2020年2月29日土曜日

何も起こっていないんだ。



 今朝、目が覚めて何気なく窓の方を見た。

 ベージュのカーテンを透過して外の光が部屋をほのかに明

るくしている。

 壁、天井、カーテン、何一つ動くものが無い部屋の中で、

そのカーテンのドレープを見ていたら、突然こう思った。

 「何も起こっていない」


 部屋の中で何も起こっていないということではない。この

世界で「何も起こっていない」と思った。


 さあ、この説明は難しい。どう表現していいのやら。



 いままでに何度か《起こった時には終わってる》という言

葉を書いた。その言葉を捉え直すと「何も起こっていない」

と言えそうなので、その線で行こう。


 この世界のすべての出来事は、起こった時には終わってい

る。それは誰でもが納得できる事実です。わたしたちは、出

来事の「余韻」とでも言うべきことに、思考のエネルギーを

与え続けて、出来事に実体感を持たせているのです。が、そ

こには実体は無い。すべての出来事は、その都度「終わり続

けている」。わたしたちが意識した瞬間には、その出来事は

もう終わっている。存在していない。それは、今、この瞬間

には「何も起こっていない」ということなんです。


 今、この瞬間には「何も起こっていない」にもかかわら

ず、わたしたちの記憶の中には膨大な「起こった事」が蓄積

されている。けれど、その「起こった事」は、記憶が無くな

れば無くなってしまう。私に「起こった事」も、忘れてしま

えばもう「起こった事」でさえない。何もなかったことにな

るというより、何もなかったのです。


 わたしたちが思考のエネルギーを注ぎ続けなければ、「起

こった事」さえ消えてしまう。「私の父や母が生きていた」

ということは、私や家族の記憶に有っても、もうその二人は

この世界の何処にも存在していません。私や家族が死ねば、

父と母の存在したという記憶すら、この世界に残りません。

誰一人として記憶していない事は、存在しなかった事です。

「起こらなかった事」です。果たして私の父と母は存在して

いたのでしょうか?


 わたしたちは何を見ているのでしょう?何を聞いているの

でしょう?

 わたしたちは何をしているのでしょう?もとより、わたし

たちは居るのでしょうか?この世界は「在る」のでしょう

か?


 世界は在ります。

 厳然として、世界は在る。

 ただ、その在り方は、アタマが捉えているような在り方で

はない。


 こういうことにしておきましょう。


 《 無限の “在る” が、“今” に満ち満ちているのだ 》と。


 「何も起こっていない」

 ただ、今すべてが在る。



 (途方もないことを書いてしまったけど、私が書いたんじ

ゃない



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