながスマホばっかり見ているこ

とと関係ありそうだと思う。

 「スマホのせいでこうなった」というのではなく、みんな

がスマホを見ているようなメンタリティや行動様式と、この

騒動の “根” は一緒なんだろう。どう一緒なのかは、考えて

みてくださいな。


 現代は「生き辛い時代」だと言われる。昔だって生きるの

は大変だったろうけど、その大変さと、今の「生き辛さ」は

たぶん別物だ(昔を体験していないので、確証はない)。


 すべてをコントロールしようとする社会。そこに必要なの

は人間ではなくて、社会を社会の思い通りに動かすためのパ

ーツだ。そんなところに居たのでは、人が生き辛くて当然で

す。でも生き辛さを感じない人間もいる。そういう人間はみ

ごとに社会適応して、パーツに成れている。それを「社会的

成功」という。


 しかし、そんな成功者も、社会にとってはパーツの一つに

過ぎない。社会にとって大事なのは社会だけです。社会の維

持に必要があれば、簡単に見捨てる。今回のように「良しと

いうまでじっとしてろ!」みたいなことになる。人間の都合

は無視です。


 社会が守りたいのは観念としての社会であって、人が暮ら

している実社会ではない。

 「ウイルス」「感染症」という、得体のしれない、“自然”

いうコントロール外のものの侵入は、観念としての社会に

っては我慢ならないので、何を犠牲にしても排除したいの

しょう。わたしたちの「暮らし」なんかどうなってもいい

わけです。




 ということで、皆様におかれましては、「なるべく生きな

いで下さい」。


 さて、どうなるんでしょうねぇ・・・。私の知ったこっち

ゃないけど。



  
 

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